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夷王の島 ──北海異聞──  作者: 灰神楽ねこ
序章

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1/13

弊賂弁嶋

大倭《おおやまと》の大王《おおきみ》、天豊財重日足姫《あめとよたからいかしひたらしひめ》の御世、四年《よとせ》の夏。


北の海には、幾日も霧が立ちこめていた。


阿倍引田臣比羅夫《あべのひけたのおみひらふ》は、大船の舳先に立ち、行く手を眺めていた。

五十に近い年であった。背は高く、肩幅が広い。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、顎に蓄えた髭には白いものが交じっている。

潮風に荒れた頬を濡れた袖で拭うと、革帯に佩いた刀が船縁に当たって小さく鳴った。


風は弱く、櫂を漕ぐ音が船腹に沿って響いていた。ときおり霧が薄くなると、遠くに黒い陸影が現れたが、それが島なのか、大きな陸の続きなのかは分からなかった。

津刈《つがる》の浜を離れてから、幾日が過ぎたのか。潮を待って船を留め、風が変われば進む方角を改めた。


船を導く蝦夷《えみし》たちは、霧の向こうにあるものについて、それぞれ違うことを言った。

ただ、弊賂弁嶋《へろべのしま》という名は、幾人もの口から聞いていた。


そこに粛慎《みしはせ》がいるという。


渡嶋《わたりのしま》の者たちによれば、粛慎は遠い北から細長い舟でやって来る。

海獣の皮をまとい、弓をよく射り、海辺の村を襲うこともあれば、獣皮や珍しい品を携えて交易に来ることもあるという。


比羅夫は、彼らの住むところをまだ知らなかった。


「朝臣《あそみ》」

背後から舎人《とねり》が声をかけた。

「先の船より、陸が見えたとの知らせが」


霧の底に黒い線が浮かんでいた。

やがて木々の梢が現れ、その下に白い波が見えた。陸は左右へ続いていたが、どちらも霧の中へ消えている。


「これが弊賂弁嶋か」


船を導いてきた蝦夷の男が、しばらく陸を見つめてからうなずいた。

比羅夫は船団に岸へ寄るよう命じた。

櫂を漕ぐ者たちの声が揃い、船はゆっくりと進んだ。


*


比羅夫は、飛鳥の宮で節を賜った日のことを思い出した。

宮の庭には朝の日が満ち、白砂が眩しく輝いていた。檜の柱には木の香があり、御殿の内には焚きしめられた香が漂っていた。

諸臣は位の順に列し、比羅夫も衣の襞を正して御前へ進んだ。


御簾の奥に、大君がおわした。

比羅夫は額を伏せた。磨かれた床の冷たさが、袖を通して腕に伝わってきた。


やがて御声《みこえ》があった。


「越《こし》の山々を越え、津刈の海を渡り、その海の彼方にある国々、そこに住まふ人草《ひとくさ》のこと、汝《いまし》はいかほど聞き知れる」


思いのほか、低い御声であった。

年を重ねた女の声である。言葉の終わりにわずかな掠れがあり、息を継がれるときには、衣の擦れるような音がした。

それでも一語一語がはっきりと耳に届き、比羅夫は御声の途切れるまで身じろぎもしなかった。


「渡嶋と申す大きなる島がございます。その先のことは、臣《やつかれ》、いまだ存じませぬ」


「山の奥にも人は住まひ、海の彼方にも人は住まふ。遠き国、遠き島といへども、日の照らすところ、月の照らすところにあらずや」


比羅夫は額を伏せたまま、御簾の下に落ちる光を見ていた。


「汝、船を率ゐて北の海に渡り、その国々の有様を見、その民らの言葉を聞き、我が御言《みこと》を伝へよ。靡《なび》く者は撫で、背く者は鎮め、海の果てより帰り来たりて、見聞きせしことを奏《まを》せ」


