第五話:大食漢の新人吸血鬼
あの最悪な夜から明けた、翌日の昼下がり。
外からは、五月の瑞々しい新緑の匂いと、どこか気の抜けた鳥の鳴き声が、薄暗い四畳半の室内に紛れ込んできていた。
「……く、ふぅ……っ」
私は部屋の片隅に膝を抱えて座り、ひどく不格好な手つきで煙草を吸い込み、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
手元にあるのは、夜先生から渡されたタール17ミリの「ハイライト」。生まれて初めて吸う煙草だ。吸い込んだ瞬間に、喉の奥を熱い鉄の棒で焼かれたような猛烈な苦味と、脳を雑巾のように絞られるほどの強烈な目眩が襲ってきた。
視界がぐらぐらと歪み、涙がぼろぼろと溢れ出る。けれど、それと同時に喉の奥を内側から焼き焦がしそうになっていた、あの悍ましく不気味な「血への渇き」が、煙の膜に覆われるようにしてすうっと冷えていくのが分かった。
脳の吸血衝動を、ニコチンへの渇望で強制的に上書きする。
それが、人間側の世界に踏み止まるための、今の私に許された唯一の首輪だった。私は、吐き気のするようなヤニの味を必死に堪えながら、涙をスーツの袖で乱暴に拭った。
「……はあ。本当に、とんでもないことになっちゃった……」
私はぽつりと呟き、灰皿の縁にこれでもかと煙草を押し付けた。
夜世界のバケモノに襲われ、命を繋ぎ止める代償として吸血鬼の眷属にされてしまった。昨日の今日では、とても現実として受け入れられるものではない。
でも、いつまでも悲しんでばかりもいられない。私は文芸新報社の編集者だ。それに、何よりあの絶望的な状況から私の命を救ってくれた夜先生には、悔しいけれど厳然たる感謝の念がある。
「よし……。居候させてもらう以上、せめてお礼に部屋の片付けをして、先生の打ち切りを阻止するための企画書作りを頑張ろう」
手の平で自分の両頬を強く叩き、気合を入れた。スーツの袖を、実家のお母さんが見たら泣き出すくらいに力強く捲り上げる。
足元では、黒いポメラニアンの大福がトコトコと歩み寄り、小さな前足で器用に雑巾を絞って私に差し出してくれている。
力を入れず、普段どおりに意識していれば、こうしてタバコを吸うことも、大福から雑巾を受け取ることも問題なくできるのだ。
「ありがとう、大福。あなたって本当に有能で可愛いのね」
『当然です。私は第一従者ですから。それより椎名、力をフルに使うときは気をつけなさい。あなたの肉体は、すでに人間の限界を遥かに超えた出力を出せるようになっているのですから』
「分かってるわ。その時だけ力加減に気をつければいいだけでしょ?」
私は雑巾を受け取り、まずは散らかった室内を片付けることにした。
夜先生は酷い寝不足のはずだ。万年床の古い布団に潜り込み、今は微かな寝息を立てている。起こさないよう、忍び足で静かに動かなければ。私は先生の枕元に転がっていた重厚なガラス製の灰皿に目を留めた。さっき私が捨てたものも含め、タールが染み付いた吸い殻が山盛りになっている。これを静かに持って、ゴミ箱へ――。
だが、持ち上げる瞬間に、灰皿が想像以上にずっしりと重く感じられた。
(あ、意外と重い……!)
