日之本将軍
文安元年(一四四四年)の春、津軽半島北部。
トサの湊から海沿いに北へ進んだところに、ポン・トマリという入り江があった。
西には広い海が開け、北には険しい岩山が突き出している。入り江の奥には幾軒もの家が集まり、その背後には深い森が続いている。
日が暮れると、人々が長老の家に集まってきた。
炉には薪がくべられ、吊るされた鍋から湯気が立っている。壁際には干した魚が吊られ、敷き皮の上では子供たちが肩を寄せ合っている。
家の主は、白い髭を胸まで垂らした老人だった。
若いころには何度も海を渡り、津軽の山々を歩き、トサの湊で和人たちと交易した。
今では遠くへ出かけることも少なくなったが、昔の出来事をよく覚えており、冬の夜には若者たちに古い物語を聞かせていた。
その夜、老人は炉の火を見つめながら、昔の海の話を始めた。
「わしの祖父様の、そのまた祖父様が生まれるよりも昔のことだ。まだ大きな木々が人の言葉を聞き、海の獣が人の姿を取って浜を歩いていたころの話だ」
子供たちが顔を上げた。
老人は膝を揺らし、ゆっくりと節をつけた。
「わしは北の海に生まれた者。
霧の深い浜に生まれた者。
父は大きな魚を捕る者、
母は白い獣の皮を縫う者。
海の神に魚をいただき、
山の神に獣をいただき、
わしらは豊かに暮らしていた」
低い声が、炉の火のはぜる音に重なった。
「ある朝、海に霧が立った。
白い霧が幾重にも立った。
霧の向こうに黒い影があり、
黒い影には大きな翼があった。
翼は動かず、羽ばたきもせず、
それでも海の上を進んできた」
老人は両腕を広げた。
「一羽ではない。二羽でもない。十羽、二十羽、数えきれぬほどの大きな鳥が、霧を押し分けてやって来た。鳥の腹には人が乗っていた。鉄の鱗を身につけ、長い牙を腰に下げた、南の国の者たちだった」
子供の一人が、鳥はどれほど大きかったのかと尋ねた。
「この家よりも大きかった。いや、トサのシサムが建てる大きな家よりも、もっと大きかったそうだ」
老人は笑い、また節をつけた。
「鳥の背に立つ男が言った。
われらの主は日の昇る国にいる。
われらの主は月の沈む国にいる。
山も海も、その主のものである。
浜も森も、その主のものである。
ゆえに汝ら、われらに従え」
男の言葉は、村の誰にも分からなかった。
そこで男は、美しい布を浜に広げた。鉄の斧を置き、鋭い刀を置いた。
どれも村の者たちが欲しがる品であったが、白い髭を持つ二人の長老は、それを受け取らなかった。
「海には海の主がいる。
山には山の主がいる。
われらの浜は、われらの浜だ。
汝の主の名を、われらは知らぬ」
老人の声が低くなった。
「南の男は怒った。顔を赤くし、鉄の牙を鳴らした。すると大きな鳥たちが羽を広げ、海の上に黒い影を落とした」
その夜、村の若者たちは舟を出した。
霧の中から矢を射かけ、大きな鳥に乗る者たちと戦った。白い毛皮を肩に掛けた若い戦士は、南の男たちの中で最も強い者を射倒した。
しかし、夜が明けると、鉄の鱗をまとった者たちが浜へ押し寄せてきた。
「鉄の牙は木を裂いた。
鉄の牙は骨を裂いた。
白い浜には赤い水が流れ、
大きな家には火が走った」
老人はしばらく口を閉じた。
炉の薪が崩れ、赤い火の粉が舞い上がった。
「白い毛皮の若者は、最後まで戦った。矢を射尽くし、弓が折れると、折れた弓を握って敵に向かった。だが、南の男の鉄の牙が、その胸を貫いた」
生き残った村人たちは、山へ逃げた。
夕暮れになると、死者を迎えるため、女たちが浜に下りて歌った。男たちも歌い、子供たちも歌った。
すると海の向こうから、南の者たちの歌が聞こえてきた。
「海の歌と山の歌が、
白い霧の中で出会った。
南の者は南の歌を歌い、
北の者は北の歌を歌った。
歌は互いの言葉を知らず、
霧だけが二つの歌を聞いた」
やがて、大きな鳥たちは南へ去った。
