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夷王の島 ──北海異聞──  作者: 灰神楽ねこ
第一部

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3/12

帰らぬ将軍

文安《ぶんあん》二年(一四四五年)、津軽西浜。


引根《ひきね》の城では、朝から普請の音が響いていた。

安東康季《あんどうやすすえ》は土塁の上に立ち、沖を行く一艘の船を眺めていた。春とはいえ海風は冷たく、堀の底では人夫たちが泥に足を取られながら土を運んでいる。


昨年、康季は父の盛季とともに蝦夷ヶ島へ渡った。安東家と縁のある和人の館主《たてぬし》たちは父子を迎え、再起のために力を貸すと約束したが、盛季は島で病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

父を島に葬り、康季は津軽へ戻った。


十三湊《とさみなと》を取り戻せ。

だが、海を失うな。


それが、父が最後まで口にしていた言葉だった。



「殿、十三湊から返事が参りました」

差し出された書状は、かつての旧臣からだった。

旧領奪還の挙兵には加われぬと記されている。

「恩知らずにもほどがありましょう」

「だが、今は南部の扶持を受けておるのであろう」

康季はそう言って、書状を丁寧に畳んだ。

「妻子もおろう。こちらが勝つと決まっておれば、返事も違ったはずだ。兵は求めぬゆえ、米と塩を売ってもらいたいと返書を出せ」

「敵に通じた者から、兵糧を買うのでございますか」

「向こうが売ると言えば、商いをする相手が一人増える」

家臣が不服そうな顔をしたまま、去った。


入れ違いで、嫡子の義季《よしすえ》がやってきた。

「父上、西浜の者たちが兵を出すと申しております。百には足りませぬが、皆、馬を持つ者たちです」

「米も持ってくるのか」

「兵の話でございます」

「兵は食わずに戦うのか」

義季は眉を寄せた。

「されど、このまま待っていては、旧臣たちも次々に南部へ従ってしまいます」

「すでに従った者も多い」

「だからこそ、今のうちに十三湊へ兵を進めるべきです」

康季は息子を見た。

「お前は、兵を出す者たちが何を望んでおるのか、聞いたか」

「十三湊の奪還でございましょう」

「それだけではなかろう。戦が終われば、兵を出した者は土地や銭を求める。勝ったあとに分ける物がなければ、味方同士で争うことになる」

「勝たねば、分ける物もございませぬ」

「そうだ。ゆえに、勝つ前から考えておくのだ」

義季はしばらく父を見ていたが、やがて一礼して去った。


康季は再び海へ目を向けた。沖の船は、もう見えなくなっていた。


*


その年の冬、ポン・トマリの長老の家には人々が集まっていた。

炉には薪がくべられ、吊るされた鍋から魚の煮える匂いが漂っている。敷き皮の上には子供たちが座り、今夜も老人の話を待っていた。


「南のシサムのカムィトクィが、殺されたそうだ」

若者たちが顔を上げた。

「カムィトクィが?」

「そうだ。トサの大きな家の主より、もっと偉いという、あの主だ」

「殺せるのか」

老人は肩をすくめた。

「わしもそう思った。大きな家から動かず、山も川も越えて言葉を届けるという者だ。そんな者を、どうやって殺すのかとな」

「誰が殺した」

「その主に従っていたシサムの男だそうだ。自分の家へ招き、食べ物と酒を出した。そして、客が食べているところを、刀(エムㇱ)を持った者たちが襲ったという」


若い男が顔をしかめた。

「客を家に招いてから殺したのか」

「そう聞いた」

「食べ物を出しておいて」

「そうだ」


皆が黙り込んだ。

炉の薪がはぜる音がした。


やがて、年かさの男が言った。

「それでは、誰もその家《チセ》へ行かなくなる」

「わしもそう思う」

老人はうなずいた。

「客を殺すつもりなら、なぜ先に食べ物を出す。食べ物を分け合えば、その者は客になるではないか」

「それで殺した者は、どうなった」

「大勢のシサムに追われて、とうとう討たれたという」

「カムィトクィが怒ったんだ」

子供の一人が言った。

「そうかもしれぬな」

老人は笑ったが、すぐに首をかしげた。