ほんの少し、本当に無意識に指先に力を込めて上へと引っ張った――その瞬間だった。
力が入りすぎた。静かに持ち上げるつもりが、本気を出そうとした瞬間に人外の筋力が暴走し、灰皿をものすごい勢いで上空へと引き抜いてしまったのだ。私の手首は制御を失い、手元が狂って灰皿を空中で思いきり引っ返す形になってしまった。
重いガラスの灰皿が畳の上に激しく衝突し、凄まじい衝撃音とともに、山盛りになっていた大量の灰と吸い殻が、眠っている先生の顔面へと真っ逆さまに舞い散った。
「ごほっ!? げほっ、ごほっ……!?」
最悪の煙幕を食らった夜先生が、灰まみれになりながら、勢いよく跳ね起きた。髪の毛から顔の凹凸に至るまで、綺麗に灰の粉でデコレーションされている。
「あ、大変!? 先生! すみません、起こすつもりじゃなくて!」
パニックになった私は、先生の顔についた灰を急いで拭き取ろうと、驚異的な反射神経で両手を伸ばし、彼の黒いシャツの襟元を掴んだ。
だが、焦りでまたしても「本気の力」が入ってしまう。
衣服の繊維が耐えきれずに引き裂かれる、鋭い破断音が狭い部屋に響いた。
私の手の中に残ったのは、完全に引きちぎれた黒いシャツの残骸だけだった。夜先生の、無駄なく引き締まった胸板と腕の筋肉が露わになる。先生は灰まみれ、かつ上半身裸の状態で、凍りついたように私を見つめていた。その目は、獲物を狙う野生動物よりも冷たかった。
「……お前、俺を殺す気か」
先生が胸元についた灰を静かに払いながら、ポケットから新しいハイライトを滑らかな動作で取り出して火をつけた。
「す、すみません! 本当にわざとじゃなくて! 気遣おうとしたら加減が分からなくて……っ! あ、でも先生、そのお布団も灰まみれになっちゃいましたね。よし、ついでですから私、そのお布団を綺麗に洗って外に干して差し上げます!」
「おい、待て、お前は動くな――」
先生の制止を聞くよりも早く、私は自分のしでかした大やらかしを挽回しようと猛烈に焦っていた。灰まみれの重い掛け布団を強引に抱え上げ、神社の裏手にある大きな共同洗濯場へと全速力で急いだ。
タライに冷たい水を張り、粉洗剤を大量に入れ、布団を丸ごと突っ込んで力任せに手洗いする。
ここまでは良かった。力を抜いていれば、普通に洗濯はできたのだ。
問題は、それを全力で絞って、物干し竿に干そうとした瞬間だった。
「よーし、しっかり水分を切って、お日様に当てなきゃ!」
水分を吸って十数キロの重さになった布団。それを、私は親切心から全力で雑巾のように絞り上げ、水気を切るために両手で勢いよく広げた。
布地が限界を迎えて爆裂するような、凄まじい繊維の裂傷音が境内に響き渡った。
「……え?」
私の手の中に残っていたのは、左右に綺麗に真っ二つに引きちぎれ、中の綿が初雪のように虚しく四方に舞い散る、哀れな布切れの残骸だった。脳のストッパーが外れた無慈悲な握力と腕力が、濡れた布地の耐久度をあっさりと置き去りにして引き裂いたのだ。宙に舞う綿を見つめながら、私は自分の手の平を凝視して硬直した。
『……蓮次、やはり眷属のエネルギーが限界です。ただでさえ慣れない出力を使ったせいで、これ以上燃料が切れれば力が出なくなるどころか、飢餓感でせっかく抑えた吸血衝動がぶり返しますよ。早く近所のスーパーへ買い出しに行かせなさい。もちろん、私の監視付きで』
いつの間にか物干し場の陰から現れていた大福が、完全に呆れ果てたような目を向けながら冷徹な念話を響かせる。
大福の指摘通りだった。さっきあれだけの丼を食べたばかりだというのに、布団を一枚引きちぎった刹那、私の胃袋を裏返すような猛烈な飢餓感が襲いかかり、同時に、喉の奥がまたチリチリと焼けつくように渇き始めていた。
人間の限界を超えた出力を出すということは、それだけ命の燃料を異常な速度で燃やすということなのだ。驚異的な燃費の悪さだった。
「あ……う、あ……っ」
早く何かを食べなければ、またあの悍ましい飢えに理性を乗っ取られてしまうかもしれない。
喉を鳴らし、再び化け物の感覚に怯えそうになった私の口元に、突然、固い感触が割り込んできた。
「……吸え」
見上げると、夜先生が、自分のポケットから取り出した新しいハイライトを、私の唇の間に容赦なく押し込んでいた。先生はジッポの音を響かせて火をつけると、私の頭を大きな手で乱暴に掴んで固定する。
「深く吸い込んで脳を冷ませ。そのヤニで渇きを上書きしろ。ここで暴走したら、今度こそ俺がその首を撥ねるぞ、椎名」