白い毛皮の若者は、海の神々《カムィ》のもとへ赴いた。だが、今でも霧の深い夜には、浜を守るために戻ってくる。
老人は最後の節を歌い終え、膝に置いた手を止めた。
「その鳥は、今も来るのか」
幼い子供が尋ねた。
「さあな。わしは見たことがない」
「なら、どうして本当だと分かる」
「わしの祖父様がそう聞いた。その祖父様も、また祖父様から聞いた。おまえが年寄りになったら、今度はおまえが話してやればよい」
老人は鍋の湯を椀に注ぎ、ゆっくりと飲んだ。
*
「南のシサムには、今も大きな主がいるのだろう」
若い男が言った。
「いるとも。トサの大きな家の主より、もっと偉い主がいるそうだ」
「ナンブの馬を飼う者たちも、その主に従うのか」
「そう聞いている」
老人は薪を一本、炉へ押し込んだ。
「シサムのカムィトクィと呼ぶ者もいる。大きな家に座っていて、そこから動かずに、遠い土地の者たちを従えるという。あの主が言葉を発すると、幾つもの山を越え、幾つもの川を越えて、その言葉が届くのだそうだ」
「どんな姿をしている」
「知らぬ。見た者に会ったこともない」
「人なのか」
「シサムは人だと言う。だが、シサムの話を聞いていると、わしにはよく分からなくなる」
老人は笑った。
「トサの主も、ナンブの馬を飼う者たちも、そのカムィトクィから何かをいただくと喜ぶ。立派な名をいただいたとか、遠い土地を治めることを許されたとか、そんな話をする。だが、名をいただいても魚が増えるわけではない。鉄の斧が増えるわけでもない」
若者たちも笑った。
「トサのモリスエも、その主から名をいただいたのか」
「モリスエは、もっと古い名を持っていると言っていた」
老人は、トサの湊で会った和人の男を思い出した。
背が高く、髭を蓄え、いつも上等な衣を着ていた。大勢の家来が周りにいたが、アイヌの商人が訪ねてくると、時には自ら話を聞いた。
老人がまだ若かったころのことである。
そのころのトサの湊には、北からも南からも船が集まっていた。
大きな和船が米や布を運び、北の海の向こうの土地から来た舟が毛皮や魚を積んでいた。さらに遠い海からも、見慣れぬ品々が届いた。
港には倉が並び、鍛冶の槌音が響き、魚を焼く匂いと馬の糞の匂いが入り混じっていた。
老人は父に連れられ、獣皮と鷹の羽を持って湊へ行った。
そのとき初めて、モリスエを見た。
モリスエは、父が差し出した毛皮を手に取り、裏側まで調べた。そして通詞を介して、どこの山で捕れた獣かと尋ねた。
父が答えると、モリスエはうなずき、家来に命じて鉄の斧を持ってこさせた。
「よい品だ。来年も持ってまいれ」
老人は、その言葉を覚えていた。
「モリスエは、トサの浜だけの主ではなかった」
老人は若者たちに言った。
「北の海の向こうにも、あの男の家があった。向こうの浜に住むシサムたちは、モリスエの家の者に従うと言っていた。だが、山や川まで、あの男のものだったわけではない」
「モリスエは、北のモシリへ行ったことがあるのか」
「ああ。何度も行った。わしが若かったころには、あの男の船を向こうの浜で見たこともある」
老人は海の方へ顔を向けた。
「あちらには、あちらの長がいる。大きな川には大きな川の長がいる。モリスエは、それを知っていた」
若者の一人が尋ねた。
「では、なぜトサの湊には、もうモリスエの家の者がいないのか」
老人はしばらく答えなかった。
*
トサの湊の様子が変わり始めたのは、老人が壮年になってからだった。
東の山々の向こうでは、ナンブという、馬を多く飼うシサムたちが力を増していた。彼らはトサの主と争い、幾度も馬に乗る男たちを集めて攻め寄せた。
最初のころ、港の商人たちは戦の話を笑っていた。
モリスエの家は古くから海を支配してきた。ナンブがいくら馬を集めても、海の上までは追ってこられまいというのである。
