宇曽利の山
享徳三年(一四五四年)、陸奥国田名部。
田名部の春は遅かった。
館の裏手にはわずかな田畑が広がっていたが、雪解けの水を含んだ土は冷たく、農夫たちは今年も稲が実るかどうかを案じていた。
津軽の平野であればとうに始まっている仕事が、ここではまだ手につかない。
米は貴重だった。館の台所でも粟や稗を炊くことが多く、白い飯が膳に上るのは客を迎えたときくらいである。海辺には魚も貝も豊かにあるが、山を越えて運ばれてくる米は高かった。
安東師季は、館の縁側に座り、庭先の梅を眺めていた。花はようやくほころび始めたところで、枝の向こうには、まだ雪の残る山並みが見える。
田名部へ来てから、もう十年近くになる。
館は決して粗末ではなかった。主殿には畳が敷かれ、馬屋には三頭の馬がいる。年貢も入り、家臣たちの扶持に困ることはない。
南部河内守政経の配慮によって、師季は安東家の一門として遇され、田名部の土地を預けられていた。
政経は師季の名によって津軽の安東旧臣を従わせ、さらに下北の蠣崎城を拠点とする武士、蠣崎蔵人を牽制しようとしていた。
蔵人は南部氏に従わず、近ごろは周辺の武士を集めているという。
しかし、館の門には、いつも南部方の武士がいた。
「殿、河内守様より使者が参っております」
家臣の相原政胤が告げた。
「またか」
師季は立ち上がり、座敷へ向かった。
使者は田名部の監督を任されている南部方の武士、赤星右馬助だった。
四十を過ぎた、日に焼けた顔の男で、師季に対しては常に丁重な言葉を使う。
「安東殿。先日の件、お考えいただけましたか」
「十三湊の旧臣どもに書状を出せという話か」
「左様にございます。河内守様は、これ以上津軽で争いが続くことを望んでおられませぬ」
「争いは終わったのであろう」
「下国家の義季殿は、昨年、狼倉館でお果てになりました」
師季の眉が動いた。
「存じておる」
「さればこそ、安東殿のお言葉が必要なのです。下国家の名を慕う者たちに、南部家へ従うよう勧めていただきたい」
「わしに、安東の名をもって安東の旧臣を南部へ売れと申すか」
赤星は表情を変えなかった。
「津軽の民を再び戦に巻き込まぬため、と申し上げております」
「下北のことも案じておられるのであろう。蠣崎蔵人が兵を集めているそうではないか」
「根も葉もない噂までございます。南朝の御末を奉じているとやら」
「そのような話、信じる者がおるのか」
「万一にも信じる者がおれば、厄介にございます」
赤星はしばらく待ち、やがて頭を下げた。
「お考えくだされ。急ぎはいたしませぬ」
赤星が去ると、師季は座敷に残った。
相原が障子を閉めた。
「河内守は、殿を安東家の跡取りとして使うつもりでございましょう」
「今さら分かりきったことを申すな」
「申し訳ございませぬ」
師季はため息をついた。
「義季殿が討たれたと聞いたとき、わしは何をしたと思う」
相原は黙っていた。
「ここで酒を飲んでおった。南部の者が運んできた酒をな」
「殿」
「義季殿は七年戦った。わしは同じ七年を、この館で酒を飲みながら暮らしておった」
相原は師季の前に膝をついた。
「殿が生きておられることこそ、安東家の望みでございます」
「それを決めるのは、わしではあるまい」
師季は庭を見た。
梅の枝に、一羽の小鳥が止まっていた。
*
数日後、師季は浜へ出た。
館から海までは、馬で半日ほどだった。赤星は外出を禁じてはいなかったが、師季が出かけるときには必ず南部方の者が同行した。
この日も、赤星の郎党が二人、少し離れて馬を進めていた。
浜には小舟が何艘も引き上げられ、漁師たちが網を干していた。沖には、蝦夷ヶ島から来たという商船が一艘、錨を下ろしている。
師季は馬を降り、船頭と話していた商人に声をかけた。
「向こうの島から来たのか」
「へえ。宇須岸のあたりからでございます」
「どのような土地だ」
商人は少し考えた。
「海に突き出した山がございまして、その麓に家々が集まっております。浦を隔てたところには、ひときわ高い山がそびえております。海を渡る者には、よい目印でございます」
「人は多いか」
「宇須岸には、さほどおりませぬ。浜には和人も住んでおりますが、蝦夷の者たちの方が多うございます」
