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アシュクロフト家のユリウス

 薄い革の靴が敷石を擦る音も、銀匙が磁器の縁を撫でる音も、その一瞬だけ途絶えた。投げつけられた手袋の縁に縫い込まれた小さな真珠が午後の光を弾いていた。


 柔らかな絹のあまりに乾いた音。


 ユリウスは最初、何が頬へ触れたのか理解できず、膝の上へ落ちてきた白いものを見た。甘い葡萄の味が舌に残っていて、さっき噛んだ皮が奥歯に挟まっている。その些細な感触まで、急に不快に感じられた。


 レオノーラは、卓の向こうに立ち、片方だけ手袋を残した手を腰へ当て、婚約者がようやくこちらを見るのを待っていた。


 十九歳の公爵令嬢は、茶席に集まった娘たちより頭一つ近く背が高かった。白に近い金髪を後ろへまとめ、耳の前に残した一房だけが、風に触れて細く揺れている。首筋から肩へ続く線はしっかりしていて、それを華奢に見せようと縮めることも一切しなかった。


 背を丸めるな。相手の目を見ろ。


 子供の頃から聞かされた言葉は、今では意識せずとも身体が守っている。レオノーラは灰青色の瞳をまっすぐに向け、顎をわずかに上げる。手袋を投げた指先には、まだ振り抜いた時の熱があった。


「迎えに来ない礼儀知らずと、男爵令嬢の身分で公然と王子に侍るそこの女とは、お似合いだがな。せめて柱の陰でやってくれ。みっともなくて見てられんぞ」


 茶会の卓を囲んでいた若者たちが、口を閉じた。

 焼いた薄菓子の皿を挟んで、誰かと誰かの視線が静かにぶつかる。笑ってもよいのか、聞かなかったことにすべきか。さっきまで弾んでいた会話は、細い糸を一度に切られたように落ちた。


 晩秋の庭では、刈りそろえた垣根の足元に、湿った落ち葉が吹き寄せられていた。垣根の間を吹き抜ける風は頬に冷たかったが、足元からは穏やかな温もりが上がっていた。床下へ通した魔導具が、磨き上げた敷石を暖めている。卓上の湯沸かしも火を使わず、銀の台に収めた魔石が、茶を淹れるのによい熱を保っていた。


 ユリウスはようやく自分の頬へ手をやった。


 アルヴェイン王国の王子ユリウスは、二十二歳だった。艶のある栗色の髪を後ろへ撫でつけ、額をすっきりと見せていた。青い瞳は明るく、鼻筋も唇の線も、肖像画を描く者には扱いやすい形をしている。

 葡萄酒色の上衣には金糸が走り、袖口には幅広いレースが覗く。そこから頬へ伸びる手には王家の印である雉をかたどった純金の指輪が、この静寂の中に場違いなほどキラキラと陽光を反射していた。

 レオノーラもユリウスの外見は人目を引く男なのだろうとは思っている。実際、彼が笑いかければ嬉しそうにする娘はいくらでもいる。ただユリウスが誰を好こうと、レオノーラには関心がない。まかり間違って自分の抗議を、婚約者を独占したい女の嫉妬と受け取られるのは心外だった。


「僕の顔へ、物を投げたのか」

「手袋だ。ご存じないか?」


 言い終えた時、レオノーラの口元にごく薄い笑みが浮かんだ。相手を愛嬌でなだめるためのものではなかった。答えの明らかな問いを重ねる者へ、これ以上説明が要るのかと尋ねる時の顔だった。


 ユリウスは、その顔を知っていた。

 会議の卓で、書類を一枚先へめくられる。彼が言葉を探している間に、正しい数字を指で示される。側近が話題を変えようとすれば、まだ答えを聞いていない、と戻される。声は高くもならず、怒鳴りもしない。それなのに、自分の下へ置くべき女に、首根っこをつままれているような気分になる。


 今日も、同じ顔をする。


 ユリウスは頬よりも、そのことが腹立たしく思えた。

 ユリウスは膝の上の手袋をつかみ、卓へ叩きつけた。

 男爵令嬢の肩から王子の腕が離れた瞬間、娘はすばやく椅子を離れ、ユリウスの背後へ退いた。

 先ほども言ったように、レオノーラが腹を立てているのは、王子が別の女へ笑いかけたことではない。好いた相手を奪われたというほど、ユリウスに心を預けたことはなかった。困るのは、自分の機嫌ひとつで婚約者を侮辱し、王家が招いた相手への礼まで放り出すことだった。