しかし、ある年、港へ行くと、いつも開いていた倉の戸が閉ざされていた。
次の年には、顔なじみの商人がいなくなっていた。
さらにその次には、南から来る船が減り、米の値が上がった。
老人は、トサの主がナンブに敗れ、海の向こうへ渡ったと聞いた。しばらくすると戻ってきたという話が届き、また追われたという噂が届いた。
どの話が本当なのか、コタンに住む者たちには分からなかった。
ただ、交易の品は確かに減った。
鉄の斧を手に入れるには、以前より多くの毛皮を差し出さねばならなくなった。米を積んだ船が来ない年もあった。約束した品を持ってこない商人も現れた。
そして、一昨年の秋のことだった。
ポン・トマリの浜に、モリスエの家の船が集まった。船には武具や衣類、家財が運び込まれ、女や子供の姿もあった。浜には見慣れぬシサムたちが大勢いて、水や食べ物を求めた。
老人は、そこでモリスエを見た。
かつてトサの湊で毛皮を手に取り、父に鉄の斧を渡した男は、すっかり年を取っていた。髭は白くなり、歩くときには家来が傍らについていた。
モリスエは老人の顔を見ると、しばらく考え、昔トサで毛皮を売りに来た者ではないかと尋ねた。
老人がうなずくと、モリスエは笑った。
「よく覚えておる。そなたの父御は、よい毛皮を持ってきた」
それだけの言葉を交わし、モリスエは船へ向かった。
船が浜を離れたのは、風の穏やかな朝だった。
老人はほかの者たちとともに浜に立ち、北へ向かう船を見送った。
それからモリスエがどこで暮らしているのか、老人は知らなかった。
*
「モリスエは、もうトサに戻らぬのか」
若者が尋ねた。
「分からぬ。だが、あの男も年を取った」
「モリスエが死ねば、誰がトサに戻る」
「息子がいる。ヤススエという男だ。あの男も強い武士だそうだ」
「その男がナンブを追い払うのか」
「追い払うかもしれぬ。追い払われるかもしれぬ」
老人は椀を置いた。
「トサの主が誰になろうと、わしらは鉄を買わねばならぬ。米も要る。ナンブが湊を取れば、その者たちと話をすることになるだろう」
「モリスエを助けないのか」
「助ける者もいるだろう。あの男に恩を受けた者は多い。だが、ナンブに味方する者もいる。別のシサムと取引する者も出てくる」
老人は若者たちを見回した。
「海の向こうでも同じことだ。モリスエの家が弱くなれば、長たちはそれぞれに考える。誰の船を迎えるか、誰に品を売るか、誰と争うか」
外では風が強くなっていた。
戸口の隙間から冷たい空気が入り、炉の煙が揺れた。
「昔、南の大きな鳥が海を渡ってきたときも、浜の者たちは戦った。だが、その鳥が去ったあとも、海はそこにあった」
老人は火を見つめた。
「モリスエの船が来なくなっても、海がなくなるわけではない」
*
二年前の秋、津軽。
小泊の浜に近い館で、安東盛季は嫡子の康季と向かい合っていた。
かつて十三湊を根拠とし、陸奥の北方に威勢を振るった安東家の当主も、今では七十を越えていた。
痩せた頬には深い皺が刻まれ、白い髭が胸元に垂れている。傍らには湯を入れた椀が置かれていたが、ほとんど手をつけられていなかった。
館の外では、家臣たちが船の支度を進めていた。
十三湊を失ってから、安東家の者たちは津軽と蝦夷ヶ島を行き来しながら、再起の機会を窺っていた。だが、南部氏の勢いは衰えず、かつての家臣の中にも去る者が出ていた。
「父上、船は三艘、用意が整いました」
「三艘か」
盛季は顔を上げた。
「少ないな」
「今はこれが精一杯にございます。津軽に残る者たちにも、船を求めております」
盛季はしばらく黙っていた。
「十三湊には、かつて幾艘の船が集まったことか」
康季は答えなかった。
「若狭からも、越前からも、船が来た。都の品が運ばれ、北の海からは毛皮や鷹羽が届いた。わしが若いころには、倉が足りぬと商人どもが騒いでおった」
「必ず取り戻します」
康季が言った。