「島のほかの土地はどうだ」
「西の方には和人の館がいくつもございます。昆布も鮭も、毛皮もございます。鷲の羽などは、よい値で売れます。されど、館主と申しても、勝手に蝦夷の者たちの山へ入ることはできませぬ」
「和人の館といっても、ろくでもない連中が多いそうですぜ」
荷を運んでいた別の船乗りが口を挟んだ。
「国元で人を斬った者、借財を踏み倒した者、主家を追われた者。海を越えれば誰も昔のことを知らぬと、向こうへ渡ってしまうそうで」
「お前はまた、そんな話ばかり拾ってくる」
商人は苦笑した。
傍らにいた船頭が笑った。
「あちらの者たちは、獲った熊の頭を飾って、酒を供えることがございます。わしも一度、見せてもらいました」
「熊に酒を飲ませるのか」
師季が尋ねた。
「いや、熊の姿で訪ねてきた神をもてなすのだそうで。わしにはよく分かりませぬがな」
「分からぬなら、笑うものではない」
商人がたしなめた。
師季は沖の船を眺めた。
「日ノ本の果ては外ヶ浜と聞く」
「さようで」
「田名部は、日ノ本の外か」
商人は困ったように笑った。
「それを申されますと、我らは果ての外で商いをしていることになりますな」
「蝦夷ヶ島は何だ」
「さて。さらにその向こうでございましょうか」
商人は笑ったが、師季は笑わなかった。
西の空の下に津軽の山々が青く霞んでいた。
*
その夜、師季の館に一人の男が訪ねてきた。
男は昆布を扱う商人を名乗った。
門番は初め、翌日に出直すよう命じたが、男が安東家に縁のある者から預かった品を持参したと告げると、相原が応対に出た。
男は懐から小さな包みを取り出した。中には、古びた書状が一通入っていた。
「花沢館の蠣崎季繁様より、お預かりいたしました」
相原は顔色を変えた。
書状は師季のもとへ運ばれた。
師季は灯明の下で慎重に封を切った。
文面は短かった。
安東家の御一門が田名部におられることを案じている。蝦夷ヶ島の館主たちは、安東家との旧縁を忘れていない。もし渡海を望まれるならば、船を用意する。
ただし、島の館主が皆同じ考えであるとは限らぬ、とも記されていた。
師季は二度読み返した。
「季繁とは、どのような男だ」
使者は答えた。
「花沢の館を預かる御方にございます。武家の礼を重んじ、安東家の御由緒を深く敬っておられます」
「わしを迎えて、何を望む」
「それは、御自身でお尋ねくだされ」
師季は使者を見た。
「正直な男だな」
「嘘を申しても、海には通じませぬゆえ」
師季は小さく笑った。
「島は、暮らしよいか」
「冬は厳しゅうございます。米も鉄も、海を渡って参ります。館主と申しても、商人や蝦夷の首長と折り合いをつけねば、暮らしてはゆけませぬ」
「それでも季繁は、わしを迎えると申すか」
「はい」
「なぜだ」
使者は少し迷った。
「我が殿は、海の向こうのことをよくお尋ねになります。京のこと、武家のこと、諸国の作法のこと。安東家の御方をお迎えできれば、これほどありがたいことはないと」
師季は書状を畳んだ。
「わしは、京のことなど大して知らぬぞ」
「それでも、我が殿よりはよく御存じでしょう」
使者は真顔で言った。
*
脱出の準備には十日を要した。
近臣の相原政胤と河野政通は、南部方に知られぬよう馬と兵糧を集めた。同行する郎党は五人に絞った。
師季は赤星に、山中の寺へ参詣したいと申し出た。
「宇曽利の山へ、でございますか」
「義季殿の菩提を弔いたい」
赤星はしばらく考えた。
「それならば、我が郎党をお供につけましょう」
「供は足りておる」
「山道は険しゅうございます。案内が必要でしょう」
師季は赤星を睨んだ。
「わしが、この土地に何年暮らしておると思う」
赤星は頭を下げた。
「失礼いたしました。されど、河内守様より、御身の安全には十分に心を配るよう命じられております」
「わしを守るのか、見張るのか」
「どちらも、我が務めにございます」
師季は苦笑した。
「正直なことだ」
出立の日、赤星は自ら門まで見送った。
「日暮れまでにはお戻りくだされ」
「山の道次第だ」
「それは困ります」
師季は馬上から赤星を見下ろした。
