弊賂弁嶋
大倭の大王、天豊財重日足姫の御世、四年の夏。
北の海には、幾日も霧が立ちこめていた。
阿倍引田臣比羅夫は、大船の舳先に立ち、行く手を眺めていた。
五十に近い年であった。背は高く、肩幅が広い。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、顎に蓄えた髭には白いものが交じっている。
潮風に荒れた頬を濡れた袖で拭うと、革帯に佩いた刀が船縁に当たって小さく鳴った。
風は弱く、櫂を漕ぐ音が船腹に沿って響いていた。ときおり霧が薄くなると、遠くに黒い陸影が現れたが、それが島なのか、大きな陸の続きなのかは分からなかった。
津刈の浜を離れてから、幾日が過ぎたのか。潮を待って船を留め、風が変われば進む方角を改めた。
船を導く蝦夷たちは、霧の向こうにあるものについて、それぞれ違うことを言った。
ただ、弊賂弁嶋という名は、幾人もの口から聞いていた。
そこに粛慎がいるという。
渡嶋の者たちによれば、粛慎は遠い北から細長い舟でやって来る。
海獣の皮をまとい、弓をよく射り、海辺の村を襲うこともあれば、獣皮や珍しい品を携えて交易に来ることもあるという。
比羅夫は、彼らの住むところをまだ知らなかった。
「朝臣」
背後から舎人が声をかけた。
「先の船より、陸が見えたとの知らせが」
霧の底に黒い線が浮かんでいた。
やがて木々の梢が現れ、その下に白い波が見えた。陸は左右へ続いていたが、どちらも霧の中へ消えている。
「これが弊賂弁嶋か」
船を導いてきた蝦夷の男が、しばらく陸を見つめてからうなずいた。
比羅夫は船団に岸へ寄るよう命じた。
櫂を漕ぐ者たちの声が揃い、船はゆっくりと進んだ。
*
比羅夫は、飛鳥の宮で節を賜った日のことを思い出した。
宮の庭には朝の日が満ち、白砂が眩しく輝いていた。檜の柱には木の香があり、御殿の内には焚きしめられた香が漂っていた。
諸臣は位の順に列し、比羅夫も衣の襞を正して御前へ進んだ。
御簾の奥に、大君がおわした。
比羅夫は額を伏せた。磨かれた床の冷たさが、袖を通して腕に伝わってきた。
やがて御声があった。
「越の山々を越え、津刈の海を渡り、その海の彼方にある国々、そこに住まふ人草のこと、汝はいかほど聞き知れる」
思いのほか、低い御声であった。
年を重ねた女の声である。言葉の終わりにわずかな掠れがあり、息を継がれるときには、衣の擦れるような音がした。
それでも一語一語がはっきりと耳に届き、比羅夫は御声の途切れるまで身じろぎもしなかった。
「渡嶋と申す大きなる島がございます。その先のことは、臣、いまだ存じませぬ」
「山の奥にも人は住まひ、海の彼方にも人は住まふ。遠き国、遠き島といへども、日の照らすところ、月の照らすところにあらずや」
比羅夫は額を伏せたまま、御簾の下に落ちる光を見ていた。
「汝、船を率ゐて北の海に渡り、その国々の有様を見、その民らの言葉を聞き、我が御言を伝へよ。靡く者は撫で、背く者は鎮め、海の果てより帰り来たりて、見聞きせしことを奏せ」
「畏みて承り奉ります」
差し出した両手に、節が授けられた。
節は、思っていたよりも重かった。比羅夫はその重みを受け、もう一度深く額を伏せた。
庭の向こうで風が立ち、木々の葉が一斉に鳴った。
あの日から、幾月が過ぎただろう。
角鹿を発ち、沼垂を過ぎ、淡嶋を望み、鳥海の雪の山を遠くに見て、船団は北へ進んだ。
齶田では土地の長たちが贈り物を携えて迎え、渟代では山へ逃げた者もいた。
津刈の浜に至るころには、船の者たちも北の言葉を幾つか覚えていた。
比羅夫は各地の長に布や鉄を与え、大君の御言を伝えた。長たちは頭を下げ、贈り物を受け取った。
*
「朝臣、浜に人がおります」
比羅夫は顔を上げた。
岸には細長い舟が幾艘か引き上げられていた。その奥に木と草で覆われた家があり、魚を干す棚が並んでいる。
毛皮をまとった男たちが浜へ出てきた。
