猫の取り扱いについて
昨日、訓練を終えた僕は、家で一人、河川エリアで釣りをしていた。
最近はイノシシだの鹿だの、昨日は熊まで相手にした。さすがに少し疲れている。
今日は川でのんびりと、鯉やフナを釣っていた。
「たまにでっかいナマズが釣れそうになるんだよな……引くタイミングが難しすぎるよ」
不満は漏らすが、意外と楽しい。
魚が食いつくと振り子のゲージが現れ、ランダムに表示される青い範囲で止めなければならない。
魚の大きさや種類によって、範囲の広さと成功させる回数が変わる。
大物になるほど青い範囲は狭くなり、何度も成功させなければならない。
「あ~……今のは絶対に大きかった……」
がっくりと肩を落とすと、近くの木陰に猫が座っていた。
「可愛いな。猫もペットで連れて回れればいいのに……」
そんなことを考えていると――
『荒御魂を鎮めよ。再度告ぐ、荒御魂を鎮めよ』
壱与からのアナウンスだ。降臨した時に聞いたあの声は、未だに耳に残っている。
前回とは違い、御姿は見えない。ただ、透明な声だけが世界の隅々まで広がっていく。
そう言われましても……ムリなものはムリ!
熊に遭遇すれば瞬殺される僕に、戦う意思は全くない。
そう思いつつ、癒やしを求めて木陰の猫に近寄った。
「おー、よしよし……」
猫の前まで移動し、決定ボタンを押した。
次の瞬間、画面が真っ暗になった。
気づくと、僕のキャラクターは地面に倒れている。
猫は何もなかったかのように毛繕いをしていた。
負傷状態になると、救護NPCが来るまで待つか、邑のプレイヤーに助け起こしてもらえば復帰できる。
僕はスマホを手に取り、助けを呼ぶことにした。
(すみません。負傷しました。河川エリアの中央付近に倒れています。誰か起こしてくれませんか?)
早速、邑のグルチャに書き込んだ。
すぐに笑っている顔文字が返ってきた。……モブさんだ。
(西野君、今行くから待っていてください)
丁寧な言葉は榊さんだ。
(河童でも出ましたか? 何に倒されたのでしょうか?)
僕も分からないんだよ……それが。
(分かりません。猫がいたので、前に立って決定ボタンを押したら、何かにやられたようで……)
(後ろから? カメラを回してみて……)
東野さんからだ。
カメラを回してみるが、映るのは猫と大きな木と、さっきまで釣りをしていた川だけだ。
(何も見えません。敵らしいものは……猫しかいません)
(その猫には、誰も触れないように。皆、部隊を連れてくるように!)
榊さんからの号令だった。
その頃、『倭国争乱』の公式掲示板では――
【荒御魂どこよ?】というスレッドが荒れていた。
これまでのレイドでは、天狗や巨大な火車など、見るからに強そうな個体が現れるのが通例だった。
しかし今回は、フィールドのどこにもそれらしい個体が見当たらない。
『川の近くにいた猫を調べたら死んだ』
『俺も猫にやられた』
『川に潜ったら河童が出た』
『それはいつものことじゃねぇか!』
『崖から落ちろ。下にレイドボスがいる』
『ただ死んだだけなんだが?』
『騙されるほうが悪い』
《猫》という言葉だけは、何度も現れていた。
だが、それが荒御魂なのか、何かの罠なのか。その先の答えにたどり着いた書き込みは見当たらない。
制限時間は二時間。掲示板は、ますます混沌としていった。
ほどなくして、榊さん、東野さん、モブさんが到着し、僕を助け起こしてくれた。
僕は最近覚えたお辞儀のジェスチャーで、皆に感謝を表現した。
(猫は?)
東野さんが聞いてきた。
(あそこの木の陰)
僕はキャラクターの身体を、猫のいる木陰へ向けた。
(僕が行きましょう)
榊さんはNPC部隊を率いて、猫へ近づいた。
猫をNPCたちの攻撃範囲に入れると、自分のキャラクターだけを後方へ下げる。
先頭のNPCが武器を構えた。
数秒後――部隊は全滅していた。
猫は顔を上げることすらなく、相変わらず毛繕いをしている。
何が起きたのかは見えなかった。ただ、結果だけがそこにあった。
(今回のレイドボスは、この猫で間違いなさそうです)
榊さんがそう断言した。
(でも、どうやって倒すの? 攻撃モーションも見えなかったわ)
東野さんは攻略の糸口を探している。
触ってもダメ。攻撃してもダメ。
脳裏に浮かんだのは、あの声だった。
『荒御魂を鎮めよ』
(神様を鎮めるって、何をするの?)