「日之本将軍の御家が、南部ごときに屈したままで終わるわけにはまいりませぬ」
盛季は息子を見た。
「日之本将軍、か」
「我らが家に伝わる、何よりの由緒にございます」
「うむ」
盛季はゆっくりとうなずいた。
安東氏は、古くから陸奥の北方に勢力を張ってきた一族である。
家に伝わる系図には、前九年の役に朝廷と戦った安倍氏の名が記されていた。
さらに古くは、悪路王の血を引くともいう。陸奥の山々を根拠とし、朝廷の大軍を迎え撃った古の王であった。
その真偽を詮索する者もいたが、盛季にとっては、祖先が北の地に根を張って生きてきたことこそ大切であった。
安東家は、津軽の一郡を領するだけの武士ではない。
十三湊を本拠とする下国家は、蝦夷管領とも呼ばれ、海峡の向こうにまで権威を及ぼしてきた。
日之本将軍とは、北方に勢力を張るその家が代々誇りとしてきた称号であった。
「康季」
「はっ」
「蝦夷ヶ島のことを、忘れるな」
「心得ております」
「島には、我らの館がある。商人もおる。だが、島のすべてが我らに従うわけではない」
康季は黙って聞いていた。
「東の浜には東の長がいる。西の川には西の長がいる。北の海から舟を漕いでくる者もいる。彼らは我らの家の古い由緒など知らぬ」
「されど、我らは日之本将軍の家にございます」
「だからこそ、よく考えねばならぬ」
盛季は椀を取り、湯を一口飲んだ。
「島の者は、我らに頭を下げることもある。贈り物を持ってくることもある。だが、それで家来になったと思うな。次の年には別の長に従い、また次の年には我らの敵と交易することもある」
康季は眉を寄せた。
「父上は、蝦夷どもをよく御存じにございますな」
「長く海を渡ってきたからな」
盛季は、かつて北の海の向こうで出会った首長のことを思い出した。
その男は、盛季が差し出した布を受け取りながらも、川の上流へ船を進めることを許さなかった。
家臣の一人が怒り、兵を出すべきだと言った。しかし盛季は、首長の言葉に従った。
その川の奥には、さらに別の長がいた。そこへ無断で入れば、交易どころか、浜の者たちまで敵に回すことになる。
盛季はそのことを知っていた。
「康季」
「はっ」
「十三湊を取り戻せ」
康季は深く頭を下げた。
「必ずや」
「だが、海を失うな」
盛季は息子の顔を見た。
「津軽の浜を取られても、海の向こうにはまだ我らを知る者がおる。あの者たちとの縁を絶つな」
「承りました」
「家の名を守れ」
康季は父に向かって、もう一度頭を下げた。
「日之本将軍の御家を、必ずや再び盛り立ててみせまする」
盛季は小さくうなずいた。
館の外から、海鳥の声が聞こえてきた。
*
その後、盛季は小泊の浜から船に乗り、北の海へ渡った。
かつて十三湊に集まった船の数を思えば、わずかな一行であった。盛季に従う家臣たちは、武具や家財を船に積み、残る者たちと別れを交わした。
浜には、近在の和人たちに交じって、蝦夷の男たちも十人ほど集まっていた。
髷を結わず、長い髪を肩に垂らし、濃い髭を蓄えた者が多い。獣皮の衣をまとった者もいれば、和人から手に入れた小袖を着た者もいた。
家臣たちは、浜に残る和人の主だった者たちには一人ずつ言葉をかけていたが、蝦夷たちにはほとんど目を向けなかった。
その中に、白い髭を胸まで垂らした老人がいた。
盛季はその顔に見覚えがあった。昔、父親とともに十三湊へ毛皮を売りに来ていた男である。
通詞を介して二言三言交わすと、老人は歯を見せて笑った。盛季も笑い、かつてその父親が持ってきた毛皮のことを話した。
やがて船出の支度が整い、盛季は家臣に支えられて船に向かった。
日の当たった水が青緑に透け、その向こうだけ急に濃い青になる。白い波が何本も岸へ走っていた。
船が浜を離れると、盛季はしばらく津軽の山々を眺めていた。
十三湊は、ここからはもう見えなかった。




