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夷王の島 ──北海異聞──  作者: 灰神楽ねこ
第一部

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4/12

宇曽利の山

享徳《きょうとく》三年(一四五四年)、陸奥国田名部(たなぶ)。


田名部の春は遅かった。


館の裏手にはわずかな田畑が広がっていたが、雪解けの水を含んだ土は冷たく、農夫たちは今年も稲が実るかどうかを案じていた。

津軽の平野であればとうに始まっている仕事が、ここではまだ手につかない。


米は貴重だった。館の台所でも粟や稗を炊くことが多く、白い飯が膳に上るのは客を迎えたときくらいである。海辺には魚も貝も豊かにあるが、山を越えて運ばれてくる米は高かった。


安東師季《あんどうもろすえ》は、館の縁側に座り、庭先の梅を眺めていた。花はようやくほころび始めたところで、枝の向こうには、まだ雪の残る山並みが見える。


田名部へ来てから、もう十年近くになる。


館は決して粗末ではなかった。主殿には畳が敷かれ、馬屋には三頭の馬がいる。年貢も入り、家臣たちの扶持に困ることはない。

南部河内守政経の配慮によって、師季は安東家の一門として遇され、田名部の土地を預けられていた。

政経は師季の名によって津軽の安東旧臣を従わせ、さらに下北の蠣崎城《かきざきじょう》を拠点とする武士、蠣崎蔵人《かきざきくろうど》を牽制しようとしていた。

蔵人は南部氏に従わず、近ごろは周辺の武士を集めているという。


しかし、館の門には、いつも南部方の武士がいた。



「殿、河内守様より使者が参っております」

家臣の相原政胤《あいはらまさたね》が告げた。

「またか」

師季は立ち上がり、座敷へ向かった。


使者は田名部の監督を任されている南部方の武士、赤星右馬助《あかぼしうまのすけ》だった。

四十を過ぎた、日に焼けた顔の男で、師季に対しては常に丁重な言葉を使う。


「安東殿。先日の件、お考えいただけましたか」

「十三湊の旧臣どもに書状を出せという話か」

「左様にございます。河内守様は、これ以上津軽で争いが続くことを望んでおられませぬ」

「争いは終わったのであろう」

「下国家の義季殿は、昨年、狼倉館《おいのくらだて》でお果てになりました」

師季の眉が動いた。

「存じておる」

「さればこそ、安東殿のお言葉が必要なのです。下国家の名を慕う者たちに、南部家へ従うよう勧めていただきたい」

「わしに、安東の名をもって安東の旧臣を南部へ売れと申すか」


赤星は表情を変えなかった。

「津軽の民を再び戦に巻き込まぬため、と申し上げております」

「下北のことも案じておられるのであろう。蠣崎蔵人が兵を集めているそうではないか」

「根も葉もない噂までございます。南朝の御末を奉じているとやら」

「そのような話、信じる者がおるのか」

「万一にも信じる者がおれば、厄介にございます」

赤星はしばらく待ち、やがて頭を下げた。

「お考えくだされ。急ぎはいたしませぬ」


赤星が去ると、師季は座敷に残った。

相原が障子を閉めた。

「河内守は、殿を安東家の跡取りとして使うつもりでございましょう」

「今さら分かりきったことを申すな」

「申し訳ございませぬ」


師季はため息をついた。

「義季殿が討たれたと聞いたとき、わしは何をしたと思う」

相原は黙っていた。

「ここで酒を飲んでおった。南部の者が運んできた酒をな」

「殿」

「義季殿は七年戦った。わしは同じ七年を、この館で酒を飲みながら暮らしておった」

相原は師季の前に膝をついた。

「殿が生きておられることこそ、安東家の望みでございます」

「それを決めるのは、わしではあるまい」


師季は庭を見た。

梅の枝に、一羽の小鳥が止まっていた。


*


数日後、師季は浜へ出た。


館から海までは、馬で半日ほどだった。赤星は外出を禁じてはいなかったが、師季が出かけるときには必ず南部方の者が同行した。

この日も、赤星の郎党が二人、少し離れて馬を進めていた。


浜には小舟が何艘も引き上げられ、漁師たちが網を干していた。沖には、蝦夷ヶ島から来たという商船が一艘、錨を下ろしている。


師季は馬を降り、船頭と話していた商人に声をかけた。

「向こうの島から来たのか」

「へえ。宇須岸《うすけし》のあたりからでございます」

「どのような土地だ」

商人は少し考えた。

「海に突き出した山がございまして、その麓に家々が集まっております。浦を隔てたところには、ひときわ高い山がそびえております。海を渡る者には、よい目印でございます」

「人は多いか」

「宇須岸には、さほどおりませぬ。浜には和人も住んでおりますが、蝦夷の者たちの方が多うございます」

「島のほかの土地はどうだ」

「西の方には和人の館《たて》がいくつもございます。昆布も鮭も、毛皮もございます。鷲の羽などは、よい値で売れます。されど、館主《たてぬし》と申しても、勝手に蝦夷の者たちの山へ入ることはできませぬ」


