【第3話 『啓蟄』の進軍と、過保護すぎる生産性】
【第3話 『啓蟄』の進軍と、過保護すぎる生産性】
雪解け水の音が、谷に満ちていた。
つい数日前まで死の土地だった枯れ谷は、今や柔らかな春の匂いに包まれている。湿った土。若葉。流れる水の冷たさ。その全てが、生命の気配を帯びていた。
コヨミ・スメラギは木簡を片手に、畑の前へしゃがみ込む。
黒々とした土を指先ですくい、静かに目を細めた。
「……地温、適正範囲内。魔力循環率も安定」
信じられない数値だった。
本来、この土地は数百年単位で死んでいたはずだ。だが今、土壌は帝国中央の穀倉地帯すら上回る活性を示している。
その原因は明白だった。
「主様ーっ!」
背後から勢いよく抱きつかれる。
「春蕾、危ない」
「えへへー」
立春の神、春蕾は頬を緩めながらコヨミの背中へ頬擦りした。
ぽかぽか暖かい。
彼女が近くにいるだけで、周囲の気温が自然に上がるのだ。
「土、ふかふかになったよ! いっぱい芽吹けるよ!」
「君が地熱を調整したのか」
「うん! だって主様が寒いの嫌だもん!」
満面の笑みだった。
コヨミは軽く息を吐く。
神という存在は、もっと厳粛なものだと思っていた。
だが現実は違う。
やたら距離が近い。
そして過保護だ。
「……作業を始める」
「だめ!」
即答だった。
「主様は座ってて!」
「いや、田を耕さなければ」
「やるもん!」
春蕾が地面へ向かって両手を広げる。
瞬間、土が震えた。
もこ、と地面から淡い光の塊が現れる。
小人のような形をした精霊たちだった。
「は?」
「土耕し隊です!」
精霊たちは一斉に畑へ飛び込み、猛烈な速度で土を耕し始めた。
ザクザクザクザク!!
信じられない速さだった。
土が掘り返され、空気が入り、水路が整えられていく。
コヨミはしばらく無言でそれを見つめた。
「……労働効率、通常比二十四倍」
「えへん!」
春蕾が得意げに胸を張る。
「主様の手は帳簿をめくるためにあるんだから!」
その時だった。
ズズン、と地面が揺れる。
畑の奥。
黒土が盛り上がった。
「……っ!?」
次の瞬間、地面を突き破るように少年が飛び出した。
泥まみれの黒髪。
金色の瞳。
獣みたいな笑み。
「主ーっ!!」
少年は勢いよくコヨミへ飛びついた。
「うおっ」
「起きた! オレ起きた!!」
少年は目を輝かせながらコヨミの肩へぶら下がる。
春蕾がむっと頬を膨らませた。
「ちょっと啓蟄! ずるい!」
「だって主じゃん!」
コヨミは眉を寄せる。
「……君は」
「啓蟄!」
少年は牙を見せて笑った。
「眠ってた虫とか獣とか地脈とか、全部起こすやつ!」
その瞬間だった。
地面の下で、何かが一斉に動き始める。
ざわざわざわざわ。
土が鳴る。
無数の小さな生命反応。
コヨミは目を見開いた。
「土壌バクテリア……活性率が急上昇している」
「へへっ!」
啓蟄が楽しそうに笑う。
「全部起こした!」
空気が変わった。
土が息を吹き返していく。
虫が動く。
根が伸びる。
水が巡る。
生命そのものが加速していた。
「主、種ある?」
「……ある」
コヨミは袋を取り出した。
帝都を出る時、わずかに持ち出した稲種。
本来なら、この寒冷地で育つはずのない作物。
だが。
「植える!」
啓蟄が叫ぶ。
瞬間。
無数の精霊が現れた。
わらわらと畑へ飛び込み、猛スピードで田植えを始める。
泥が跳ねる。
水音が鳴る。
春風が吹く。
あまりにも異様な光景だった。
「……」
コヨミは帳簿を開く。
羽根ペンを走らせた。
『労働力、完全自動化』
『生産効率、一一〇%超過』
『過剰生産傾向あり』
さらさらと数字を書き込んでいく。
春蕾が覗き込んだ。
「主様、なに書いてるの?」
「余剰計算だ」
「よじょー?」
「収穫量が消費量を上回る」
コヨミは畑を見た。
もう芽が出ていた。
早すぎる。
本来ありえない速度。
啓蟄が得意げに胸を張る。
「すごいだろ!」
「……想定以上だ」
コヨミは静かに目を細めた。
これほどの生産量なら、帝国規模の飢饉すら制御できる。
ならば先に物流を押さえるべきだ。
「春蕾」
「なぁに!」
「商業ギルドへ使いは出せるか」
「できるよ!」
「極秘契約を結ぶ」
春蕾と啓蟄が同時に首を傾げた。
「けいやく?」
「食糧供給の独占だ」
コヨミは淡々と言う。
「帝国は間もなく崩れる。食糧価格は暴騰する。その前に流通を掌握する」
啓蟄が目を丸くした。
「うわぁ……主、怖」
「合理的と言え」
「おおー!」
だがその時だった。
ふわり、と風が止まる。
コヨミは空を見上げた。
鳥がいない。
静かすぎる。
「……来るな」
「なにが?」
「冷害だ」
春蕾が不安そうに袖を掴む。
「主様?」
「帝都の土壌疲弊率は限界を超えている。次の寒波で作物は死ぬ」
彼の脳裏に、あの日の宮廷が浮かぶ。
笑っていた貴族たち。
魔法を信じ切った皇太子。
そしてエレナ。
「私の魔法でいつでも夏にできるわ!」
コヨミは静かに目を閉じた。
暖かさだけでは作物は育たない。
季節には順番がある。
周期がある。
世界には、守らなければならない法則がある。
それを帝国は忘れた。
「……あと百四十三日」
コヨミは呟く。
「帝国崩壊までの残存日数だ」
その声を聞き、春蕾はぎゅっと彼の腕を抱きしめた。
「大丈夫だよ」
柔らかな声だった。
「主様のいる場所は、絶対に春だから」
啓蟄も笑う。
「もし敵来たら、地面ごと食うし!」
コヨミは小さく息を吐いた。
暖かい風が吹く。
その足元では、青々とした稲苗が、ありえない速度で芽吹いていた。