「だが、妙な話がある。カムィトクィは死んだはずなのに、そのあと、またカムィトクィが現れたそうだ」

「生き返ったのか」

「わしもそう尋ねた」

「同じ姿だったのか」

「知らぬ。わしは最初のカムィトクィの姿も知らぬ」

「では、別のカムィが来たのか」

「シサムは、死んだカムィトクィの子だと言っておった」


若者たちは顔を見合わせた。


「カムィトクィにも子がいるのか」

「そういうことになるな」

「その子も、大きな家から動かずに言葉を届けるのか」

「そうだろう」

「では、父のカムィトクィは、どこへ行った」

老人は答えられなかった。


子供たちの間では、死んだカムィトクィが小さな姿になって戻ったのだという者と、父のカムィトクィが子の身体に入ったのだという者が言い争い始めた。

老人は子供たちをなだめ、鍋から魚を取り分けた。

「遠い南のことは、わしにもよく分からぬ。それより、トサのヤススエが戻ってきたそうだ」

「モリスエは?」

「北のモシリで死んだという」

老人はそう言って、しばらく炉の火を見つめた。


モリスエは、昔、トサの湊で毛皮を買い、鉄の斧を渡してくれた男だった。

数年前には、この浜から船に乗る姿も見送った。


「ヤススエは、ナンブと戦うのか」

「西の浜に大きな家を築いておる。戦うつもりなのだろう」

「トサへ戻るのか」

「戻りたいのだろうな」

年かさの男が口を挟んだ。

「だが、ナンブもトサを欲しがっている。シサムは、なぜ同じ土地を欲しがるのだ」

「船が集まり、物が集まるからだろう」

「自分で船を出せばよいではないか。トサでなくとも、船は着けられる」

老人は笑った。

「そうだな。その方が分かりやすい」

「戦になれば、また鉄が高くなる」

「そうならぬよう、来年は早く船を出した方がよい」

老人は鍋の蓋を取り、また魚を取り分けた。

外では風が強まり、家の壁を打っていた。


*


文安三年(一四四六年)、引根城。


康季は病床にあった。冬の間に患った病が春になっても癒えず、起き上がることさえ難しくなっていた。

枕元には各地から届いた書状が積まれている。義季が片づけようとすると、康季は手を伸ばした。

「一番上の一通を見せよ」

「父上、今はお休みください」

「十三湊からの返事だ」


義季は書状を渡した。

康季はしばらく文字を追っていたが、やがて息をついた。

「また断ってきたか」

「南部方の目が厳しいのでしょう」

義季は父の手から書状を受け取った。


「父上。こちらから兵を進め、力を示すべきです。待っているうちに、南部の支配は固まります」

「分かっておる」

康季は咳き込み、しばらく言葉を継げなかった。

義季が水を差し出すと、一口飲んで枕に身を沈めた。

「お前の言うことも、間違いではない。わしは城を築き、兵糧を集めた。だが、十三湊には一歩も近づけなんだ」

「父上は、海の向こうから戻られました」

「戻っただけでは足りぬ」

康季は天井を見上げた。

「わしは津軽へ帰れば何かが変わると思っておった。だが、戻ってみれば、昨日まで従っていた者が南部に仕え、書状にも返事を寄越さぬ」

義季は黙って聞いていた。

「それでも何もせずにおれば、安東の名を知る者が一人ずつ減ってゆく」

「ならば、なおさら」

「待て」

康季は息子の言葉を遮った。

「お前は、お前のやり方で戦え。ただ、戦を始める前に、終わったあとのことを考えよ」

「心得ました」

「十三湊を取り戻せ」

義季は深く頭を下げた。

「だが、海を失うな」

康季はそれだけ言うと、目を閉じた。


それから幾日も経たず、康季は死んだ。

義季は父を葬り、下国家《しものくにけ》の当主となった。

父の書状を収めた箱には、返事の来なかった書状、兵糧の借用を断られた書状、かつての旧臣からの曖昧な返事が幾通も残されていた。


義季は父が生前に書きかけていた書状を取り出し、筆を取って続きを書き始めた。

宛先は、十三湊にいる旧臣だった。


*


享徳《きょうとく》二年(一四五三年)、津軽、大浦郷。


狼倉館《おいのくらだて》では、兵たちが慌ただしく動き回っていた。

館は小高い丘の上にあり、周囲には土塁と空堀が巡らされている。北側は急な斜面で、南には大浦郷の田畑が広がっていた。秋の刈り入れを終えた田には霜が降り、岩木山の麓は朝靄に包まれている。


