ダンジョン(国営採取場)
馬車の板張りの座席は固く、背を預けると、板の継ぎ目が肩へ当たる。車輪が拾う石の段差が、そのまま腰へ伝わってきた。扉には内側から開けるための取っ手がなく、蹴り破ろうとしてもびくともしなかった。後ろ手に縛られた手首は、縄に擦れて痛んだ。
「おい御者殿、このままヴァルクレスト家へ向かえば、お前の一族全員面倒を見てやるぞ。どうだ、むせび泣いて進路を変える気にならないか?」
レオノーラが御者台へ呼びかけても、返事はなかった。
この程度の勧誘で進路を変える者を、御者につけるわけがない。それはレオノーラにもわかっている。単純に暇を持て余しての余興だった。まぁ、万が一を期待しなかった訳ではない。ちょっと期待していたかもしれない。やっぱり甘い考えだったかもしれない。
レオノーラは御者への勧誘を諦め、馬車の側面に設けられた小窓に顔を向けた。
小窓は硝子も覆いもなく、錆びた格子の間を冷たい風が抜けてくる。
――やはり、婚約が決まってすぐに殺しておけばよかった。
鉄格子の小窓からは、粉屋の荷車や、羽根飾りの帽子をかぶった人々、店先に積まれた燃料用の魔石を詰めた箱が見えた。昼の往来はいつもどおり賑わっているようだ。
王宮前の幅広い道を外れると、蹄の音が両側の壁へ跳ね返るようになった。古い石造りの家が肩を寄せ、上の階ほど道へ張り出している。レオノーラはもう黙ってそれを眺めていた。
屋敷へ知らせが届けば、留守役が動く。必要な書状を出し、王宮へ身柄の引き渡しを求めるだろう。
――あの家は野心のある、貴族らしい貴族でもない。身の安全は半々といったところか。
アシュクロフト家が王家になったのは、わずか十五年前のことだった。先王と有力な王位継承者が、相次いで命を落とした。
次の王を選ぶ諸侯会議では、ヴァルクレスト公爵が最有力だった。公爵家は、王家の本流から嫁いだ王女の血を受け継ぎ、その後も幾度か王家と婚姻を結んできた。領土の広さ、軍隊の規模、財力も、他の候補を圧倒していた。それは、ヴァルクレスト公爵家が200年にわたり、多くの血を流して築き上げてきた力だった。
旧王家との血縁は、ヴァルクレスト家の方がアシュクロフト家より近かった。だが、力を持ちすぎる公爵の即位を嫌った者たちは、王女を通じた血筋であることを理由に、継承順位を低く扱った。
そして、男子を通じて王家につながるアシュクロフト家を推したのだ。小さな領地を治める当主なら、自分たちの意見を聞くだろう。諸侯の票が集まり、ユリウスの父は王位を得た。
即位してから、小麦の収穫量を数えて年を越すのが精一杯だった田舎領主は、決められた手順で政務をこなすだけでも、一瞬で禿げ上がるほどの心労を見せている。
――この上で公爵家の娘を殺す気概など、あるものか。
馬車が角を曲がると、ダンジョンと呼ばれる国営採取場の灰色の外壁が見えてきた。
魔石は魔力を蓄えた石で、魔物の体内から採ることができる。ダンジョンに生まれる魔物も、野山に棲む魔物も持っている。
この国営採取場は、国が魔石の採取のために管理するダンジョンだった。特殊な技術で魔物の発生を調整し、ボーンと呼ばれる弱い骸骨兵だけが生まれるようにしてある。
普通のダンジョンでは、階層や場所によって現れる魔物の強さが違い、採取する剣士は強い魔物と戦う危険も負う。ここでは倒しやすい魔物に絞ることで、その危険を抑え、効率よく魔石を集められるようにしていた。
王都の炉も、街灯も、工房の揚水機も、こうした採取場から出る魔石で動いている。だが去年の報告書には、この施設の採取量が年々減っているとあった。ここはそろそろ潮時ということなのだろう。
――魔石の採取量が落ちているということは、出現するボーンの数が少なくなっているということだ。これで生存率が少し上がるか。
馬車は門をくぐり、構内で止まった。扉が開くと、衛士がレオノーラの腕をつかんで外へ降ろした。建物の間を吹き抜ける風が、汗で湿った背中を冷やした。
構内では、革前掛けの男が長い卓に向かい、籠の魔石を大きさや色ごとに選り分けていた。水桶のそばには、剣の汚れを布で拭う者もいる。荷車の下には、砕けた骨が白く散っていた。