「右馬助。そなたは、わしが逃げると思うか」
赤星は一瞬、言葉に詰まった。
「思いたくはございませぬ」
師季は手綱を引いた。
「ならば、そう思っておれ」
一行は山へ向かった。
*
昼過ぎ、道は杉とブナの林へ入った。
南部方の郎党二人が同行していたが、相原が先導し、河野が後ろを守っていた。
やがて、細い谷に差しかかったところで、相原が馬を止めた。
「この先、道が崩れております」
「別の道は」
「少し戻れば、尾根を越える道がございます」
南部方の郎党が顔をしかめた。
「そのような道は聞いておらぬ」
「昨年の大雨で、道筋が変わったのでございましょう」
相原は平然と答えた。
一行は引き返した。
しかし、尾根へ入ると、相原は突然馬を下りた。
「殿、こちらへ」
師季も馬を降りた。
南部方の郎党が声を上げた。
「何をなさる!」
河野が太刀を抜いた。
「騒ぐな」
郎党の一人が刀に手をかけたが、その前に相原が組みついた。二人は斜面に転がり、落ち葉を巻き上げた。もう一人は馬を返そうとしたが、河野が手綱をつかんだ。
「命までは取らぬ。おとなしくせよ」
短い争いの末、南部方の二人は縄で縛られた。
師季は二人の前に立った。
「河内守殿には、長らく世話になったと伝えよ」
「安東殿、これは謀反にございますぞ!」
「わしは南部の家臣になった覚えはない」
師季は言った。
「ゆえに、謀反には当たるまい」
一行は馬を捨て、山の奥へ入った。
*
その日の夕刻、赤星右馬助は、縛られた郎党たちの報告を聞いた。
「逃げたか」
「申し訳ございませぬ」
赤星はしばらく苦い顔で黙っていた。
「怪我は」
「一人、肩を打ちましたが、命に別状はございませぬ」
「そうか」
赤星は立ち上がった。
「馬を集めよ。山の出口を押さえる。浜にも知らせを出せ」
「追いかけますか」
「当たり前だ」
赤星は戸口へ向かった。
「安東殿をこの館の中で生かしておくことが、河内守様の御意向だった。海へ逃がしてしまえば、もはや我らの手には戻らぬ」
*
翌朝、師季たちは宇曽利の山中を進んでいた。
沢沿いの道にはまだ雪が残り、木々の間を吹き抜ける風は冷たかった。
やがて林がまばらになると、湿った土の匂いに混じって、鼻を刺すような臭気が漂い始めた。
岩の割れ目から白い煙が立ち上り、灰色の地面には黄色いものがこびりついていた。草木の生えぬ斜面を、白く濁った水が流れている。
ところどころで湯が湧き、地の底から低く唸るような音が聞こえた。
「何とも気味の悪いところだ」
河野が言った。
「硫黄でございましょう。宇曽利の山には、地の底から湯が噴き出すところがあると聞いております」
相原が答えた。
そのとき、岩陰から女の声が聞こえてきた。
声は低く、歌うように抑揚をつけて、同じ言葉を幾度も繰り返していた。
岩を回り込むと、小さな祠の前に老いた巫女が座っていた。白髪を後ろで束ね、膝の上に両手を置いている。その傍らには、旅装の男が一人、頭を垂れていた。
「口寄せか」
河野が呟いた。
巫女は一行に気づいた様子もなく、身体を前後に揺らしながら唱え続けていた。
「掛けまくも畏き、山の神、海の神、遠つ御祖の御霊、近き世に逝きし御霊。波の八重を越え、千島のその奥より、来ませ、来ませ、御霊よ来ませ……」
やがて巫女の肩が大きく震え、声が変わった。
「あな恐ろしや、恐ろしや。海は果てず、島は尽きず。百の島、三百の島、そのまた奥に三百の島。日ノ本あり、唐子あり、夜叉羅刹の住む島あり。昼は人の姿を取り、夜は鬼となりて海を渡る。波の果てには鬼王の宮あり、千の島を従えて、人の世に知られぬ法を守る……」
男は地面に額をつけたまま動かなかった。
巫女の声は次第に高くなり、最後には叫ぶような調子になった。
「行くな、行くなと波は鳴る。帰れ、帰れと風は吹く。渡る者は渡り、帰らぬ者は帰らぬ。あな恐ろしや、恐ろしや……」
声が途切れた。
師季はしばらく巫女を見ていたが、やがて相原に目を向けた。
「参ろう」
一行は岩場を離れ、再び山道へ入った。
いつの間にか、白い霧が流れ込んでいた。初めは谷底を這うほどだったものが、ほどなく木々の間を満たし、前を行く者の背さえ見えにくくなった。
相原が足を止めた。