「畏《かしこ》みて承り奉ります」


差し出した両手に、節《せつ》が授けられた。

節は、思っていたよりも重かった。比羅夫はその重みを受け、もう一度深く額を伏せた。

庭の向こうで風が立ち、木々の葉が一斉に鳴った。



あの日から、幾月が過ぎただろう。


角鹿《つぬが》を発ち、沼垂《ぬたり》を過ぎ、淡嶋《あわしま》を望み、鳥海《とりみ》の雪の山を遠くに見て、船団は北へ進んだ。

齶田《あきた》では土地の長たちが贈り物を携えて迎え、渟代《ぬしろ》では山へ逃げた者もいた。

津刈の浜に至るころには、船の者たちも北の言葉を幾つか覚えていた。

比羅夫は各地の長に布や鉄を与え、大君の御言を伝えた。長たちは頭を下げ、贈り物を受け取った。


*


「朝臣、浜に人がおります」


比羅夫は顔を上げた。

岸には細長い舟が幾艘か引き上げられていた。その奥に木と草で覆われた家があり、魚を干す棚が並んでいる。


毛皮をまとった男たちが浜へ出てきた。

先頭の男は背が高く、肩に白い獣皮を掛けていた。ほかの者は弓を持ち、こちらの船を見ていた。


比羅夫は兵を十人ほど連れて上陸した。

「我らは大倭の大君の使いである。そなたらの長に会いたい」


津刈から従ってきた通詞が、言葉を探しながら伝えた。白い毛皮の男は何かを答えたが、通詞には聞き取れなかった。

比羅夫は従者に命じ、布と鉄の品を浜に並べさせた。刀も一本、鞘に納めたまま置かせた。


男たちは相談を始めた。

やがて、年老いた男が二人、家の方から下りてきた。一人は白い髭を胸まで垂らし、もう一人は腰が曲がっていた。

白髭の老人が刀を取り上げ、鞘から少し抜いた。刃に鈍い日の光が映った。

老人は何かを言い、刀を鞘に戻した。

そして、布も鉄も、すべて比羅夫の前に押し返した。


「受け取らぬのか」

通詞が問いかけたが、老人は首を振った。


もう一人の老人が海を指さし、続いて陸の奥を指さした。何かを繰り返し言ったが、比羅夫には一言も分からなかった。


「この浜を去れと申しているようにございます」

通詞が言った。

「何ゆえに」

「それは……」

比羅夫は老人たちの顔を見た。白髭の老人は、なおも海を指さしていた。

「我らは大君の御言を伝えに来た。争うためではない」

通詞が伝えると、老人たちは顔を見合わせた。


やがて二人とも家の方へ戻っていった。

比羅夫は、浜に残された品々を見下ろした。


「船へ戻る」


*


その日の夕暮れ、浜の家々の周りに木が運ばれ、柵が築かれ始めた。

比羅夫は沖に船団を留め、翌朝もう一度使いを出すよう命じた。

しかし、夜半、見張りの船から角笛が鳴った。


霧の中を、小さな舟が幾艘も近づいてきた。最初の矢が船の舷側に当たり、続いて幾本もの矢が甲板に落ちた。


「盾を寄せよ」

兵たちは盾を立て、弓を構えた。


暗い海から舟が現れ、また霧に消えた。

櫂を漕ぐ音が近づき、叫び声が聞こえた。比羅夫の船からも矢が放たれ、一艘の舟で漕ぎ手が海へ落ちた。


岸の方からも声が上がった。

柵の内側に火が灯り、幾つもの人影が動いていた。


*


「浜へ上がる。船を焼かせるな」


夜明け前、兵たちは岸に上陸した。

小石の浜を駆け上がると、柵の向こうから矢が飛んできた。盾を構えた兵が倒れ、後ろの者がその体を引きずった。

柵の一角が崩されると、比羅夫の兵たちはそこへ殺到した。槍と刀がぶつかり、濡れた木の上に血が落ちた。


能登臣馬身龍《のとのおみまむたつ》は、先頭に立って柵の内へ踏み込んだ。

背の高い男だった。角鹿を出るときから比羅夫に従い、幾度も海を渡ってきた。

「続け!」

馬身龍が叫ぶ。

その声が突然途切れた。

柵の陰から放たれた矢が、馬身龍の胸に刺さっていた。

馬身龍は二、三歩よろめき、膝をついた。近くにいた兵が駆け寄ったが、彼はすでに倒れていた。


比羅夫は兵を進ませた。

柵の内では、なおも戦いが続いていた。火のついた家から煙が上がり、女たちの甲高い叫びが聞こえた。


やがて抵抗する者は少なくなった。

浜には、敵味方の死者が横たわっていた。

白い毛皮をまとった男も、家の前で倒れていた。傍らには折れた弓があり、その手はまだ弦を握っていた。


比羅夫は馬身龍の亡骸の前に膝をついた。

矢は胸の深いところまで刺さっていた。比羅夫は布を取り、潮と血に汚れた顔を拭った。

角鹿の港で、この男は妻と幼い娘に見送られていた。娘は父の衣の裾をつかみ、船へ乗るのを嫌がっていた。

馬身龍は笑って娘を抱き上げ、秋には戻ると言った。

比羅夫は、そのときの声を覚えていた。


「朝臣」

舎人が近づいてきた。