「和人の館といっても、ろくでもない連中が多いそうですぜ」

荷を運んでいた別の船乗りが口を挟んだ。

「国元で人を斬った者、借財を踏み倒した者、主家を追われた者。海を越えれば誰も昔のことを知らぬと、向こうへ渡ってしまうそうで」

「お前はまた、そんな話ばかり拾ってくる」

商人は苦笑した。


傍らにいた船頭が笑った。

「あちらの者たちは、獲った熊の頭を飾って、酒を供えることがございます。わしも一度、見せてもらいました」

「熊に酒を飲ませるのか」

師季が尋ねた。

「いや、熊の姿で訪ねてきた神をもてなすのだそうで。わしにはよく分かりませぬがな」

「分からぬなら、笑うものではない」

商人がたしなめた。


師季は沖の船を眺めた。

「日ノ本の果ては外ヶ浜と聞く」

「さようで」

「田名部は、日ノ本の外か」

商人は困ったように笑った。

「それを申されますと、我らは果ての外で商いをしていることになりますな」

「蝦夷ヶ島は何だ」

「さて。さらにその向こうでございましょうか」

商人は笑ったが、師季は笑わなかった。

西の空の下に津軽の山々が青く霞んでいた。


*


その夜、師季の館に一人の男が訪ねてきた。

男は昆布を扱う商人を名乗った。

門番は初め、翌日に出直すよう命じたが、男が安東家に縁のある者から預かった品を持参したと告げると、相原が応対に出た。


男は懐から小さな包みを取り出した。中には、古びた書状が一通入っていた。

「花沢館《はなざわだて》の蠣崎季繁《かきざきすえしげ》様より、お預かりいたしました」

相原は顔色を変えた。


書状は師季のもとへ運ばれた。

師季は灯明の下で慎重に封を切った。


文面は短かった。

安東家の御一門が田名部におられることを案じている。蝦夷ヶ島の館主たちは、安東家との旧縁を忘れていない。もし渡海を望まれるならば、船を用意する。


ただし、島の館主が皆同じ考えであるとは限らぬ、とも記されていた。


師季は二度読み返した。

「季繁とは、どのような男だ」

使者は答えた。

「花沢の館を預かる御方にございます。武家の礼を重んじ、安東家の御由緒を深く敬っておられます」

「わしを迎えて、何を望む」

「それは、御自身でお尋ねくだされ」


師季は使者を見た。

「正直な男だな」

「嘘を申しても、海には通じませぬゆえ」

師季は小さく笑った。

「島は、暮らしよいか」

「冬は厳しゅうございます。米も鉄も、海を渡って参ります。館主と申しても、商人や蝦夷の首長と折り合いをつけねば、暮らしてはゆけませぬ」

「それでも季繁は、わしを迎えると申すか」

「はい」

「なぜだ」


使者は少し迷った。


「我が殿は、海の向こうのことをよくお尋ねになります。京のこと、武家のこと、諸国の作法のこと。安東家の御方をお迎えできれば、これほどありがたいことはないと」

師季は書状を畳んだ。

「わしは、京のことなど大して知らぬぞ」

「それでも、我が殿よりはよく御存じでしょう」

使者は真顔で言った。


*


脱出の準備には十日を要した。

近臣の相原政胤と河野政通《こうのまさみち》は、南部方に知られぬよう馬と兵糧を集めた。同行する郎党は五人に絞った。


師季は赤星に、山中の寺へ参詣したいと申し出た。

「宇曽利《うそり》の山へ、でございますか」

「義季殿の菩提を弔いたい」

赤星はしばらく考えた。

「それならば、我が郎党をお供につけましょう」

「供は足りておる」

「山道は険しゅうございます。案内《あない》が必要でしょう」

師季は赤星を睨んだ。

「わしが、この土地に何年暮らしておると思う」

赤星は頭を下げた。

「失礼いたしました。されど、河内守様より、御身の安全には十分に心を配るよう命じられております」

「わしを守るのか、見張るのか」

「どちらも、我が務めにございます」

師季は苦笑した。

「正直なことだ」


出立の日、赤星は自ら門まで見送った。