「道が分かりませぬ」
「先ほどの沢へ戻れぬか」
「沢が幾筋にも分かれております。どちらから来たものか……」
そのとき、遠くから犬の吠える声が聞こえた。
一行は顔を見合わせた。
「追っ手か」
河野が刀の柄に手をかけ、師季は霧の奥を見据えた。犬の声は一度途切れたが、しばらくすると、先ほどより近くで聞こえた。
「急ぐぞ」
師季が言った。
一行が斜面を下りかけたとき、霧の向こうから若い男の声がした。
「そちらへ進まぬ方がよろしい」
師季は足を止めた。
「誰だ」
返事はなかった。
やがて白い霧の中から足音が近づき、木立の間に一人の若い男の姿が現れた。
粗末な旅装に、腰には刀を差し、背には弓を負っている。髪は乱れていたが、目つきは鋭く、一行の人数と装束を素早く見渡した。
「何者だ」
河野が太刀に手をかけた。
若者は立ち止まり、両手を見せた。
「通りがかった者にございます」
「このような山中をか」
「人の通らぬところを好む者もおります」
河野が眉をひそめたが、若者はそれ以上何も言わなかった。
師季は男を見た。
「この山に詳しいのか」
「しばらく山におります。修験の者たちと歩いたこともございます」
「海へ出る道を知っておるか」
「存じております。されど、あの谷を下りてはなりませぬ。ところどころ地面が崩れ、熱い湯が湧いております。知らずに踏み込めば、命を落としかねませぬ」
「我らを案内できるか」
若者はすぐには答えず、師季の背後にいる郎党たちへ目を向けた。
師季は懐から銭を取り出した。
「礼はする」
「銭をいただく前に、伺いたいことがございます」
「何だ」
「どなたに追われておられるのでしょう」
相原が一歩前へ出た。
「何を知っておる」
「犬の声が聞こえます。山で犬を連れて歩く者は、獣を追うか、人を追うかのどちらかです」
「我らが追われていると、なぜ分かる」
「先ほどから、皆様が後ろばかり気にしておられますので」
若者は相原を見たまま答えた。
師季が口を開いた。
「南部の者だ」
若者の目がわずかに動いた。
「南部の御家中に追われておられるのですか」
「そうだ。事情は今は話せぬ」
「承知いたしました」
若者はそう答えたものの、まだ動こうとしなかった。
「名は何と申す」
「信広にございます」
「姓は」
「……武田、と」
「と?」
「母が、そのように」
「どこの武田だ」
「若狭、と聞いております」
師季は相原と顔を見合わせた。
若者はそれ以上語ろうとせず、霧の奥へ目を向けていた。
そのとき、林の奥で枝の折れる音がした。
一行が振り向くと、霧の向こうに黒い大きな影が現れた。
熊だった。
春の山から出てきたばかりなのか、毛は荒れ、痩せていた。それでも人の背丈ほどの巨体があり、低く唸りながらこちらを見ている。
「熊だ!」
郎党の一人が叫んだ。
河野が太刀を抜いた。熊は一瞬立ち止まったが、すぐに四つ足で駆け出した。
「下がれ!」
信広が叫んだ。
彼は素早く背の弓を取り、矢を番えた。
熊はすでに十間ほどのところまで迫っていた。師季は太刀を抜こうとしたが、信広が前へ出た。
「動かぬでくだされ!」
弓弦が鳴った。
矢は熊の顔へ吸い込まれるように飛んだ。
熊は大きく身をよじり、地面に倒れた。落ち葉を巻き上げ、前足で土を掻いたが、やがて動かなくなった。
誰も声を出さなかった。
信広は弓を下ろしたが、すぐには熊に近づかなかった。しばらく様子を見てから、刀の柄に手を添え、慎重に歩み寄った。
矢は熊の眼窩から深く突き刺さっていた。
「死んだか」
河野が尋ねた。
「そのようです」
信広は答えた。
師季は熊を見た。
「一矢で仕留めたのか」
「運がよろしゅうございました」
「運でできることか」
信広は答えず、弓弦を確かめてから、弓を背に戻した。
「この辺りには、まだ熊がおります。先を急がれた方がよろしいかと」
一行は熊を残し、再び山道を進んだ。
霧はまだ濃かったが、信広は迷う様子もなく、岩場を避けて木々の間を進んでいった。
ときおり立ち止まって後ろの様子を確かめ、犬の声が聞こえると、進む方角を少し変えた。
しばらくすると硫黄の臭いが薄れ、足元には湿った落ち葉が積もるようになった。
「そなた、弓はどこで習った」