 くだらない


 男爵令嬢についても、貴族に生まれた以上は、どういう形であれ出世のために体を張る。それは当然のことだ。だから彼女が王子に近づくことそのものに興味はない。


 普段なら、頭に血が上ったユリウスがここから何か言い返してくる。それを黙らせれば、あとは形だけの茶会が続く。はずだった。


 「その女を捕らえろ」

 庭の植え込みの陰で、鎧が鳴った。

 現れた衛士たちは、花の飾られた卓の間を一斉に進んできた。招待客の何人もが慌てて椅子を引き、茶器や銀の匙が石畳へ落ちる音に、悲鳴が重なった。


 衛士たちは庭に控えていたのだ。レオノーラが来る前から。 この場限りの脅しではないと、レオノーラは悟った。茶会で兵を待たせていた以上、そのまま家へ帰してやるつもりなど、初めからなかったのだ。

 近づいて来た衛士がレオノーラの腕へ手を伸ばした。レオノーラは半歩引き、その手を払った。

「触れるな。誰が許した」

「僕が命じた。聞こえなかったのか」


 左右から、別の衛士が手を伸ばしてきた。レオノーラは一人の手首をつかみ、捻り返した。だが、その隙に背後へ回ったもう一人に、腕を取られた。肘を背中へ引き上げられ、肩を強く押された。


 レオノーラの膝が石畳を打った。


 レオノーラが体勢を立て直すより先に、もう片方の腕も後ろへ回され、背中を押され、胸と頬が地面についた。息が詰まった。顔を上げようとすると、肩の関節に痛みが走る。


 床が暖かかった。


 レオノーラはそれが、ひどく腹立たしかった。客の足元を冷やさぬよう磨き、暖めてある石に、頬を押しつけられている。視野の端では、卓布の房がゆっくり揺れている。


 手を離せ。

 レオノーラはそう言おうとするが、肺へ入る空気が足りなかった。人の重さというものを、初めて知った気がする。稽古なら、動きを止めれば相手は力を緩めてくれた。床を片手で叩けば、すぐに手を離してくれた。


 息を吐け。肩を無理に戻すな。

 レオノーラは、自分へ短く命じた。痛みのない向きを探し、首だけをわずかに動かした。


 視界から消えていた男爵令嬢の息を呑む声が聞こえてきた。

「殿下、それは……」

「黙っていろ」

 娘はすぐさま唇を閉じた。


 レオノーラは顎を持ち上げた。白に近い金髪が頬へ落ちたが、払う手は使えなかった。椅子から立ち上がったユリウスが、ゆっくりと彼女の前へ歩き、靴先をそろえた。


 レオノーラは灰青色の目で、地べたからその顔を見上げた。

 普段のレオノーラは、ほかの娘のように、相手を見上げるため顎を上げる必要はなかった。ユリウスはそれも気に入らなかった。背の高い女が嫌いなのではない。自分と同じ高さから、同じだけの場所を占めるつもりで話す女が嫌いだった。


 今は、ユリウスの靴先のすぐそばにあるのだ。あのヴァルクレスト公爵家の華烈姫と呼ばれた、レオノーラの頭が。


「ぷっ、くはっ」

 ユリウスの口から、こらえ損ねた笑いが漏れた。一度漏れると、もう止まらなかった。


「あっはははは、あは、あは、ひひひ」

 口を大きく開け、ユリウスは声を上げて笑った。息を吸い直そうとしても、次の笑いがこみ上げてくる。片手で腹を押さえ、もう片方の手を卓の縁につき、とうとう体を二つに折るほど腰を曲げた。 床に押さえつけられたレオノーラが目に入った。その灰青色の目が、まだ自分を睨んでいる。それさえ可笑しかった。どれほど睨もうと、今は自分の靴のそばから動くこともできないのだ。 ユリウスは目尻に滲んだ涙を指で拭った。何か言おうと口を開いたが、出てきたのは言葉にならない笑い声だけだった。


 レオノーラは、笑い転げるユリウスを黙って見上げていた。目尻の涙を拭い、腹を抱えて息を継ぐユリウスの顔を、灰青色の目が冷ややかに追った。肩を押さえつけられた痛みで眉が動いても、彼女は視線を逸らさなかった。


 笑い声が途切れるのを待ち、レオノーラはゆっくりと息を吸った。

「おれを捕らえてどうする。父上がお戻りになって、お前は何と説明するつもりだ」

「また父親か」

 ユリウスは笑いに顔を歪めながら言い放った。

「お前の家は、いっつもそうだ。馬鹿の一つ覚えみたいに、口を開けば公爵、公爵」


 ユリウスは、彼女の肩へ目を落とした。衛士がほんの少し力を掛けるだけで、あの口元が歪む。本人の理解も同意も、そこには要らなかった。会議での討論より、はるかに簡単だった。

