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お手


 結局、眠ったのか眠らなかったのかわからないまま、朝が来た。


 住処の前には、柔らかな光が落ちていた。カラスたちは相変わらず枝の上にいて、千春をじっと見下ろしていた。

 八咫烏の姿はまだ見えない。

  

 しばらく外を見ていた千春は、住処の中へ戻り、送り犬の隣に座った。


 何か話したかった。

 でも、山の神のことも、帰ることも、口にすると胸が詰まりそうだった。


 だから、ぜんぜん違うことを言った。


「ねえ、ミカヅキ」


 耳がぴくりと動く。送り犬が顔を上げた。


「お手、してみて」


 千春は送り犬の前に手を差し出す。


「おて」


「うん。手をここに乗せるの」


 千春は上向きにした手を軽く振って見せた。送り犬は自分の前脚を見ながら言った。


「足だ」


「あ、まあ、そうなんやけど。お手って言って、手に足を乗せてもらうの」


「なぜ」


「なぜ……そう言われると、なんでだろう。芸、みたいなものかな。コミュニケーション? なんか、仲良くなるためにするんだよ」


 説明しながら、自分でも曖昧だなと思った。

 送り犬は千春の手を見ながら、伏せていた身体を起こして座り直す。

 片方の前脚を持ち上げた。


 大きな黒い前脚が、千春の手のひらに置かれる。

 ずしり、と重い。


「わ、本当にしてくれた」


 千春は思わず笑った。


「いい子だね」


「いい子?」


「うん。ちゃんとできたから。褒め言葉」


 送り犬は千春の手の上に前脚を置いたまま、じっとしていた。千春はその足をそっと支え、黒い毛の間から覗く肉球に、もう一方の手でそっと触れる。


「あれ。思ってたより硬い」


「硬い」


「うん。おばあちゃんの家にいた犬は、もうちょっとぷにぷにしてた気がする。室内犬だったからかな」


 送り犬の肉球は、やわらかいというより弾力があった。山道を歩くからかもしれない。湿った土も、木の根も、白い砂礫も踏み越えていく足。

 指の腹で押すと、送り犬の身体がわずかに身じろぐ。


「くすぐったい?」


「爪が危ない」


「え?」


「千春の手に当たる」


 送り犬は前脚を引こうとした。

 千春は慌てて、その足を両手で引き止めた。


「大丈夫。ちゃんと気をつけるから、もうちょっとだけ」


 送り犬は動きを止めた。


「わかった」


「うん。ありがとう」


「礼を言うな」


「はいはい」


 千春は笑いながら、もう一度肉球に触れた。


 四年前は、送り犬に触れることなんて考えもしなかった。背中に返ってくる低い声と、半歩後ろの足音だけが頼りだった。

 それなのに今は、お手を教えているなんて。


「なんか、変な感じ」


「変」


「嬉しい、のほうが正解かも」

 

「これは、人間が犬に教えることなのか」


「うん。一緒に暮らしてる犬に教えたりするんだよ」


 送り犬は不思議そうに首を傾げた。


「あとはなんだろう。おすわりとか、伏せとか。待てとかかな」


「待て」


「そう。待てって言われたら、動かずに待つの」


「待つだけか」


「うん。よしって言われるまで」


 送り犬の金色の目が、千春を見る。


「よし」


「よしは、動いていいよってこと」


「待ったら、よしがあるのか」


 妙に真剣な声だった。


「え? まあ、そうかな、そうかも。それで、ちゃんと指示を聞けたら、ご褒美をもらったり、褒めてもらったりする」


「ほうび」


「おやつとか。あとは──」


 言いながら、千春は送り犬の前脚を手から降ろした。今度は頭を撫でる。


「こんなふうに、撫でたりもする」


 眉間のあたりから後ろに毛を撫でつけるように手を動かすと、金色の目が、少しだけ細くなった。


「覚えた」


 ぽつりと、送り犬が言った。

 千春は手を止める。


「うん?」


「覚えた」


「送り犬はよく覚えるね。この前もそれ言ってたよ」


「千春が言ったことは、覚える」


 その返事に、千春は少しだけ笑った。

 嬉しいような、くすぐったいような気持ちだった。


 もう一度、黒い頭を撫でる。


 板戸の向こうから、羽音がした。


 千春が顔を上げるより先に、送り犬が立ちあがる。扉へ向かい、口で金具を引く。


 三本足のカラスだった。


「お犬様」


 朝の光の中で、八咫烏は丁寧に頭を下げる。


「御山の神がお待ちにございます」


「会う必要はない。道を開けと伝えろ」


「御目通りの後に」


「断る」


「それをお決めになるのは、御山の神にございます」


 送り犬の喉が低く鳴る。 千春は、思わず口を開いた。


「わかりました。私、行きます」


「千春」


「でも会わないと、帰れないんでしょ」


 千春がそう言うと、送り犬は不満そうに尾を揺らした。けれど、それ以上は言わなかった。


 八咫烏は羽を一度震わせると、飛び立った。黒い影が空を横切る。


「こちらへ」


 その声に導かれ、千春と送り犬は歩き出した。 


 


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