安東義季は、館の庭で具足を着けていた。

家臣が持ってきたのは、紺糸で威《おど》した古い胴丸だった。ところどころ糸が擦り切れ、胸の辺りには新しく綴じ直した跡がある。

父の康季が用いていたものだった。


「殿、こちらの腹巻の方が軽うございます」

家臣は新しい具足も用意していたが、義季は首を振った。

「父上のを着る」


義季は胴丸に腕を通した。家臣が緒を締め、袖を結びつける。最後に兜を受け取り、顎の下で忍緒《しのぶお》を結んだ。

庭には二十騎ほどの馬が集まっていた。郎党たちは思い思いの具足を着け、弓の弦を確かめ、箙《えびら》に矢を差している。

門の近くには徒歩の兵が待ち、白地に檜扇鷲羽《ひおうぎわしば》の紋を染め抜いた旗が、朝の風にはためいていた。


南部方の兵が、館を囲もうとしていた。

前日の夕刻、物見が南部勢の接近を知らせてきた。

義季は夜のうちに兵を集めたが、近隣の館から駆けつけた者は少なかった。


「敵は南と東に陣を構えております。西の道にも兵が見えました」

物見が報告した。

「北はどうだ」

「まだ塞がれてはおりませぬ。ただ、山道は狭く、馬を通すのは難しゅうございます」

家臣の一人が進み出た。

「今なら、北へ落ち延びることもできます」

「どこへ落ちる」

「山を越え、浜へ出れば、船を集めることも」

「何艘」

家臣は答えられなかった。


義季は庭の旗を見上げた。

父の死から七年が過ぎていた。その間、義季は兵を集め、南部方の拠点を襲い、旧臣たちに再び安東家へ従うよう働きかけてきた。

小さな勝利はあった。

しかし、十三湊を奪還するには至らなかった。


「ここを捨てれば、残った者も離れよう」

義季は言った。

「まずは敵を退ける。門を固めよ」


朝日が土塁の上に差しかかるころ、南部勢の弓が一斉に鳴った。

矢は土塁を越え、館の内側へ雨のように降り注いだ。安東方も射返した。土塁の上に並んだ武士たちが弓を引き、南部勢の先陣に矢を浴びせた。

義季は自ら南の門へ向かった。

「敵を近づけるな! 矢を惜しむなよ!」

南部方の兵が門に迫ると、安東勢は土塁の上から矢を射かけ、石を投げ落とした。

門を破ろうとした兵が倒れ、南部勢はいったん退いた。

「退いたぞ!」

郎党たちが歓声を上げた。


だが、義季は顔を緩めなかった。

「矢を拾い集めよ。次が来る」


昼近くになると、南部勢は再び攻め寄せた。

今度は南の門だけでなく、東の斜面にも兵を進めてきた。安東勢は守りを分けねばならず、土塁の上に立つ人数が減っていった。

義季は弓を取り、東から登ってくる敵を射た。矢は先頭の武士の胸に当たり、その男は斜面を転げ落ちた。


しかし、南の門から大きな音が響いた。

「門が破られます!」

南部勢が丸太を抱えて門に打ち当てていた。扉の片側が外れかかり、支えていた横木が折れた。

「門へ集まれ!」

義季は太刀を抜いた。


南部勢が門を押し破り、館の庭へなだれ込んできた。安東方の郎党たちは槍や太刀で応じたが、数に勝る南部勢に少しずつ押し込まれていった。

義季は先頭の敵を斬り伏せ、続く武士の太刀を受け止めた。相手が体勢を崩したところを押し返し、肩口を斬った。


「殿、奥へ!」

家臣が叫んだ。

「まだ退かぬ!」

「このままでは、囲まれます!」


義季が周囲を見渡すと、土塁の上にも南部方の旗が立ち始めていた。

檜扇鷲羽の旗は、まだ庭の中央に立っていた。

義季はそこへ戻り、残った十数人の郎党を集めた。傷を負った者も多く、矢を使い果たした者は太刀を抜いている。

義季は若い家臣を一人呼んだ。

「北の山道へ行け」

「殿を置いては参れませぬ」

「ここで何があったか、西浜へ伝えよ」

「されど……」

「安東の者が一人も残らねば、誰が十三湊を取り戻す」

若者は唇を噛み、深く頭を下げた。

義季はその背を見送ると、兜を直した。


庭の向こうに南部勢が並んでいた。弓を構えた兵の後ろに、馬上の武士たちが控えている。

義季は太刀を掲げた。


「南部の者ども、聞け!」


近くの敵兵が足を止めた。


「我こそは、遠く安日彦《あびひこ》の末裔、安倍貞任《あべのさだとう》が後胤、代々日之本将軍を称する安東下国家の嫡流、安藤太郎義季なり!」