「く……、ふぅ……っ! げほっ、ごほっ……!」
言われるがまま、私は必死に煙を肺の奥まで吸い込んだ。タール17ミリの容赦ない苦味と強烈な目眩が脳を激しく揺さぶり、あまりの痛さに涙が溢れる。けれど、その猛烈なヤニクラのおかげで、理性を喰い荒らそうとしていた初期の渇きが、波が引くように急速に鎮まっていった。
夜先生は、私が完全に落ち着いたのを見届けると、ふぅ、と鬱屈したため息を天井に向けて吐き出した。そしてトレンチコートのポケットから、くしゃくしゃの五千円札を数枚乱暴に抜き取ると、私の胸元へ無造作に押し付けてきた。
「これを持ってさっさと行ってこい。大食いライターの取材じゃねえんだ、二度と飢餓でバケモノに戻りかけるな。……大福、見てろよ」
「は、はい……! 行ってきます!」
私はお札を握りしめ、大福を連れて近所のスーパーへと駆け込んだ。
お肉とお米、外部の連中の動線(大福が小さな前足で的確に指し示すタイムセールのひき肉)などを次々とカゴに放り込んでいく。総重量2キロを軽く超える食材で山盛りになったカゴをレジへ持っていき、五千円札を支払うと、返ってきたお釣りは小銭が数枚だけだった。
よし、これを持ってアパートに戻ろう。私は両手でプラスチックの薄いレジ袋の持ち手を握り、ほんの少し、本当にほんの少しだけ、持ち上げるために指先に力を込めた。
レジ袋のビニールが圧力に耐えかねて引き裂かれ、持ち手が粉々にちぎれ飛んだ。
重いお肉や米のパックが、一斉に重力に従って地面へと落下していく。
「あ、危ないっ!」
人間の限界を超えた速度を持つ私の神経が、世界を恐ろしいほどのスローモーションとして捉え始める。
落ちていく食材のパックが、ゆっくりと宙を舞っている。私は電光石火の速さで両手を振り回した。肉パック、右手でキャッチ!お米の袋、左腕でセーフ!そして、最後に残った、宙を回転しながら落ちていくマヨネーズのボトルを、右手で力強く掴み取った――。
その瞬間に、あまりにも強い圧力がかかり、容器が内側から吹き飛んだ。
力加減を誤って、掴む瞬間に指先で思いきり握りつぶしてしまったのだ。ボトルから、真っ白なマヨネーズが凄まじい圧力を伴って、まるで高圧洗浄機のレーザーのように噴射された。
それは容赦ない放水となって、私の顔面、外部でお座りをしていた大福の頭部へと直撃した。
静まり返るスーパーの店先。
頭から大量のマヨネーズを被り、完全に白く染まったポメラニアンが、般若のような冷徹な念話を脳内に響かせる。
『……蓮次、眷属の再教育、および実戦訓練が必要です。このままでは街が滅びます』
「ごめん大福! 本当に悪気はなかったの! 今すぐ拭くから!」
いたたまれなくなった私は、マヨネーズのぬめりを手に感じながら大福を小脇に抱え、ほうほうの体でアパートへと命からがら帰還した。
マヨネーズまみれの大福を先生が冷たい目でお風呂場へ連れていき、私は自分の顔を洗って、ようやくガムテープで応急処置された古い木製の机の前に座った。
「……うぅ、散々な目に遭ったわ。でも、落ち込んでる暇はない。本業をしなきゃ」
私はボロボロのノートを開き、朧月夜先生の新作プロットを組み立て始めた。
あのコインパーキングでの不気味なバケモノたち。彼らの背後にある組織の謎。これを泥臭いリアルな怪奇小説に落とし込めば、絶対に今風の異世界ブームなんて叩き潰せる。
「よし……この切り口なら、あの編集長を絶対に黙らせられます!」
興奮のあまり、脳に熱が上る。アイデアが次々と溢れ出し、私は手元にあったボールペンを強く握りしめた。
硬質なプラスチックが砕ける破損音。
指の力だけでペン軸が粉砕され、中の黒インクが周囲に飛び散った。
興奮して無意識に力を込めた瞬間に、人外のパワーがまた暴走したのだ。
頭の芯がパニックになり、私は悔しさから、思わず机を拳で激しく叩いてしまった。
木材が割れる凄まじい音が部屋に鳴り響く。
頑丈なはずの木製の机の天板が、私の拳の形を中心に、綺麗に真っぷたつへと叩き割れた。
「…………」
割れた机の隙間から、お風呂から上がって綺麗になった大福と、コーヒーカップを持った夜先生が、完全に凍りついた目でこちらを見つめていた。
静寂が、四畳半の部屋を支配する。
私は割れた天板の破片と、インクまみれの壊れたペンを両手で握りしめたまま、引きつった笑顔を精一杯に浮かべ、震える声で言った。
「……ほ、弘法、筆を選ばず……って、言いますしね……?」
