レオノーラ・ヴァルクレスト
踵の硬い音が、王宮の長い廊下に響いていく。
レオノーラ・ヴァルクレストは、裾を片手で持ち上げ、磨かれた石の床を早足に進んでいた。
濃紺のドレスは、背の高いレオノーラの体に沿って、細身に仕立てられ、早足に進むたび、絹の生地はしなやかに揺れ、室内の光を受けて控えめな艶を帯びさせていた。
袖口や裾には、ヴァルクレスト公爵家の家紋である百合をかたどった刺繍が施され、細い絹糸を重ねて描かれた花弁の繊細な濃淡は、わずかな光を受けるだけで、その優美な輪郭を浮かび上がらせていた。
その歩調に合わせて裾から真珠色の靴先が覗くたび、壁際に控えた使用人たちが道を空けた。背後では案内の侍従が、彼女の早足についていこうと、必死に歩幅を広げている。
王宮の廊下は、六頭立ての馬車がすれ違っても余裕がありそうなほどの広さで、乳白色の柱は左右に並び高い天井を支え、葉と蔓を彫り出した天井の縁には金が渡され、午後の光を受けた部分だけが、淡く浮き上がって見えた。
片側の壁を占める窓の上部には、色硝子が嵌め込まれており、王冠を囲む花の模様を透かした色とりどりの光が床へ落ち、レオノーラの靴の下で、次々と形を変えていっていた。
向かいの壁には、枝を広げた銀の壁掛け灯が並び、花形の受け皿には蝋燭の代わりに魔石が収まっていた。その魔石は周囲の明るさに応じて光を変え、陽の届かない柱の陰まで白く照らしている。
晩秋の冷気は厚い窓の向こうへ留められ、首元へ触れる風は穏やかだった。花台を通り過ぎる時だけ、白い花の甘さが重なった。
これほどの廊下が、王宮には幾つもある。夜になれば、その全てに灯りがともる。外から来た使節は、まず玄関広間で足を止め、次に天井を見上げ、それから窓と燭台を見比べるのだという。侍従が道を示しても、しばらくは進むのを忘れるらしい。
このアルヴェイン王国は魔法大国と呼ばれている。その理由は、戦場へ送り出す魔法使いの数だけにあるのではなかった。魔石を切り、磨き、その力を暮らしに合わせて働かせる職人がいる。ひとつの灯りを何年も安定して輝かせ、炉の熱を望む強さに保つ技術がある。隣国の商人が欲しがる品が、王都の工房から毎日送り出されていた。
その代金から収められた税が、新しい色硝子になり、銀の燭台になり、何代もの王が継ぎ足してきた宮殿を飾っている。石を運ぶ者、彫る者、磨く者。ここを初めて訪れる者が見上げる美しさには、それだけの手と、年月と、金が掛かっていた。
レオノーラは、足早に歩きながらも壁の灯りを一つ見た。以前、灯りが弱くなって気になっていた壁掛け灯が、今日は明るく灯っていたことに気づいた。魔石を新しいものに交換したらしい。
見事なものだとは思う。これを作れる者が自国にいることも誇らしい。だが、これだけの灯りを保つ費用を、茶会へ向かうたび忘れてよいとは思わなかった。冬になれば、王都の工房でも燃料を多く使う。宮殿の奥にある、誰も通らない廊下まで同じように照らす必要があるのか。その話も我が婚約者のユリウス王子に聞かねばならない。
そう、ユリウスは、迎えの馬車すら寄越さなかった。
王子が婚約者を茶会へ招くなら、公爵家まで迎えに来る。都合がつかなければ、王家の馬車を遣わす。それが貴族のしきたりで、知らぬ者は国の貴族には存在しない。
レオノーラも、当然迎えが来るものとして待っていた。だが、招待状に記された時刻が迫っても、屋敷の門をくぐる馬車はなかった。やむなく自家の馬車を出させたものの、待っていたぶんだけ王宮への到着は遅れてしまった。
自分から招いておきながら、迎えも寄越さず、こちらに足を急がせるとは。 レオノーラはドレスの裾を握り直し、廊下を進む足を速めた。
「こちらでございます」