義季は一歩踏み出した。


「我が首を望む者は、名乗って進み出よ! いざ、尋常に勝負いたせ!」


南部勢の間にざわめきが広がった。


若い武士が太刀を抜き、前へ出ようとした。

「あれなるは安東の大将ぞ。討ち取れば大手柄ぞ!」

しかし、後方から鋭く声が飛んだ。

「待て」

馬上の武士が進み出てきた。

「なにゆえに。向こうから勝負を望んでおります」

「あの御方は弓も太刀もよく使う。むざむざ一人で相手にすることはない」

「されど、名乗りを上げております」

「聞こえておる」

馬上の武士は義季を見た。


紺糸の鎧を着け、白い旗の下に立つ姿は、遠目にも堂々としていた。

周囲の郎党たちは傷だらけになりながら、なお主君の前に立とうとしている。


「そこの御大将!」

義季が声を張り上げた。

「名乗られよ! 我と勝負いたせ!」


馬上の武士は、しばらく義季を見つめた。


「我らは根城《ねじょう》の南部河内守政経様の命を受け、貴殿を討ちに参った。勝負をするために来たのではござらん」


義季の顔が険しくなった。

「武士が名乗りを聞いて、勝負を避けるか!」


相手は答えなかった。


義季は太刀を握り直した。

「それでも坂東武者の末裔か! 我が首が欲しくば、己が手で取りに参れ!」


馬上の武士は、義季の背後に立つ檜扇鷲羽の旗を見た。

風にあおられた白い布が、何度も大きく翻っていた。


「弓を構えよ」


南部勢の弓が上がった。

義季は目を見開いた。


「名乗りも上げず、弓を射るか!」

「御免」

武士は短く言った。

「射よ」

弓弦が一斉に鳴った。


義季の前に立っていた家臣が、胸に矢を受けて倒れた。続けて放たれた矢が、義季の袖と胴丸に突き立った。

義季はなおも太刀を振るい、迫ってきた敵を斬り伏せた。しかし、腿に矢を受けると、片膝をついた。

郎党の一人が義季を支えようとしたが、その男も背に矢を受けて倒れた。


義季は旗竿をつかみ、ようやく身を起こした。

「奥へ!」


生き残った家臣たちが義季を囲み、館の奥へ退いた。

義季は足を引きずりながら、主殿へ入った。板敷きには血が滴り、家臣が戸を閉めると、外から太刀の打ち合う音と人の叫び声が聞こえた。


「殿、裏手からお逃げくだされ」

家臣が言った。


義季は首を振った。

「もはや、逃げ道はあるまい」

「それでも……」

「そなたらは行け。北の山道へ抜けよ」

義季は太刀を鞘に収め、腰を下ろした。

「わしは、ここまでだ」


家臣たちは動かなかった。

「我が命だ。行け」

義季が重ねて言うと、二人の家臣が涙をこらえながら頭を下げた。

残る一人は、どうしても主君の傍らを離れようとしなかった。


義季は兜を脱ぎ、傍らに置いた。

父の康季が、引根城の病床で言った言葉を思い出した。


十三湊を取り戻せ。


その言葉を守るため、七年のあいだ戦ってきた。だが、津軽西浜を取り戻すことも、十三湊へ帰ることもできなかった。

義季は短刀を抜いた。

「介錯を頼む」

傍らの家臣が太刀を取り、震える声で答えた。

「承知いたしました」


外では、南部勢が主殿に迫っていた。

安東義季は、狼倉館で自害した。

戦が終わると、南部方の兵が主殿へ踏み込んだ。板敷きには鮮やかな赤い血が広がり、傍らには紺糸の鎧と兜が置かれていた。

庭では檜扇鷲羽の旗が倒れていた。白地の布は泥と血に汚れ、竿は途中から折れている。


安東下国家の嫡流は、ここに絶えた。


*


それより数年前、下総国古河(こが)。


朝靄の残る林の中で、弓弦が鳴った。

矢は二十間ほど先の杉の幹に突き立った。すでに三本の矢が刺さっており、新しい矢は、そのうち一本とほとんど触れ合うほど近くに当たっていた。


「もう一度」


背後から声がした。


弓を持った若者が振り返った。

二十歳を少し過ぎたほどの、日に焼けた男だった。

「今のでは、いけませぬか」

「当たったことと、狙ったところへ当てたことは違う」

声の主は、白髪の交じり始めた壮年の男だった。左の頬から顎にかけて古い傷があり、片足をわずかに引きずっている。


若者は新しい矢を番《つが》えた。

「今度は、どこを」

「一番上の枝の下だ」

若者は杉を見た。幹から突き出た細い枝が、風に揺れている。