籠を提げた二人の剣士が、今日はボーンの数が少ないとぼやいていた。国に雇われ、ここで魔物を狩る者たちだ。周囲で働いていた者の何人かが、衛士に腕をつかまれたレオノーラを見て手を止めた。
衛士たちは彼女を帳場へ連れていった。一人が役人へ書面を差し出す。役人は封印を確かめ、記された家名を読むと、レオノーラへ目を向けた。顔から血の気が引いていた。
「ヴァルクレスト家の……」
「殿下の御命令だ」
衛士に遮られ、役人は口を閉じた。書面の同じ行をもう一度読み、ためらいながら腰の鍵束へゆっくりと手を伸ばした。
役人は鍵束を外し、建物の中へ案内した。レオノーラは衛士に腕を取られたまま、奥の石段を下りていった。壁に埋め込まれた魔石の灯りは薄暗く、足元には水がにじんでいた。下へ進むほど空気が冷え、濡れた土の匂いが強くなる。
石段の下には、重い鉄の扉があった。役人が扉の鍵を開ける間に、衛士がレオノーラの手首の縄を解いた。縄の赤い跡が残り、指先はまだ痺れている。
役人が扉を開けた。その向こうは暗く、何があるのかは見えなかった。
「一晩だ」
衛士の一人が言った。
「大人しくしていれば、朝には出していただける」
「ここでおれに何かあれば、お前の首だけでは済まんぞ」
レオノーラは自分の手首をさすりながら衛士へ告げたが、男は返事もせず目も合わせなかった。そのまま、レオノーラは背を押され、扉の向こうの暗がりへ入っていった。背後で扉が閉まり、鍵を掛ける音がした。
その晩、ヴァルクレスト家の留守役は三度、王宮へ使者を送った。
王都の公爵邸では、玄関広間の灯りが落とされずにいた。馬車を迎えるために掃かれた前庭へ、風がまた枯葉を運び込んでいた。扉が開くたび、待っている者たちが顔を上げたが、戻るのは使いに出した者ばかりだった。
留守役の机には、昼のうちに届いた領地からの書類が積まれていた。いつもなら、帰宅したレオノーラが目を通すものだった。「急ぐ報告を先に出せ。数字を読み上げるだけなら自分で読む」と命じられるのに慣れた書記が、選り分けた束を抱えたまま、壁際に控えていた。
誰も、明日に回してよいとは言い出せなかった。帰った時に仕事が止まっていれば、お嬢さまは不機嫌になる。その普段どおりの心配に、皆がしがみついていた。
最初の返答は「殿下は御面会にならない」だった。
二度目は「身柄は王家が預かっている」。
三度目になってようやく、「朝には引き渡す」という書面が来た。
留守役は読み終えてからも紙を置けず、紙の端をつまむ指の位置を何度も変えた。
王宮で行く手を遮られた衛士は、留守役の机の前を動かなかった。
「採取場へ踏み込ませてください」
「王都で私兵と王兵を戦わせることになる」
「では、お嬢さまは」
留守役は返事をせず、机に置いた紙を押さえた。
王都にいる家の兵を集めれば、門へ押し寄せることはできる。採取場を預かる者も、ヴァルクレストの紋章を相手に気安く刃を向けるまい。そう思う自分がいた。一方で、最初の一人が剣を抜けば、以後の話は公爵令嬢の身柄だけでは済まなくなる。
主人から預かっているのは、屋敷の鍵だけではなかった。娘を守る務めと、主人の兵を勝手に戦わせてはならないという務め。どちらも疎かにはできなかった。
朝には出すと、王家は書面で約束している。今は、その約束を守らせるほかない。採取場へ迎えの者を置き、王家とのやり取りを記録に残す。こちらが引き渡しを待っていることを、繰り返し知らせるのだ。留守役はようやく紙から指を離し、書記へ新しい紙を出すよう言った。
夜明けの開門と同時に引き取る。その立会いを求める文を、王宮と採取場へそれぞれ出す。国外の公爵へは早馬を送る。衛士には採取場の外で待機するよう命じた。
衛士は返事をすると、今度は机の前を離れた。玄関で、侍女が厚い外套を差し出した。「お嬢さまに」とだけ言った。男はその青い布を腕へ掛け、汚れた指が襟へ触れぬよう抱え直した。
外では、夜の冷気が石畳へ降りていた。翌朝に使う馬車へ灯りが吊られ、馬丁が留め金を確かめていた。
その頃、王子の側近も、採取場へ別の命令を届けていた。
翌朝、通常の開門より先に、王子殿下御一行をお通しすること。