 女は黙っていろ。そう言うたび、レオノーラは理由を聞いてきた。王子である自分がそう望んでいる。それだけで十分ではないか。その単純なことが、この女には分からないらしい。


 相手の痛みが自分の力を確かめる手応えになる。その心地よさに、ユリウスは酔っていた。

「やっと、そのうるさい口を塞げる」

 彼は茶席を見回した。


 今日の茶会は、次代を担う者同士の親交を深めるために催された。出席者は王子と年の近い貴族の子弟ばかりで、その親たちは招かれていない。国王とヴァルクレスト公爵は、そろって国外の視察に出ていた。

 いつも父の隣にいる老臣も、王を諫める者も、この席にはいなかった。


 ユリウスには、宮殿が急に広くなったように感じられていた。廊下の先から父の声が聞こえてくることも、今日の自分の振る舞いを老臣が報告することもない。注意されずに済むだけでなく、注意する者がいないこと自体が、自分の判断の正しさを裏づけているように思えた。


「この女は不敬だ。反省させろ」

「どちらへお連れしますか」

 王子の後ろに控えていた側近のマティアスが尋ねた。よく通る、落ち着いた声だった。


 ここまでは、すべてユリウスの手筈どおりだった。レオノーラを閉じ込める場所も、すでに決めてある。

「そうだな。ダンジョンにでも放り込んでおけ」


 温められた柱廊へ、庭から一筋だけ冷たい風が入った。花の香りが遠のき、濡れた土の匂いがした。


 ダンジョン。


 その言葉だけが、茶器の並ぶ卓の上でひどく異質だった。王都の子供でも、中に魔物がいることぐらいは知っている。

 レオノーラは一度、王子の顔を確かめた。言い直す気配はなかった。彼は、怖がる者を見つけて遊びを思いついた子供のように、こちらを見ていた。だが、その遊びを止める大人はこの席におらず、動かせるのは兵だった。


「殿下」

 若い招待客が一人、立ちかけた。

「何だ。お前も一緒に行きたいのか」


 椅子の脚が、静かに元の位置へ戻った。

 若者はレオノーラと目を合わせなかった。卓の下へ置いた両手を、膝の上で組んでいた。

 レオノーラは唇を結んだ。助けを求める言葉を、彼へ投げるつもりにはなれなかった。


「連れていけ」

 王子は自分の椅子に腰を下ろした。

 衛士たちは、レオノーラの腕を取ったまま身体を引き起こした。靴が石を擦り、膝に力が戻る前に歩かされた。

 レオノーラの膝は、体重を掛けるたび鈍く痛んだ。靴の中で足の指を広げ、引かれる速さに歩調を合わせた。せめて、自分の足で出ていく。腕をつかむ指の一本一本を、後で必ず思い出してやろうと考えた。


 レオノーラは歩かされながらも首を捻り、ユリウスを振り返った。

「アシュクロフト家のユリウス! おれがお前を泣くほど後悔させてやる。せいぜい最後の茶会を楽しむのだな。覚えていろよ!」

 王子が何か言った。衛士に肩を押され、その言葉は聞こえなかった。


 柱が順に視界を横切った。眩しい庭、白い石、卓を囲む人の顔。また柱。笑った者がいたかどうかも分からなかった。耳の奥で脈が鳴り、引かれた肩から指先へ、痺れが広がっていた。

 廊下へ入ると、肌に当たる空気が変わった。庭の光を背にして、壁に掛けられた絵画は薄暗く沈み、金の額縁に刻まれた王冠だけが光っていた。幾度も通った廊下だった。入口にいた侍従がこちらを見たが、声を掛けてくるような状況ではなかった。

 柱廊から廊下へ引き込まれたところで、家の衛士を呼んだ。

「誰か、ヴァルクレスト家の者!」

 返事はあった。遠い玄関広間の方から、確かにあった。

「お嬢さま!」

 玄関広間から駆けてきた、家の紋章をつけた衛士が、王宮の兵に行く手を遮られた。

 家から付き添ってきた男だった。玄関で待てと、彼女自身が命じていた。王宮の茶席にまで自家の衛士を引き連れる必要はないと思っていたし、そうすることは招いた側への不信を示すとも教えられていた。

 彼は前へ出ようとしていた。王宮の兵が横へ突き出した槍の柄に、胸を押しつけるほど近づいていた。柄をつかむ手に力が入り、その後ろから別の兵が回り込んでくる。


「家へ知らせろ!」

 レオノーラが叫び、玄関広間とは違う方向へ肩を押され、歩かされていった。

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