【第6話 第1弾【軍事ざまぁ】――『霜降』のバグフィックス】
【第6話 第1弾【軍事ざまぁ】――『霜降』のバグフィックス】
鉄の匂いがした。
重苦しい軍靴の振動が山を揺らし、三万の軍勢が枯れ谷へ向かって進軍してくる。
帝国旗が吹雪の中ではためいていた。
兵士たちの鎧は霜で白く染まり、吐く息は濁っている。飢えた目。痩せた頬。だがその視線だけは獣のようだった。
食糧。
枯れ谷には食糧がある。
それだけが彼らを動かしていた。
「見えたぞ!!」
先頭の騎士が叫ぶ。
吹雪の向こう。
山を越えた先に、異様な光景が広がっていた。
青空だった。
暖かな陽光。
黄金色の田畑。
風に揺れる稲穂。
そして、湯気。
炊き立ての米の匂いが、風に乗って流れてくる。
「……っ」
兵士たちの喉が鳴った。
何日もまともな食事をしていない。
帝都ではパン一つで殴り合いが起きていた。
なのに。
ここだけが豊かだった。
「ふざけるな……」
馬上のアルベルト皇太子が歯を軋ませる。
目の前の光景が許せなかった。
何故だ。
何故、追放した無能だけが。
何故、自分ではなくコヨミだけが。
「皇太子殿下」
側近が不安げに囁く。
「……本当に攻め込まれるのですか」
「当然だ」
アルベルトは吐き捨てた。
「帝国の土地で採れた作物だぞ。あれは全て帝国のものだ」
「しかし……」
兵士たちは怯えていた。
噂を聞いているのだ。
枯れ谷には神がいる。
季節そのものがコヨミに従っている。
だがアルベルトは怒鳴る。
「たかが追放貴族一人に何ができる!」
その声が響いた時だった。
谷の奥から、ゆっくり一人の男が歩いてきた。
コヨミ・スメラギ。
黒い外套。
片手には帳簿。
その背後では、暖かな風に揺れる黄金の稲穂が波打っていた。
春蕾たち神々の姿もある。
だが彼女たちは笑っていなかった。
静かに。
冷たく。
侵略者を見ている。
アルベルトは馬を進めた。
「久しいな、コヨミ」
「……」
「無能のくせに随分と贅沢をしているようじゃないか」
コヨミは答えない。
ただ静かに懐中時計を開いた。
カチ、と小さな音が鳴る。
「聞いているのか!」
「本日」
コヨミは淡々と口を開く。
「十月二十三日」
風が止まる。
「節気は『霜降』」
その瞬間だった。
空気が凍った。
兵士たちが息を呑む。
さっきまで暖かかった谷の空気が、一瞬で冷え込んでいく。
アルベルトが顔をしかめた。
「……何をした」
コヨミは静かに視線を上げる。
「我が領の帳簿に、あなた方の取り分はありません」
次の瞬間。
ぞわり、と地面から冷気が噴き上がった。
「なっ……!?」
兵士の足元が凍る。
馬が悲鳴を上げる。
鎧が白く染まり始めた。
「う、動かん!?」
「剣が抜けない!!」
金属が凍っている。
武器も。
鎧も。
馬具も。
全て。
絶対零度の霜が、一瞬で軍勢を呑み込んでいた。
「ば、馬鹿な……!」
アルベルトの声が震える。
その時だった。
カツ、カツ、と靴音が響く。
白い霧の中から、一人の少女が現れた。
黒いドレス。
白銀の髪。
ガラス玉みたいな青い瞳。
まるで人形のような少女だった。
だが、その存在を見た瞬間、兵士たちは本能的な恐怖に震えた。
「ひっ……」
少女は静かに首を傾げる。
「主の帳簿を汚す不純物を確認しました」
その声は冷たかった。
感情がない。
冬そのものみたいな声。
「【霜降】、起動します」
少女が指を鳴らす。
パキン。
乾いた音だった。
瞬間。
地面が砕けた。
「ぎゃああああ!!」
兵士たちが悲鳴を上げる。
退路だけが凍結している。
山道が氷の壁になり、完全に封鎖されていた。
逃げられない。
しかも。
「な、なんだこれ!?」
「足が抜けねえ!!」
地面に張り付いている。
靴底が凍りつき、一歩も動けない。
霜降は静かに微笑んだ。
「排除します」
瞬間。
兵士たちの槍が砕けた。
剣が割れる。
鎧が氷漬けになり、重さで兵士ごと地面へ叩きつけられる。
「ぐあっ!!」
「た、助け……!」
絶望だった。
三万の軍勢が、一歩も動けない。
戦うことすら許されない。
その光景を見て、春蕾がぷくっと頬を膨らませる。
「主様をいじめるからだよ」
「そうだそうだ!」
啓蟄が笑う。
「地面ごと食っちゃう?」
「却下だ」
コヨミは即答した。
「肥料効率が悪い」
「主、そこなの!?」
一方、アルベルトは震えていた。
理解できない。
魔法じゃない。
こんなもの、見たことがない。
「こ、コヨミ……!」
彼は叫ぶ。
「やめろ! 私は皇太子だぞ!!」
コヨミは静かに彼を見る。
その目には怒りすらなかった。
ただ冷たい。
帳簿を見る時の目だった。
「皇太子」
「っ……!」
「あなたは勘違いをしています」
風が吹く。
霜降の冷気が谷を満たしていく。
「自然は、身分に従わない」
その一言に、アルベルトの顔が引きつった。
「き、貴様ぁ……!!」
だがその時。
パキン、と嫌な音がした。
アルベルトの剣が、根元から凍り砕けた。
完全な沈黙。
兵士たちの顔から血の気が消える。
勝てない。
本能で理解してしまった。
ここは戦場じゃない。
神域だ。
「に、逃げろぉぉぉ!!」
誰かが叫んだ瞬間、軍勢は崩壊した。
兵士たちは武器を捨て、鎧を脱ぎ捨て、必死で山道を転がるように逃げ始める。
「待て! 戻れ!!」
アルベルトの怒号など誰も聞かない。
恐怖だけが支配していた。
霜降はそれを静かに見送る。
「不純物、撤退を確認」
そしてコヨミを見上げた。
「主。凍結処理、完了しました」
「ご苦労」
霜降はほんの少しだけ頬を染めた。
「……はい」
その後ろでは、黄金の稲穂が静かに揺れている。
暖かな風。
甘い米の香り。
そして逃げ去る帝国軍の悲鳴。
コヨミは静かに帳簿を開いた。
さらさらと数字を書き込む。
『帝国軍』
『戦意崩壊』
『損害率――九二%』
羽根ペンが止まる。
「帝国崩壊まで、あと百十二日」




