【第5話 『夏至』の陽光――主人公の合理、敵のホラー】
【第5話 『夏至』の陽光――主人公の合理、敵のホラー】
その谷には、雪が降らなかった。
「……なんでだよ」
帝国兵のひとりが、震える唇で呟く。
枯れ谷へ続く山道。
兵士たちの吐く息は白く、鎧には霜が張りついている。空は鉛色に曇り、背後の帝国領では吹雪が荒れ狂っていた。
なのに。
谷の向こうだけが、まるで別世界だった。
暖かい風が吹いている。
陽光が差している。
緑がある。
「お、おい……見ろ」
誰かが指差した。
黄金色だった。
広大な田畑いっぱいに、重たげな稲穂が頭を垂れている。風が吹くたび、ざああ……と波のように揺れた。
ありえない。
今の帝国では、麦どころか雑草すら満足に育たないのに。
「なぜ枯れ谷だけ雪が降らない……?」
「なんで風が暖かい……?」
「どうして、あそこだけ夏なんだ……」
兵士たちの声には恐怖が混じっていた。
理解できない。
まるで世界の法則が違う。
その時だった。
谷の上空で、太陽の光が一段と強くなる。
曇り空を押し退けるように、眩い黄金光が降り注いだ。
「コヨミーっ!!」
元気いっぱいの女の声が響く。
空から降ってきたのは、褐色肌の美女だった。
燃えるような金髪。
太陽をそのまま人にしたような笑顔。
彼女は勢いよくコヨミへ抱きつく。
「お日様いっぱい連れてきたよーっ!」
「……夏至か」
「うんっ!」
夏至の神は満面の笑みを浮かべた。
「主、最近ちゃんと日光浴びてないでしょ!? だから太陽魔力めいっぱい増やしといた!」
瞬間。
畑が輝いた。
稲穂がざわりと揺れ、一気に黄金色を深めていく。
米の甘い香りが風に混じった。
収穫直前の香りだ。
啓蟄が泥だらけのまま駆け寄ってくる。
「主! また増えた!」
「増えた?」
「収穫量!」
コヨミは帳簿を開く。
羽根ペンを走らせ、淡々と数字を書き込んでいく。
「……想定比一二八%」
「わーい!」
夏至が嬉しそうに飛び跳ねた。
「もっと増やす!?」
「いや、増やしすぎるな」
「えー!?」
「供給過多は価格崩壊を招く」
その瞬間、夏至はぽかんと口を開けた。
「し、主って、太陽見ても帳簿の話するんだ……」
「合理性は重要だ」
コヨミは真顔だった。
すると春蕾が後ろからひょこっと顔を出す。
「でも主様、最近ちゃんと寝てない!」
「そうだそうだ!」
「主はもっと休むべき!」
「日向ぼっこしよ!」
二十四節気の神々が一斉に騒ぎ始める。
暑いだの寒いだの、もっと甘やかしたいだの。
その光景を見た帝国兵たちは青ざめていた。
「な、なんだあれ……」
「女……? いや、精霊……?」
「違う……もっとヤバい……」
肌で分かる。
あれは“人間が触れていい存在”ではない。
なのに。
その神々が、まるで恋人のようにコヨミへまとわりついている。
「……化け物だ」
兵士のひとりが震えた声で呟いた。
その時だった。
後方から悲鳴が響く。
「開けてくれ!!」
「頼む、食べ物を……!」
痩せ細った民衆だった。
老人。
女。
子供。
皆、頬がこけ、ボロ布を纏い、雪まみれになっている。
帝都から逃げてきた難民たちだ。
「もう帝国には食べ物がないんです!」
「子供だけでも助けてくれぇ……!」
泣き声が谷へ響く。
その光景を、コヨミは静かに見つめた。
帝国は既に崩壊を始めている。
市場価格の暴騰。
物流停止。
冷害。
暴動。
予測よりやや早い。
だが誤差範囲内だ。
「主様……」
春蕾が不安そうに見上げる。
コヨミはしばらく黙っていた。
やがて静かに口を開く。
「名前は」
「……え?」
難民の男が目を瞬かせた。
「あなたの名前を聞いている」
「お、俺はロイドです……」
「家族は」
「妻と娘が……」
コヨミは帳簿へ視線を落とした。
「労働経験は」
「農民です」
「なら受け入れる」
ざわり、と空気が揺れる。
「た、助けてくれるんですか……?」
「条件がある」
コヨミは顔を上げた。
その瞳は冷静だった。
「我が領の暦に従うこと」
難民たちが顔を見合わせる。
「暦……?」
「日の出前に起きる。種まきの時期を守る。収穫周期を乱さない。自然を舐めない」
静かな声だった。
「それが守れるなら、食糧を与える」
難民の女が泣き崩れた。
「あ、ありがとうございます……!」
「助かった……!」
子供たちが温かい湯気の立つ鍋へ群がる。
啓蟄が大鍋を運びながら笑った。
「ほらよー!」
「熱っ!?」
「ははは!」
夏至は毛布を配り、春蕾は凍えた子供の手を温めていた。
暖かい。
信じられないほど暖かい。
難民たちは涙を流しながらスープを飲んだ。
一方、帝国兵たちは呆然としていた。
飢えた帝国。
豊かな枯れ谷。
まるで世界が反転している。
その時。
山道の向こうから、新たな馬車列が現れた。
紋章付き。
地方貴族だ。
先頭の男が馬を降りる。
「……コヨミ卿」
疲れ切った顔だった。
「我が領も限界です」
男は頭を下げた。
「どうか……我々にも食糧を分けていただきたい」
かつてなら考えられない光景だった。
貴族が、追放された男へ頭を下げている。
コヨミは静かに帳簿を閉じた。
「契約条件は同じです」
「暦に従え、と?」
「はい」
男は苦く笑った。
「……今なら分かります」
遠く、帝国領では黒い吹雪が荒れている。
なのに枯れ谷だけは暖かい。
風が違う。
空気が違う。
季節そのものが違う。
「我々は、季節を舐めていた」
男は呟く。
コヨミは何も答えない。
ただ空を見上げた。
夏至の太陽が、眩しく輝いていた。
その光の下で、黄金の稲穂が静かに波打っている。
まるで世界そのものが、彼の側についたかのように。