「日暮れまでにはお戻りくだされ」

「山の道次第だ」

「それは困ります」


師季は馬上から赤星を見下ろした。

「右馬助。そなたは、わしが逃げると思うか」


赤星は一瞬、言葉に詰まった。


「思いたくはございませぬ」

師季は手綱を引いた。

「ならば、そう思っておれ」


一行は山へ向かった。


*


昼過ぎ、道は杉とブナの林へ入った。

南部方の郎党二人が同行していたが、相原が先導し、河野が後ろを守っていた。

やがて、細い谷に差しかかったところで、相原が馬を止めた。

「この先、道が崩れております」

「別の道は」

「少し戻れば、尾根を越える道がございます」

南部方の郎党が顔をしかめた。

「そのような道は聞いておらぬ」

「昨年の大雨で、道筋が変わったのでございましょう」

相原は平然と答えた。


一行は引き返した。

しかし、尾根へ入ると、相原は突然馬を下りた。

「殿、こちらへ」

師季も馬を降りた。


南部方の郎党が声を上げた。

「何をなさる!」


河野が太刀を抜いた。

「騒ぐな」


郎党の一人が刀に手をかけたが、その前に相原が組みついた。二人は斜面に転がり、落ち葉を巻き上げた。もう一人は馬を返そうとしたが、河野が手綱をつかんだ。

「命までは取らぬ。おとなしくせよ」


短い争いの末、南部方の二人は縄で縛られた。

師季は二人の前に立った。

「河内守殿には、長らく世話になったと伝えよ」

「安東殿、これは謀反にございますぞ!」

「わしは南部の家臣になった覚えはない」

師季は言った。

「ゆえに、謀反には当たるまい」


一行は馬を捨て、山の奥へ入った。


*


その日の夕刻、赤星右馬助は、縛られた郎党たちの報告を聞いた。

「逃げたか」

「申し訳ございませぬ」

赤星はしばらく苦い顔で黙っていた。

「怪我は」

「一人、肩を打ちましたが、命に別状はございませぬ」

「そうか」

赤星は立ち上がった。

「馬を集めよ。山の出口を押さえる。浜にも知らせを出せ」

「追いかけますか」

「当たり前だ」

赤星は戸口へ向かった。

「安東殿をこの館の中で生かしておくことが、河内守様の御意向だった。海へ逃がしてしまえば、もはや我らの手には戻らぬ」


*


翌朝、師季たちは宇曽利の山中を進んでいた。

沢沿いの道にはまだ雪が残り、木々の間を吹き抜ける風は冷たかった。

やがて林がまばらになると、湿った土の匂いに混じって、鼻を刺すような臭気が漂い始めた。

岩の割れ目から白い煙が立ち上り、灰色の地面には黄色いものがこびりついていた。草木の生えぬ斜面を、白く濁った水が流れている。

ところどころで湯が湧き、地の底から低く唸るような音が聞こえた。


「何とも気味の悪いところだ」

河野が言った。

「硫黄でございましょう。宇曽利の山には、地の底から湯が噴き出すところがあると聞いております」

相原が答えた。


そのとき、岩陰から女の声が聞こえてきた。

声は低く、歌うように抑揚をつけて、同じ言葉を幾度も繰り返していた。

岩を回り込むと、小さな祠の前に老いた巫女が座っていた。白髪を後ろで束ね、膝の上に両手を置いている。その傍らには、旅装の男が一人、頭を垂れていた。


「口寄せか」

河野が呟いた。

巫女は一行に気づいた様子もなく、身体を前後に揺らしながら唱え続けていた。


「掛けまくも畏き、山の神、海の神、遠つ御祖《みおや》の御霊《みたま》、近き世に逝きし御霊。波の八重を越え、千島のその奥より、来ませ、来ませ、御霊よ来ませ……」


やがて巫女の肩が大きく震え、声が変わった。


「あな恐ろしや、恐ろしや。海は果てず、島は尽きず。百《もも》の島、三百《みもも》の島、そのまた奥に三百の島。日ノ本あり、唐子《からこ》あり、夜叉羅刹の住む島あり。昼は人の姿を取り、夜は鬼となりて海を渡る。波の果てには鬼王の宮あり、千の島を従えて、人の世に知られぬ法《のり》を守る……」


