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第九話:引き戻す煙と口づけ

肺の奥が焼けるような感覚を無視し、俺は神社の鳥居を潜り抜けて境内の石畳へと滑り込んだ。

視界に飛び込んできたのは、最悪の光景だった。

大吾が右胸の上を深く抉られ、おびただしい量の鮮血を流して昏倒している。その身体に覆いかぶさるようにして、椎名が獣のような喉鳴らしを響かせていた。

彼女の瞳は完全に人外の赤へと染まっている。大吾の血の匂いに突き動かされ、彼女の指先は爪を剥き出しにして更なる肉を求めていた。本能に呑まれた彼女の肉体からは、かつての理知的な気配など完全に消え失せている。

「――グアァアアッ!」

俺が駆け寄る気配を察知し、椎名が弾かれたように振り返る。その瞬間、彼女が地面を蹴った。

人間の域を遥かに超えた加速。だが、俺は最小限の動きでその突進をかわし、すれ違いざまに彼女の側頭部を手のひらで強く打ち据えた。

鈍い衝撃音が響き、椎名の身体が境内の石灯籠へと叩きつけられる。

だが、正気を失っている彼女にとって、脳を揺さぶるような一撃もただの障害物でしかない。椎名は即座に瓦礫の山から跳ね起き、瓦礫を砕くほどの力で俺へと再び飛びかかってきた。

俺は迫る彼女の爪を左手で受け流し、がら空きになった腹部へ強烈な膝蹴りを叩き込む。

肉が内側に深く沈み込む感触。椎名の口から血混じりの息が漏れ、身体がくの字に折れる。

吸血鬼の肉体は頑丈だが、始祖である俺の出力は彼女の防御を容易く突き破る。俺はそのまま折れた彼女の背中を掴み、地面へと強引に叩きつけた。

「――っ!」

石畳が砕け、椎名の身体が砂煙の中に埋まる。

それでも彼女は爪を研ぎ澄まし、俺の脚を食い千切らんと足元へ這い寄ってくる。獣の域に堕ちた執念。だが、その動きには明確な粗さがあった。

俺は彼女の両手首を片手でまとめ、背後から締め上げるようにして動きを完全に封じた。

椎名は激しく首を振り、耳を劈くような咆哮を上げながら俺の拘束から逃れようと暴れる。彼女の荒い呼吸が俺の胸元に吹き付け、血の匂いが俺の肺を刺激する。

「……正気に戻れ。これ以上、自分を殺すな」

俺は懐から愛用のハイライトの箱を取り出した。

箱は鬼人たちとの戦闘で無残に潰れ、中の数本は折れていたが、一本だけ形を保っているものがあった。それを唇に挟み、ポケットから取り出したライターで火を点ける。

深く、強く吸い込み、タール17ミリの重く濃密な煙を、肺には落とさず口内いっぱいに溜め込む。

「――っ、ガァッ!」

俺は暴れる椎名の顎を左手で強引に固定し、天を仰ぐような格好にさせた。

彼女の濁った赤い瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。

俺は顔を下げ、抵抗する彼女の唇へと自らの唇を強く押し当てた。

「――むっ……っ!」

驚愕に椎名の身体が硬直する。その隙を突き、俺は互いの唇の隙間を完全に塞ぎながら、口の中に閉じ込めていた限界濃度の煙を、彼女の肺の奥へと押し込むように一気に吹き出した。

逃げ場のない熱いヤニの塊が、椎名の口腔から喉を通り、彼女の肺へとダイレクトに強制注入されていく。

吸血鬼の鋭敏な粘膜にとって、生煙の刺激はあまりにも凶悪だ。喉の奥を鉄の棒で焼かれたような猛烈な苦味と、脳の髄まで強引に絞り上げるような強烈な目眩が、獣と化した彼女の神経を内側から破壊していく。

「……ごほっ、あ……っ」

唇を離した瞬間、椎名は激しく身をよじり、その場に崩れ落ちた。

全身を痙攣させるような激しい刺激が、暴走していた吸血衝動の回路を強制的に焼き切る。

やがて、彼女の瞳から濁った赤が急速に退き、元のクリアな色彩が戻ってきた。

「……夜先生……?」

椎名が掠れた声で呟く。その瞳には、完全な正気が宿っていた。

「動くな。そのまま大人しく呼吸を整えていろ」

俺は彼女の背中を支えたまま、すぐそばで昏倒している大吾の脈を確かめた。

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