先頭の男は背が高く、肩に白い獣皮を掛けていた。ほかの者は弓を持ち、こちらの船を見ていた。
比羅夫は兵を十人ほど連れて上陸した。
「我らは大倭の大君の使いである。そなたらの長に会いたい」
津刈から従ってきた通詞が、言葉を探しながら伝えた。白い毛皮の男は何かを答えたが、通詞には聞き取れなかった。
比羅夫は従者に命じ、布と鉄の品を浜に並べさせた。刀も一本、鞘に納めたまま置かせた。
男たちは相談を始めた。
やがて、年老いた男が二人、家の方から下りてきた。一人は白い髭を胸まで垂らし、もう一人は腰が曲がっていた。
白髭の老人が刀を取り上げ、鞘から少し抜いた。刃に鈍い日の光が映った。
老人は何かを言い、刀を鞘に戻した。
そして、布も鉄も、すべて比羅夫の前に押し返した。
「受け取らぬのか」
通詞が問いかけたが、老人は首を振った。
もう一人の老人が海を指さし、続いて陸の奥を指さした。何かを繰り返し言ったが、比羅夫には一言も分からなかった。
「この浜を去れと申しているようにございます」
通詞が言った。
「何ゆえに」
「それは……」
比羅夫は老人たちの顔を見た。白髭の老人は、なおも海を指さしていた。
「我らは大君の御言を伝えに来た。争うためではない」
通詞が伝えると、老人たちは顔を見合わせた。
やがて二人とも家の方へ戻っていった。
比羅夫は、浜に残された品々を見下ろした。
「船へ戻る」
*
その日の夕暮れ、浜の家々の周りに木が運ばれ、柵が築かれ始めた。
比羅夫は沖に船団を留め、翌朝もう一度使いを出すよう命じた。
しかし、夜半、見張りの船から角笛が鳴った。
霧の中を、小さな舟が幾艘も近づいてきた。最初の矢が船の舷側に当たり、続いて幾本もの矢が甲板に落ちた。
「盾を寄せよ」
兵たちは盾を立て、弓を構えた。
暗い海から舟が現れ、また霧に消えた。
櫂を漕ぐ音が近づき、叫び声が聞こえた。比羅夫の船からも矢が放たれ、一艘の舟で漕ぎ手が海へ落ちた。
岸の方からも声が上がった。
柵の内側に火が灯り、幾つもの人影が動いていた。
*
「浜へ上がる。船を焼かせるな」
夜明け前、兵たちは岸に上陸した。
小石の浜を駆け上がると、柵の向こうから矢が飛んできた。盾を構えた兵が倒れ、後ろの者がその体を引きずった。
柵の一角が崩されると、比羅夫の兵たちはそこへ殺到した。槍と刀がぶつかり、濡れた木の上に血が落ちた。
能登臣馬身龍は、先頭に立って柵の内へ踏み込んだ。
背の高い男だった。角鹿を出るときから比羅夫に従い、幾度も海を渡ってきた。
「続け!」
馬身龍が叫ぶ。
その声が突然途切れた。
柵の陰から放たれた矢が、馬身龍の胸に刺さっていた。
馬身龍は二、三歩よろめき、膝をついた。近くにいた兵が駆け寄ったが、彼はすでに倒れていた。
比羅夫は兵を進ませた。
柵の内では、なおも戦いが続いていた。火のついた家から煙が上がり、女たちの甲高い叫びが聞こえた。
やがて抵抗する者は少なくなった。
浜には、敵味方の死者が横たわっていた。
白い毛皮をまとった男も、家の前で倒れていた。傍らには折れた弓があり、その手はまだ弦を握っていた。
比羅夫は馬身龍の亡骸の前に膝をついた。
矢は胸の深いところまで刺さっていた。比羅夫は布を取り、潮と血に汚れた顔を拭った。
角鹿の港で、この男は妻と幼い娘に見送られていた。娘は父の衣の裾をつかみ、船へ乗るのを嫌がっていた。
馬身龍は笑って娘を抱き上げ、秋には戻ると言った。
比羅夫は、そのときの声を覚えていた。
「朝臣」
舎人が近づいてきた。
「柵の内に、女や子の亡骸がございます」
「生きている者は」
「幾人か、山へ逃げたようにございます」
「傷ついた者には水を与えよ」
舎人は一礼して去った。
比羅夫はもう一度、馬身龍を見た。
*
昼を過ぎるころ、戦いは終わった。
死者たちは、海を見下ろす小高いところに葬ることになった。兵たちは穴を掘り、石を集めた。馬身龍の亡骸も白い布に包まれ、ほかの死者たちと並べられた。