「柵の内に、女や子の亡骸がございます」

「生きている者は」

「幾人か、山へ逃げたようにございます」

「傷ついた者には水を与えよ」

舎人は一礼して去った。


比羅夫はもう一度、馬身龍を見た。


*


昼を過ぎるころ、戦いは終わった。

死者たちは、海を見下ろす小高いところに葬ることになった。兵たちは穴を掘り、石を集めた。馬身龍の亡骸も白い布に包まれ、ほかの死者たちと並べられた。


夕刻、比羅夫は兵を集めた。

海から霧が上がってきていた。

墓の前に積まれた石は、すでに白く霞んでいた。浜へ下りる道も半ば隠れ、そこを登ってくる兵たちの姿が、霧の切れ間に見え隠れした。


比羅夫は死者たちの名を読み上げた。

名を呼ばれるたびに、兵たちは頭を垂れた。


やがて、年老いた舎人が低く歌い始めた。

「海行かば 水漬く屍《かばね》 山行かば 草生《くさむ》す屍 大君の 辺《へ》にこそ死なめ かへり見はせじ」

幾人もの兵たちが声を合わせた。


霧の向こうに、兵の姿が浮かび上がった。肩に弓を掛けた男が、口を動かしながらゆっくりと浜を登ってくる。その後ろにも二人、三人と人影が見えたが、霧が流れると、すぐに分からなくなった。


「大船の 舳《へ》向かふところ 沖つ波 八重に隔てて 大和島《やまとしま》 見ゆる日もがも」

低い声が続いた。


比羅夫の傍らでは、若い兵が目を伏せて歌っていた。少し離れたところに立つ男は、時折口を閉じ、また周囲に合わせて歌い始めた。


「朝霧の 立ち隠らへば 夕潮の 満ち来る浜に 葦辺には 鶴《たづ》が音《ね》聞こゆ」

浜の方からも声が聞こえてきた。


霧が薄くなると、波打ち際に立つ兵たちの姿が見えた。船を守る者たちであった。槍を手にしたまま歌っている男もいた。



やがて、霧の向こうから別の声が聞こえてきた。

初めは風の音かと思った。低く長く引く声がひとつ、陸の奥から流れてきたのである。

声は途中で細くなり、消えかけたところへ、別の声が重なった。


比羅夫は顔を上げた。


聞き慣れぬ節であった。ひとつの音を長く伸ばし、喉の奥で震わせている。

男の太い声に女の高い声が重なると、霧の中で幾重にも響き、どこから聞こえてくるのか分からなくなった。

比羅夫は、若いころ、山背《やましろ》の山中で聞いた鹿の声を思い出した。

秋の夕暮れ、谷を隔てて牡鹿が鳴き交わしていた。姿は見えず、ただ細く引く声だけが、暮れ残る山々を渡ってきた。

しかし、今聞こえる声には言葉があった。

何を歌っているのかは分からない。ときおり同じ音が繰り返され、そのたびに幾人もの声が揃った。やがて女の声がひときわ高く上がり、急に途切れた。


比羅夫は、馬身龍の妻が夫の亡骸を迎えたなら、どのように哭くだろうかと思った。

角鹿の港で、幼い娘を抱き上げていた馬身龍の姿が浮かんだ。あの娘は、父が帰らぬと聞けば、初めは何を言われたのかも分かるまい。


霧が流れ、遠い浜に小さな火が見えた。

火の傍らに人影が幾つか立っている。肩を寄せているようにも、誰かを囲んでいるようにも見えたが、すぐに霧が厚くなり、火も人も隠れてしまった。


「粛慎の者どもでしょうか」

舎人が尋ねた。

「そうであろう」

比羅夫は答えた。


大倭の兵たちの歌は、いつしか静まっていた。墓の前に立つ者たちも、浜で船を守る者たちも、霧の向こうに耳を澄ませていた。

女の声がまた高く上がった。

比羅夫は、浜で贈り物を押し返した白髭の老人を思い出した。あの老人も、この声の中にいるのだろうか。

霧の向こうで、歌はいつまでも続いていた。


*


翌朝、船団は南へ向かった。

比羅夫は船の舳先に立ち、遠ざかる陸を見ていた。

霧が低く垂れ、浜はもう見えなかった。木々の梢がしばらく見えていたが、それもやがて白い靄に紛れた。


「朝臣」

舎人が近づいてきた。

「この戦のこと、御門《みかど》にはいかように奏《まを》しましょう」

「粛慎を討ったと申し上げよ。得た船の数も記せ」

「はっ」

「こちらの死者の名も、一人残らず記すのだ。能登臣馬身龍の働きも、忘れるな」

舎人はうなずいた。


比羅夫は海を見た。

船はまだ霧の中を進んでいた。昨夜の歌はもう聞こえず、櫂が水を掻く音ばかりが続いている。

革帯に手を当てると、指先に刀の柄が触れた。

飛鳥の宮で節を賜ったとき、御簾の奥から聞こえた大君の御声が、ふと耳に蘇った。


「海の果てより帰り来たりて、見聞きせしことを奏せ」


顔を上げると、霧の向こうに南へ続く海があった。

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