思ったままに書き込んだ。
(鎮めるって言ったら……人柱?)
たまきさんが怖いことを言ってくる……誰を捧げるんですか? 僕はもう、捧げちゃってるんですが……。
頭の中でツッコミながら、猫をじっと見つめる。
猫の足元に、一枚だけ大きな葉が置かれていた。
落ち葉というより、皿のように見える。
(あの葉っぱ、皿みたいに置かれていませんか?)
(もしかして……魚を供えるんじゃないですか?)
(……その可能性はあります。西野君、魚は持っていますか?)
魚なら、さっき釣ったものがある。
持ち物からフナを一匹選び、大きな葉の上へ落とした。
猫は嬉しそうに魚を食べるモーションを見せ、食べ終えると再び毛繕いを始めた。
(足りないようですね……)
残っていた四匹も、すべて葉の上へ落とす。
猫は一匹ずつ平らげたが、食べ終えるとまた毛繕いに戻った。
(同じ反応です。量が足りないのか、大きさが足りないのか……)
榊さんが書き込んだ直後、店長からメッセージが入った。
(倉庫から釣り竿と骨の釣り針を持っていく。みんな、そこで待っとけ!)
数分後、店長が到着した。
(お前たち、時間がない! 今回、攻略できる邑は少ないはずだ。チャンスだから気合い入れて釣れ!)
こうして、AZITOメンバーによる釣り大会が始まった。
小さなアタリには目もくれず、大きなアタリだけに集中する。
竿を投げ込み、弱いアタリならすぐに戻して、また投げ入れる。
モブさんが八十センチの鯉を釣り上げ、スキップで献上に向かう。……帰り道の足取りは重い。
一メートルを超えたナマズを釣り上げ、榊さんが悠々と歩いていったが、トボトボと帰ってきた。
二十分もすると、皆、無言で釣るようになっていた。
その時、東野さんの竿が大きくしなった。
(パパ、これ無理! 代わって!)
何度も続く狭い青の範囲を、止めきれないらしい。
店内にいる東野さんが、店長に操作を頼んだようだ。
数秒後、金色のエフェクトをまとった小魚が釣り上げられた。
東野さんが金色の小魚を持っていく。
大きな葉の上へ落とした途端、目の前の猫は二本の尻尾をピンと立て、勢いよく食べ始めた。
(猫又……だったようですね)
榊さんの感想など聞くはずもなく、猫又は空へ駆け上がるようにして消えていった。
その頃、公式掲示板では、正解に近い書き込みも流れ始めていた。
『猫の前にある葉っぱへ魚を置け』
『五匹食わせても終わらなかったぞ』
『金色の魚らしい』
『今度は釣りかよ。もう騙されんぞ』
『攻略した邑が増えてる。成功した奴、答えを出せ』
『次の合戦で敵になる相手に、誰が教えるんだよ』
本物も偽物も、同じ速さで流れていく。
正しい情報は確かに書かれていたが、それを信じられる者は少なかった。
やがて、二時間の制限時間が終了した。
壱与の透き通った声が、再び世界に響く。
『荒御魂は鎮まった。二十三の邑には褒美を取らす』
イベントに参加した邑のうち、攻略できたのは一割ほどだった。
食料充足率を十パーセント上昇させるアイテム《猫に小判》が、AZITOの倉庫に入った。
運営には抗議のメールが殺到したようだが、一切の回答はなかったそうだ。
こうして、僕らの釣り大会は終わった。
ほっと一息ついた時、店長からメールが届いた。
「明日、店のレイアウトを変える。男手が欲しいんだ。時給は出すから、手伝わないか?」
AZITOで遊ぶためのお金を稼げるなら、断る理由はない。
僕は即答で「OK」と返した。




