第十話:飢餓の獣たち
あの恐ろしい夜から、丸一日が経過していた。
昨夜、神社の境内で嫌というほど鼻をついた生温かい血の匂いは、もうここにはない。代わりに私を包んでいるのは、夜先生の部屋に漂う、いつも通りの少し古びた畳の匂いだった。
目の前の静かな景色を見ていると、あの地獄のような時間がまるで嘘だったんじゃないかとさえ思えてくる。
スマホの画面に表示されているニュースを見ても、昨夜の神社のことは一言も報じられていなかった。
あれだけの破壊と、大量の血が流れた凄惨な現場だったのに。夜先生の話では、大吾さんと繋がっているらしい警察の裏の組織が、夜明け前にすべてを綺麗に片付け、何事もなかったかのように隠蔽したのだという。
警察すら味方につけて処理させる大吾さんの背景の不気味さに、私は小さく身震いした。
大吾さんの容体は、お世辞にも楽観視できるものではなかった。病院へと搬送された彼は、そのまま集中治療室に入れられ、今は絶対安静の面会謝絶。弾け飛んだ肉の傷は深く、未だに意識は戻っていない。生死の境を彷徨っている状態だった。
対して、大福の身に異状はなかった。眷属の系統に連なる従者という生き物は、肉体の構造そのものが人間とは違うらしい。おびただしい血を浴びて倒れてはいたけれど、致命的な部位は免れていた。夜先生がその黒いモフモフの毛並みをかき分けて確認した傷口も、すでに内側から肉が盛り上がり、塞がり始めている。食事を取り、数日安静にしていれば、元通りの姿に戻るそうだ。
それは、夜先生も同様だった。
強化された鬼人たちに胸を深く抉られたという、普通の人間なら即死しているレベルの重傷。だけど、始祖としての回復力は健在で、シャツに染み付いた黒い血痕だけが激戦の名残だった。夜先生も、失った血液に見合うだけの栄養を摂れば、すぐに完全な状態に戻るらしい。
「……あの、夜先生」
沈黙に耐えかねて、私は声を絞り出した。
私も、夜先生に叩きつけられたときの打撲や擦り傷を負ってはいたけれど、この場にいる全員の中で一番怪我は浅い。食事を摂ればすぐに治る見込みだった。
だけど、私の心は、肉体の傷とは全く違う重圧で、今にも押しつぶされそうだった。
「私のせいです。私が、もっと早くに……吸血鬼として戦う覚悟を決めていれば、大吾さんがあんな目に遭うことも、大福がこんな大怪危をすることもなかったのに」
膝の上で握りしめた私の拳が、白くなるほどに震える。爪が手のひらに食い込んで、じわりと血が滲んだ。
私の頭に焼き付いていたのは、傷ついた仲間への罪悪感だけじゃない。もっと根深い、自分の内側に潜む「化け物」への恐怖と絶望だった。
「私……あの時、大吾さんの傷口から出た血の匂いを嗅いで、本当に頭がおかしくなりそうだった。助けなきゃいけないのに、心のどこかで、あの血を飲みたいって……もっと欲しいって、本気で思ったの。もし夜先生が来てくれなかったら、私は自分の手で、大吾さんの命を奪っていたかもしれない」
言い知れぬ恐怖が、私の全身を縛り付ける。
初めて直面した、吸血鬼としての本能の暴走。どれだけ理性で抗おうとしても、血の香りの前には簡単に瓦解するという残酷な現実。自分が、大切な人間を脅かす捕食者の側へ完全に堕ちかけていたという事実が、私を底なしの絶望へ突き落としていた。
夜先生は唇にハイライトを咥え、ライターで火を点けた。
紫煙がゆっくりと天井へ向かって立ち上る。夜先生はその煙の向こうから、怯える私を真っ直ぐに見据えた。
「勘違いするな、椎名」
夜先生の声は低く、だけど確かな重さを持って私の鼓膜に届いた。
「お前が感じたその衝動は、異常でも何でもない。血を求めるのは、俺たち吸血鬼にとって呼吸をするのと同じだ。飢えた獣が目の前の肉に噛みつこうとするのを、誰が責められる?」
「でも、私は……!」
「重要なのはそこじゃない」
夜先生は私の言葉を遮った。