男は地面に額をつけたまま動かなかった。

巫女の声は次第に高くなり、最後には叫ぶような調子になった。


「行くな、行くなと波は鳴る。帰れ、帰れと風は吹く。渡る者は渡り、帰らぬ者は帰らぬ。あな恐ろしや、恐ろしや……」


声が途切れた。


師季はしばらく巫女を見ていたが、やがて相原に目を向けた。

「参ろう」



一行は岩場を離れ、再び山道へ入った。

いつの間にか、白い霧が流れ込んでいた。初めは谷底を這うほどだったものが、ほどなく木々の間を満たし、前を行く者の背さえ見えにくくなった。


相原が足を止めた。

「道が分かりませぬ」

「先ほどの沢へ戻れぬか」

「沢が幾筋にも分かれております。どちらから来たものか……」


そのとき、遠くから犬の吠える声が聞こえた。

一行は顔を見合わせた。


「追っ手か」

河野が刀の柄に手をかけ、師季は霧の奥を見据えた。犬の声は一度途切れたが、しばらくすると、先ほどより近くで聞こえた。

「急ぐぞ」

師季が言った。



一行が斜面を下りかけたとき、霧の向こうから若い男の声がした。


「そちらへ進まぬ方がよろしい」


師季は足を止めた。


「誰だ」


返事はなかった。

やがて白い霧の中から足音が近づき、木立の間に一人の若い男の姿が現れた。

粗末な旅装に、腰には刀を差し、背には弓を負っている。髪は乱れていたが、目つきは鋭く、一行の人数と装束を素早く見渡した。


「何者だ」


河野が太刀に手をかけた。

若者は立ち止まり、両手を見せた。

「通りがかった者にございます」

「このような山中をか」

「人の通らぬところを好む者もおります」

河野が眉をひそめたが、若者はそれ以上何も言わなかった。


師季は男を見た。

「この山に詳しいのか」

「しばらく山におります。修験の者たちと歩いたこともございます」

「海へ出る道を知っておるか」

「存じております。されど、あの谷を下りてはなりませぬ。ところどころ地面が崩れ、熱い湯が湧いております。知らずに踏み込めば、命を落としかねませぬ」

「我らを案内できるか」

若者はすぐには答えず、師季の背後にいる郎党たちへ目を向けた。


師季は懐から銭を取り出した。

「礼はする」

「銭をいただく前に、伺いたいことがございます」

「何だ」

「どなたに追われておられるのでしょう」


相原が一歩前へ出た。

「何を知っておる」

「犬の声が聞こえます。山で犬を連れて歩く者は、獣を追うか、人を追うかのどちらかです」

「我らが追われていると、なぜ分かる」

「先ほどから、皆様が後ろばかり気にしておられますので」

若者は相原を見たまま答えた。


師季が口を開いた。

「南部の者だ」

若者の目がわずかに動いた。

「南部の御家中に追われておられるのですか」

「そうだ。事情は今は話せぬ」

「承知いたしました」

若者はそう答えたものの、まだ動こうとしなかった。

「名は何と申す」