追いついた侍従が、廊下の先を示した。
両開きの扉の前には、別の係が立っていた。レオノーラを見ると、招待客の名を書いた紙へ目を落とし、慌てて背を正した。
「ヴァルクレスト公爵令嬢――」
名を告げ終える前に、レオノーラはその脇を通り過ぎた。開かれていた片方の扉からは、庭の明るさと人の声が流れ込んでいた。レオノーラは入口で立ち止まり、もう一度案内されるのを待つつもりはなかった。
会場は庭園へ張り出した柱廊だった。花を飾った卓が並び、白い卓布の上で茶器と銀皿が光っていた。入口から上座まで、中央に人が通れる道が空けてある。その先に、ユリウスがいた。
王子の隣には、日中にもかかわらず胸元の大きく開いたドレスの男爵令嬢が座っていた。彼の腕は娘の肩に回り、顔は耳元へ寄せられている。娘が笑うたび、肩の上の手が小さく動いた。ユリウスも笑った。入口の声など、聞く気もないらしかった。
レオノーラは歩みを緩め、脇の卓で茶器を整えていた係の男へ顔を向けた。
「おれの席はどこだ」
低めの、落ち着いた声だった。語尾を上げず、短く言い切った。呼びかければ相手が手を止め、すぐに答える。それを当然とする口調だった。
男の手が止まった。慌てて受け皿を卓へ置こうとしたが、皿が卓に当たって小さく鳴ってしまった。
顔を上げた男は、ようやく誰に尋ねられたのか分かった。が、男はレオノーラの顔から上座へ目を移し、すぐに戻した。口は開いたが、何かを言いあぐねているようで、声が出てこないようだった。
声をかけられた係の男は、レオノーラの席がどこにあるかなどは、もちろん知っていた。朝、自分の手で名札を置いたのだから余計に覚えている。そしてその後王子から移動するよう言われた時にも、家名を読み違えてはいないかと二度も確かめた。そして今、運悪くその名札の主が目の前にいるのだ。
自分の口から申し上げるのか。あのヴァルクレスト家のご令嬢に。
考えただけで、舌が上顎へ貼りついた。係の男は、小刻みに震える指で席を示そうとしたが、途中でためらい、手を下ろした。
席を尋ねただけで、なぜこれほど返事に手間取るのか。
「何を怯えている。かまわんから言え」
レオノーラは苛立ちを滲ませた声で、係の男にそう言い放った。
「あちらに……なって……しまいました」
ようやく出た声は細かった。差し出された手の先は、上座から真逆の卓の端だった。
レオノーラは示された椅子を見た。自分の名が書かれた札がある。椅子のすぐ後ろを給仕の者が行き来していた。
父親譲りの白くなめらかな額は、レオノーラの端正な顔立ちに理知的な美しさを添えている。その下にある淡い金色の眉は緩やかな弧を描き、眉尻へ向かってすっと細く伸びていた。
その形よく整った眉の間に、今日初めて、細い皺が寄った。
係の手は、まだ椅子を示していたが、レオノーラは無言でその横を離れ、中央の道へ出た。右の指先を左の手袋の縁へ掛け、歩きながらゆっくりと引き抜いた。口元は柔和に笑みを浮かべながらも、目は当然、笑っていなかった。
踵の音が、卓と卓の間をまっすぐに進んでゆく。近くの若者が顔を上げ、隣の者も振り向いた。レオノーラは誰にも会釈をしなかった。する必要がないのだ。自分よりも家格の高い者はこの会場におらず、それどころか、この国でレオノーラの歩みを止められるのは、自分の父である公爵家当主しかいなかったからだ。
レオノーラは上座の手前で立ち止まり、肩を寄せていた二人を見た。 ユリウスは、まだこちらを向かなかった。
右手に握った手袋の指先が、歩みを止めた反動で揺れた。レオノーラはそれを一度握り直した。
握り直された白いシルクの手袋は、ユリウス王子の頬をめがけ投げられ、午後の茶席に乾いた音が響き渡った。