「枝を射落とせと?」

「枝ではない。その下だ」

「それでは、先ほどより狙いが小さくなります」

「だから射るのだ」

若者は口を結び、弓を引いた。


風が林を抜けた。杉の梢が揺れ、葉の間から朝日が差し込んだ。


若者はしばらく弦を引いたまま動かなかった。


やがて、矢が放たれた。

乾いた音が響き、杉の幹に新しい矢が突き立った。


男はゆっくりと杉に近づき、矢を見上げた。


「少し右だな」

「風が」

「風は、お前が弓を引く前から吹いておった」


若者は苦笑した。


「もう一度、射ます」

「いや、今日はここまでだ」


男は杉から矢を抜き、若者に渡した。

「お前は弓がうまい。わしが同じ年頃だったときより、ずっとうまい」

「そのようには思えませぬ」

「そう思わぬうちは、まだ上達する」


二人は林を出て、粗末な家へ戻った。

庭には薪が積まれ、軒下には刀の稽古に使う木の棒が立てかけてあった。若者はそれらを片づけ、旅の荷をまとめた。

男は縁側に腰を下ろして、その様子を眺めていた。


「本当に行くのか」

「はい」

「ここに留まることもできよう。畑もある。わし一人では手が回らぬほどだ」

「長くお世話になりました」

「まだ教えておらぬことも多い」

若者は荷を結ぶ手を止めた。

「それは、またいつか」


男はしばらく黙っていた。


「北へ行くのか」

「陸奥《みちのく》へ参ろうかと」

「何を求めて」


若者は答えに迷った。


「都にも、関東にも、長く留まることはできませなんだ。北ならば、まだ知らぬ土地もございましょう」

「知らぬ土地には、知らぬ敵もおるぞ」

「承知しております」

「お前ほどの腕があれば、召し抱えようという者もおろうに」

「そのような方に巡り合えれば、ありがたいことです」

「それでも北へ行くか」

「はい。どこかに、腰を落ち着けられる場所があればと思うのです」

男は小さく頷いた。

「陸奥は遠いぞ。わしも行ったことはない」

「承知しております」

「知らぬ土地では、弓の腕だけを頼りにするな。まずは人をよく見よ」

若者は頷いた。


男は立ち上がり、家の奥へ入った。戻ってきたときには、一振りの刀を手にしていた。

鞘には古い傷がいくつもあった。若者もよく知っている刀だったが、師がそれを抜くところは、数えるほどしか見たことがなかった。


男は刀を膝に置いた。

「父が、結城《ゆうき》でわしに託したものだ」


若者は刀に目を落とした。

師の父は鎌倉公方家に仕えた武士で、結城合戦で討ち死にしたと聞いていた。

結城城には鎌倉公方足利持氏の遺児、春王丸と安王丸が籠もっていたが、落城後に捕らえられ、京へ送られる途中、美濃で斬られた。

師は父から託された刀を携えて落ち延びた。美濃まで追いかけ、二人の首級を奪い返したという噂もあった。

その真偽を尋ねたことはなかった。


「これを持って、ずいぶん遠くまで歩いた」

男は鞘を指で撫でた。

「父は、わしが生き延びることを望んでおった。今になれば、それがよく分かる」

「師匠」

「お前にも、死んでほしくはない」

男は刀を脇へ置き、若者の肩に手を置いた。

「弓がうまければ、戦場で人より長く生きられるかもしれぬ。だが、弓だけで生きてゆけると思うな」

「はい」

「生きておれ」

若者は深く頭を下げた。



街道を北へ進み、幾日かして香取の海に出た。

岸には葦が茂り、遠くの水面には低い島影が浮かんでいた。風が吹くたびに葦の穂が揺れ、浅瀬には水鳥が群れている。

若者は舟を待つ人々の列に加わった。


船頭が荷を見て言った。

「弓を持っておるのか」

「はい」

「どこへ行く」

「陸奥へ」

「陸奥だと。ずいぶん遠くへ行くものだな」

若者は答えなかった。


舟が岸を離れると、水面がゆっくりと広がっていった。若者は弓を膝に置き、濡れぬように布を掛けた。

対岸は霞んでいた。

どこまで行けば、落ち着いて暮らせる土地があるのか。そもそも、自分にそのような土地があるのか。

若者には分からなかった。

ただ、舟は北へ向かって進んでいた。

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