「信広《のぶひろ》にございます」

「姓は」

「……武田、と」

「と?」

「母が、そのように」

「どこの武田だ」

「若狭、と聞いております」


師季は相原と顔を見合わせた。

若者はそれ以上語ろうとせず、霧の奥へ目を向けていた。


そのとき、林の奥で枝の折れる音がした。

一行が振り向くと、霧の向こうに黒い大きな影が現れた。


熊だった。


春の山から出てきたばかりなのか、毛は荒れ、痩せていた。それでも人の背丈ほどの巨体があり、低く唸りながらこちらを見ている。


「熊だ!」


郎党の一人が叫んだ。

河野が太刀を抜いた。熊は一瞬立ち止まったが、すぐに四つ足で駆け出した。


「下がれ!」


信広が叫んだ。

彼は素早く背の弓を取り、矢を番えた。

熊はすでに十間ほどのところまで迫っていた。師季は太刀を抜こうとしたが、信広が前へ出た。

「動かぬでくだされ!」


弓弦が鳴った。


矢は熊の顔へ吸い込まれるように飛んだ。

熊は大きく身をよじり、地面に倒れた。落ち葉を巻き上げ、前足で土を掻いたが、やがて動かなくなった。


誰も声を出さなかった。

信広は弓を下ろしたが、すぐには熊に近づかなかった。しばらく様子を見てから、刀の柄に手を添え、慎重に歩み寄った。

矢は熊の眼窩から深く突き刺さっていた。


「死んだか」

河野が尋ねた。

「そのようです」

信広は答えた。


師季は熊を見た。

「一矢で仕留めたのか」

「運がよろしゅうございました」

「運でできることか」

信広は答えず、弓弦を確かめてから、弓を背に戻した。

「この辺りには、まだ熊がおります。先を急がれた方がよろしいかと」



一行は熊を残し、再び山道を進んだ。

霧はまだ濃かったが、信広は迷う様子もなく、岩場を避けて木々の間を進んでいった。

ときおり立ち止まって後ろの様子を確かめ、犬の声が聞こえると、進む方角を少し変えた。

しばらくすると硫黄の臭いが薄れ、足元には湿った落ち葉が積もるようになった。


「そなた、弓はどこで習った」

師季が尋ねた。

「関東で、ある武士に教わりました」

「名のある者か」

「よい師でございました」

信広はそれ以上言わなかった。


「関東から奥州へ来たのか」

「はい」

「ずいぶん遠くまで歩いたものだな」

「行くあてもございませんでしたので」

河野が信広を見た。

「そなた、蝦夷ヶ島のことは知っておるか」

「名は存じております」

「渡ったことは?」

「ございませぬ。どのようなところなのでしょう」

「わしも隅々まで知っておるわけではないが、和人の館がいくつもあって、蝦夷の者たちと商いをしておる」

「諏訪で聞いた話とは、ずいぶん違いますな」

「諏訪?」

「以前、立ち寄った社で、蝦夷には日ノ本、唐子、渡党《わたりとう》という三種の者がおると聞きました。渡党は津軽の外ヶ浜へ渡って商いをするそうですが、日ノ本や唐子は、言葉も通じぬ者たちだとか」