「お前は、大吾を噛まなかった。俺が引き剥がすその瞬間まで、本能に塗りつぶされそうになりながらも、最後の死線で踏みとどまり、自分の爪でお前自身の肉を毟ってでも大吾を守ろうとしていた。それが事実だ」
夜先生は立ち上がり、へたり込んでいる私の頭に、ぽんと手を置いた。
「最初から完璧な奴なんていない。その恐怖を忘れるな。化け物になりたくないと願うその臆病さこそが、お前を人間に繋ぎ止める鎖になる。……お前が望むなら、その鎖の扱い方は、いくらでも俺が教えてやる」
夜先生の手のひらの温かさが伝わってきて、私の身体の震えが、ゆっくりと収まっていく。
私は涙を手粗に拭うと、顔を上げ、これまでになく強い光をその目に宿して夜先生を見つめた。
「……私、強くなりたいです。大切な人を、今度こそ私の力で守れるだけの強さを手に入れたい。だから、夜先生……これからも、私を置いていかないでください」
「安心しろ。お前が音を上げるまで、徹底的に付き合ってやる」
夜先生がそう言うと、大福が同意するように低く喉を鳴らした。
私の心の中に、ようやく小さな温かさが戻る。夜先生たちとの心の繋がりが、前よりも深く、強固なものに変わったのを感じた。
「よし、話は終わりだ。覚悟を決めたなら、まずは戦うための燃料を補給しにいくぞ」
夜先生の言葉と同時に、私の、あるいは大福の、さらには夜先生の黒いお腹からも、同時に情けない音が響いた。丸一日何も口にしていないのだ。吸血鬼の肉体を再生させるためには、何よりもまず、膨大なエネルギーが必要だった。
さっきまでの重苦しい空気は、その音とともに完全に吹き飛んでしまった。
私たちが向かったのは、街の郊外に最近オープンしたばかりの、大型の食べ放題店だった。
敷地内には広々としたテラス席があって、看板には「ペット同伴での食事可能」の文字が大きく書かれている。黒ポメの大福を連れて歩くには、これ以上ないお店だった。
テラス席に陣取った私たちは、注文用のタッチパネルを無言で操作し始めた。
最初は、店員さんも笑顔だった。犬用の肉メニューと、人間用の大盛りコースが運ばれてくるまでは。
だけど、そこからの光景は、さながら飢餓に駆られた猛獣たちの狂宴だった。
私は自分でも引くくらいの勢いで、大皿に盛られた牛カルビやロースを、網で焼く先から次っと口の中へと放り込んでいった。噛み締めるたびに肉汁が弾けて、私の皿は一瞬で空になる。
大福に至っては、お皿の上に出された犬用の生肉を、よく噛みもせずに丸呑みしている。バケツ一杯分はあろうかという肉の山が、大福のモフモフした小さな体の中へと瞬く間に消えていった。
もちろん、夜先生も容赦がなかった。失った血液の分を埋めるように、厚切りのステーキ肉を何枚も同時に網に載せ、両手の箸を休めることなく胃袋へ叩き込んでいる。
「す、すみません……追加のカルビ十人前と、タン塩十人前、あと犬用ミートボウルを五つ……」
私は口の周りをタレだらけにしながら、必死でタッチパネルを連打した。
運ばれてくる肉のスピードよりも、私たちの食べるスピードの方が遥かに早かった。テーブルの上には、あっという間に数十枚の空き皿が、ピラミッドのように高く積み上がっていく。
「おい、そっちのロースは俺の網だ」
「大福、その生肉は豚肉だよっ、あ、もう食べちゃった……」
戦場のような勢いで肉を貪り喰う、二人と一匹の黒ポメ。
追加のお肉を持ってきた若いアルバイトの店員さんは、タワーのようにそびえ立つ空き皿の山と、信じられないペースでお肉を胃袋へと消し去っていく私たちの姿を前に、完全に固まっていた。
トレイを持つ店員さんの手が、見たこともないレベルでガタガタと小刻みに震えている。その顔からは完全に血の気が引き、まるで怪物の群れに遭遇したかのような、圧倒的な恐怖とドン引きの眼差しを私たちに向けていた。
だけど、私たちはそんな視線なんてこれっぽっちも気にせず、ただ次のお肉を網へと滑り込ませるのだった。