師季が尋ねた。
「関東で、ある武士に教わりました」
「名のある者か」
「よい師でございました」
信広はそれ以上言わなかった。
「関東から奥州へ来たのか」
「はい」
「ずいぶん遠くまで歩いたものだな」
「行くあてもございませんでしたので」
河野が信広を見た。
「そなた、蝦夷ヶ島のことは知っておるか」
「名は存じております」
「渡ったことは?」
「ございませぬ。どのようなところなのでしょう」
「わしも隅々まで知っておるわけではないが、和人の館がいくつもあって、蝦夷の者たちと商いをしておる」
「諏訪で聞いた話とは、ずいぶん違いますな」
「諏訪?」
「以前、立ち寄った社で、蝦夷には日ノ本、唐子、渡党という三種の者がおると聞きました。渡党は津軽の外ヶ浜へ渡って商いをするそうですが、日ノ本や唐子は、言葉も通じぬ者たちだとか」
河野は以前、商船に乗って島へ渡ったときの話をした。和人の館があるのは南の海辺ばかりで、島の奥には足を踏み入れたことがないという。
「平泉では、北の海から毛皮や鷲の羽が運ばれてくると聞きました。常陸では、人の顔をした魚がおるとも」
信広がそう言うと、河野は笑った。
「魚の方は知らぬな」
やがて霧が薄くなり、木々の間から海鳴りが聞こえてきた。
師季は前を歩く若者に声をかけた。
「信広と申したな」
「はい」
「どこへ行くつもりだ」
「まだ、決めておりませぬ」
「ならば、わしと来ぬか」
信広は足を止め、師季を振り返った。
「どちらへ参るのでございます」
「蝦夷ヶ島だ」
若者の顔に、初めてはっきりとした驚きが浮かんだ。
「海の向こうへ、でございますか」
「そうだ」
「何をなさるおつもりです」
「わしにも分からぬ。だが、ここにはもう、わしの居場所はない」
信広は師季の顔を見た。それから、後ろに続く相原や河野、郎党たちへ目をやった。
「失礼ながら、どちらの御家中でございますか」
「安東だ」
信広はその名を聞いても、すぐには答えなかった。
「安東の御一族が津軽で南部と争っておられることは、聞いております」
「その安東だ」
「では、南部の者に追われておられるのも」
「そのためだ」
信広はしばらく黙って師季を見ていた。
「なぜ、わたしをお誘いになるのでございます」
「そなたの弓を見た。あれほどの腕を持つ者を、山に置いていくのは惜しい」
「弓を使える者なら、ほかにもおりましょう」
「だが、今ここにおるのはそなただ」
遠くで、また犬が吠えた。
信広は振り返り、音のした方角に耳を澄ませた。
「まずは、山を下りましょう。お話は、それからでも遅くはございますまい」
*
翌日、一行は大畑の川口に出た。
川が海へ注ぐあたりには、幾艘かの小舟が引き上げられていた。岸辺で網を繕っていた男たちが一行を見たが、声をかける者はいなかった。
蠣崎季繁が手配した船は、川口の沖に待っていた。船頭は師季たちの姿を認めると、小舟を岸へ寄せた。
「お待ちしておりました」
「追っ手は」
「まだ見えませぬ。されど、長居はできませぬ」
一行は荷を積み、次々に船へ乗り込んだ。
信広は少し離れたところから、船と船頭たちの様子を見ていた。河野が声をかけると、ようやく歩み寄った。
「乗らぬのか」
「参ります」
信広はそう答え、最後に船へ乗り込んだ。
岸を離れると、船はゆっくりと沖へ向かった。南東から吹く風を帆に受け、船は下北の浜を離れていった。
師季は船尾に立ち、遠ざかる下北の山々を眺めた。
あの山の向こうに田名部がある。西には、かつて安東氏が勢力を張った津軽の地がある。
しかし、今はそこへ戻れない。
「殿」
相原が声をかけた。
「寒うございます。中へお入りくだされ」
師季は首を振った。
「もう少し、ここにおる」
信広も舷側に立っていた。
海の向こうには、低く長い島影が見え始めていた。
「あれが蝦夷ヶ島でございますか」
信広が尋ねた。
「そうらしい」
師季は答えた。
信広はしばらく島影を見つめていた。
「ずいぶん、大きな島でございますな」
「わしも初めて見る」
二人は並んで、北の海を眺めた。
船は波を越え、蝦夷ヶ島へ向かって進んでいった。
田名部=青森県むつ市
宇曽利=恐山