河野は以前、商船に乗って島へ渡ったときの話をした。和人の館があるのは南の海辺ばかりで、島の奥には足を踏み入れたことがないという。


「平泉では、北の海から毛皮や鷲の羽が運ばれてくると聞きました。常陸では、人の顔をした魚がおるとも」

信広がそう言うと、河野は笑った。

「魚の方は知らぬな」


やがて霧が薄くなり、木々の間から海鳴りが聞こえてきた。

師季は前を歩く若者に声をかけた。

「信広と申したな」

「はい」

「どこへ行くつもりだ」

「まだ、決めておりませぬ」

「ならば、わしと来ぬか」

信広は足を止め、師季を振り返った。

「どちらへ参るのでございます」

「蝦夷ヶ島だ」

若者の顔に、初めてはっきりとした驚きが浮かんだ。

「海の向こうへ、でございますか」

「そうだ」

「何をなさるおつもりです」

「わしにも分からぬ。だが、ここにはもう、わしの居場所はない」


信広は師季の顔を見た。それから、後ろに続く相原や河野、郎党たちへ目をやった。


「失礼ながら、どちらの御家中でございますか」

「安東だ」


信広はその名を聞いても、すぐには答えなかった。


「安東の御一族が津軽で南部と争っておられることは、聞いております」

「その安東だ」

「では、南部の者に追われておられるのも」

「そのためだ」


信広はしばらく黙って師季を見ていた。


「なぜ、わたしをお誘いになるのでございます」

「そなたの弓を見た。あれほどの腕を持つ者を、山に置いていくのは惜しい」

「弓を使える者なら、ほかにもおりましょう」

「だが、今ここにおるのはそなただ」


遠くで、また犬が吠えた。

信広は振り返り、音のした方角に耳を澄ませた。


「まずは、山を下りましょう。お話は、それからでも遅くはございますまい」


*


翌日、一行は大畑《おおはた》の川口に出た。

川が海へ注ぐあたりには、幾艘かの小舟が引き上げられていた。岸辺で網を繕っていた男たちが一行を見たが、声をかける者はいなかった。

蠣崎季繁が手配した船は、川口の沖に待っていた。船頭は師季たちの姿を認めると、小舟を岸へ寄せた。

「お待ちしておりました」

「追っ手は」

「まだ見えませぬ。されど、長居はできませぬ」

一行は荷を積み、次々に船へ乗り込んだ。

信広は少し離れたところから、船と船頭たちの様子を見ていた。河野が声をかけると、ようやく歩み寄った。

「乗らぬのか」

「参ります」

信広はそう答え、最後に船へ乗り込んだ。


岸を離れると、船はゆっくりと沖へ向かった。南東から吹く風を帆に受け、船は下北の浜を離れていった。

師季は船尾に立ち、遠ざかる下北の山々を眺めた。

あの山の向こうに田名部がある。西には、かつて安東氏が勢力を張った津軽の地がある。

しかし、今はそこへ戻れない。


「殿」

相原が声をかけた。

「寒うございます。中へお入りくだされ」

師季は首を振った。

「もう少し、ここにおる」


信広も舷側に立っていた。

海の向こうには、低く長い島影が見え始めていた。


「あれが蝦夷ヶ島でございますか」

信広が尋ねた。

「そうらしい」

師季は答えた。

信広はしばらく島影を見つめていた。

「ずいぶん、大きな島でございますな」

「わしも初めて見る」


二人は並んで、北の海を眺めた。

船は波を越え、蝦夷ヶ島へ向かって進んでいった。

田名部=青森県むつ市

宇曽利=恐山

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