「机を割って言うセリフじゃねえな、このバケモノ」
先生が深いため息とともにハイライトの煙を吐き出し、ガムテープを再度取り出して、真っぷたつになった机をガチガチに応急処置し始めた。
「お前な、普段の生活は普通にできてんのに、なんで力をフルに使う時だけそうやって加減をブチ壊すんだ。四六時中、周囲の物を破壊して回る気か」
「うぅ……だって、本気を出そうとすると、急にこんな力が出ちゃうからコントロールが……」
言い訳する私を見て、先生はふんと鼻を鳴らすと、台所の隅から古いザルを持ってきた。その中には、ゴツゴツとした茶色い球体――乾燥した頑丈な生胡桃が大量に入っていた。
先生はその中から一つ、大振りの胡桃を拾い上げると、私の目の前に置いた。
「いいか。吸血鬼の力ってのは、筋肉が増大したわけじゃねえ。脳の安全弁がブチ壊れて、肉体の最大出力を常に垂れ流せるようになってるだけだ。だから本気を出せば出すほど、肉体が著しく飢餓状態に陥る。お前がさっきから無限に腹を減らしてやがるのは、パワーの蛇口を開けっぱなしにしてエネルギーを無駄遣いしてるからだ」
先生は自分のハイライトに火をつけ、煙の向こうから私を指差した。
「俺が戦うとき、一瞬だけしか力を解放しないのは、必要最低限の出力だけを意識してすぐ蛇口を閉めてるからだ。お前みたいに全開のまま垂れ流してたら、一晩で牛一頭食っても足りねえぞ。……ほら、その胡桃を指先で握ってみろ。殻を割るにはお前のその人外の力が要るが、殻が割れた瞬間に蛇口を閉めなきゃ、中身の身まで木っ端微塵にすり潰すことになる。中身を無傷のまま、殻だけを綺麗に割ってみせろ」
「えっ……こ、こんなに硬いのに……?」
冷徹に突きつけられた、全開時のコントロールの重要性。
私はごくりと唾を深度まで飲み込み、補修された机の上の胡桃に、恐る恐る手を伸ばした。
人差し指と親指で胡桃を挟み、じわじわと力を込めていく。普通の人間なら指が痛くなるだけだが、今の私の指先は、本気を出せば出すほど、人外の領域へと出力を上げていく。ゴツゴツとした殻の硬い感触が、指の腹を通して脳に伝わる。
(あ、割れる――!)
殻に亀裂が入った、その瞬間。
殻が爆裂する音が響いた。
「あ」
力が止まらなかった。殻が砕けた衝撃のまま、私の指先は一瞬で最大出力まで突き抜けてしまい、中のおいしい実ごと、胡桃をただの茶色い粉末へと完全に握りつぶしてしまったのだ。ガムテープの机の上には、粉々になった殻と、無残にすり潰された実の残骸が虚しく散らばる。
「蛇口を閉めるのが遅え。やり直しだ」
「うぅ……そんなこと言ったって……!」
少しでも焦ると、パワーの蛇口がガバッと開きっぱなしになってしまう。力を込めることと、それを一瞬で止めることの同居。それは、走っている新幹線を寸分の狂いもなく急停車させるような、気の遠くなるような精神力が求められた。
私は冷や汗を流しながら、次の胡桃に手を伸ばした。
二個目、粉砕。三個目、手の平の中で爆発。四個目、お腹の虫がまた派手に鳴り響く。
真面目な私の性格が災いして、顔が悔し涙でぐしゃぐしゃになりそうだった。
「先生、これ、難しすぎます……っ」
「泣くな、頭を使え。割れた瞬間に力を抜くんじゃねえ、最初から割る瞬間の出力だけを狙い澄まして、一瞬だけ蛇口を叩くイメージだ。……ほら、大福を見ろ」
横を見ると、大福が不敵に胸を張っていた。
大福は床に落ちた胡桃を前足で一瞬だけ踏みつけると、乾いた破裂音とともに、外側の殻だけが綺麗に二つに割れ、中から無傷の綺麗な実コロンと転がり出た。大福はそれを器用に口でキャッチし、おいしそうに咀嚼している。
『私は普段、極限までエネルギーを消費しないよう、この完璧な省エネモードの出力を維持しているのです。戦闘の時だけ一瞬、必要な分だけ蛇口を開いてすぐ閉じる。これがプロの業ですよ、椎名』
「犬にできて、人間にできねえわけがねえだろ。ほら、ザルの中身がなくなるまで付き合ってやるよ」
夜先生の厳しいながらも的確な叱咤に、私はぐっと唇を噛み締め、五個目の胡桃へと指を近づけた。
何度も何度も失敗し、指先を震わせ、呼吸を整えながら――私は、フルパワーの蛇口を瞬時にコントロールするという、人外としての過酷な訓練に、ただ必死に食らいついていくのだった。
吸血鬼の眷属となった真壁椎名の、あまりにも型破りな日常。
その力を本当の意味で「飼い慣らす」ための泥臭い戦いは、まだ始まったばかりだった。