夕刻、比羅夫は兵を集めた。
海から霧が上がってきていた。
墓の前に積まれた石は、すでに白く霞んでいた。浜へ下りる道も半ば隠れ、そこを登ってくる兵たちの姿が、霧の切れ間に見え隠れした。
比羅夫は死者たちの名を読み上げた。
名を呼ばれるたびに、兵たちは頭を垂れた。
やがて、年老いた舎人が低く歌い始めた。
「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ」
幾人もの兵たちが声を合わせた。
霧の向こうに、兵の姿が浮かび上がった。肩に弓を掛けた男が、口を動かしながらゆっくりと浜を登ってくる。その後ろにも二人、三人と人影が見えたが、霧が流れると、すぐに分からなくなった。
「大船の 舳向かふところ 沖つ波 八重に隔てて 大和島 見ゆる日もがも」
低い声が続いた。
比羅夫の傍らでは、若い兵が目を伏せて歌っていた。少し離れたところに立つ男は、時折口を閉じ、また周囲に合わせて歌い始めた。
「朝霧の 立ち隠らへば 夕潮の 満ち来る浜に 葦辺には 鶴が音聞こゆ」
浜の方からも声が聞こえてきた。
霧が薄くなると、波打ち際に立つ兵たちの姿が見えた。船を守る者たちであった。槍を手にしたまま歌っている男もいた。
やがて、霧の向こうから別の声が聞こえてきた。
初めは風の音かと思った。低く長く引く声がひとつ、陸の奥から流れてきたのである。
声は途中で細くなり、消えかけたところへ、別の声が重なった。
比羅夫は顔を上げた。
聞き慣れぬ節であった。ひとつの音を長く伸ばし、喉の奥で震わせている。
男の太い声に女の高い声が重なると、霧の中で幾重にも響き、どこから聞こえてくるのか分からなくなった。
比羅夫は、若いころ、山背の山中で聞いた鹿の声を思い出した。
秋の夕暮れ、谷を隔てて牡鹿が鳴き交わしていた。姿は見えず、ただ細く引く声だけが、暮れ残る山々を渡ってきた。
しかし、今聞こえる声には言葉があった。
何を歌っているのかは分からない。ときおり同じ音が繰り返され、そのたびに幾人もの声が揃った。やがて女の声がひときわ高く上がり、急に途切れた。
比羅夫は、馬身龍の妻が夫の亡骸を迎えたなら、どのように哭くだろうかと思った。
角鹿の港で、幼い娘を抱き上げていた馬身龍の姿が浮かんだ。あの娘は、父が帰らぬと聞けば、初めは何を言われたのかも分かるまい。
霧が流れ、遠い浜に小さな火が見えた。
火の傍らに人影が幾つか立っている。肩を寄せているようにも、誰かを囲んでいるようにも見えたが、すぐに霧が厚くなり、火も人も隠れてしまった。
「粛慎の者どもでしょうか」
舎人が尋ねた。
「そうであろう」
比羅夫は答えた。
大倭の兵たちの歌は、いつしか静まっていた。墓の前に立つ者たちも、浜で船を守る者たちも、霧の向こうに耳を澄ませていた。
女の声がまた高く上がった。
比羅夫は、浜で贈り物を押し返した白髭の老人を思い出した。あの老人も、この声の中にいるのだろうか。
霧の向こうで、歌はいつまでも続いていた。
*
翌朝、船団は南へ向かった。
比羅夫は船の舳先に立ち、遠ざかる陸を見ていた。
霧が低く垂れ、浜はもう見えなかった。木々の梢がしばらく見えていたが、それもやがて白い靄に紛れた。
「朝臣」
舎人が近づいてきた。
「この戦のこと、御門にはいかように奏しましょう」
「粛慎を討ったと申し上げよ。得た船の数も記せ」
「はっ」
「こちらの死者の名も、一人残らず記すのだ。能登臣馬身龍の働きも、忘れるな」
舎人はうなずいた。
比羅夫は海を見た。
船はまだ霧の中を進んでいた。昨夜の歌はもう聞こえず、櫂が水を掻く音ばかりが続いている。
革帯に手を当てると、指先に刀の柄が触れた。
飛鳥の宮で節を賜ったとき、御簾の奥から聞こえた大君の御声が、ふと耳に蘇った。
「海の果てより帰り来たりて、見聞きせしことを奏せ」
顔を上げると、霧の向こうに南へ続く海があった。




