その決まり
「その決まりは、重いのか」
さっきまで外から聞こえていたナンジの声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。板戸の隙間から漏れていた黄色い明かりも、もうない。
住処の中には、夜の静けさが戻っていた。
送り犬の硬い毛並みに手を置いたまま、千春は考えた。
「うーん。たぶん、重いんじゃないかな」
答えると、送り犬の金色の目が瞬いた。
「婚姻届とかも出すし。約束、決まり事っていうより、契り? みたいな感じなんじゃない? 人生でそう何回もするもんじゃないだろうし……人生単位の、人の一生分を委ねるような約束っていうのかな」
千春は少し困った。説明しながら、あまりうまく言えている気がしなかった。
結婚なんて、千春にとってはまだ遠いものだし、きっと人の数だけ形があるのだろうとも思えた。
「でも、別れちゃうこともあるけどね」
「契りなのにか」
「うん。珍しいものでもないのかも。うちの親もそうだし。よくわからないけど、夫婦になってみたらうまくいかなかったとか、そういうこともあるんじゃないかな」
送り犬は黙った。
納得していなさそうにも見えた。
重い決まり。約束。契り。それなのに、ほどけることもある。人間の決まりごとは、送り犬の知っている決まりごととは違うのだろうなと思った。
「まあ、私も結婚したことないから、ちゃんとはわからないんだけどね」
千春は苦笑する。
「お姉ちゃんは、旦那さんと仲いいよ。赤ちゃんも生まれて、大変そうだけど、幸せそう。見てると、すごいなって思う」
送り犬がすこし首を傾げる。
「誰かと一緒に暮らして、家族になって、子どもを育てて。そういうの、すごいなって」
千春は息を吐いた。
「でも、私は向いてないかも」
「向いてない」
「うん。誰かと一緒にいるのって、簡単じゃないっていうか」
静かになった外の森で、かさりと何かが鳴った。カラスの羽音かもしれない。
「人といるのが嫌なわけじゃないよ。友達と遊ぶのも楽しいし、バイトも、接客わりと向いてるのかもって思うときあるし」
送り犬があまりに真面目に聞いているので、千春は少し笑った。
「でも、恋愛ってなると、なんか難しくて。相手が悪いわけじゃないんやけど」
言ってから、千春は送り犬の背にまた手を置いた。
黒い毛並み。最初の夜も、今も、この体温がそばにあると肩の力が抜ける気がした。
「……名前かな。名前を呼ばれても、なんか違うなって思うことがあったの」
「名前」
「うん。もちろん、普通に返事はするよ。友達に呼ばれたりするのも別に違和感はないんやけど……ふたりでいるときに男の人に名前を呼ばれると、なんか違うなって」
相手が悪いわけではない、と思う。
千春は言葉を探した。
「……夢で、聞く声とは違うなって」
「夢」
「送り犬が、私の名前を呼ぶ夢。四年間で何度も見た。目が覚めても、あの声がずっと耳に残ってるみたいで……」
千春は少し照れくさくなって、床板に視線を逸らした。
「だから、送り犬が私の名前を覚えてくれてて、すごく嬉しかった」
言ってから、変なことを言っているかもしれないと思った。送り犬だから言える。そういう気軽さがあった。
照れくささのまま少し笑って、千春はずっと考えていたことを口にする。
「送り犬みたいな人がいたらいいのにね」
言いながら視線を戻す。送り犬の耳がぴくりと立った。
「送り犬みたいに、声を聞くと落ち着いて、一緒にいてもあんまり疲れなくて。名前を呼ばれると、なんか安心するような人」
送り犬はただ、じっとこちらを見ていた。暗がりの中で、金色の目だけが静かに光っている。
「もちろん、送り犬は送り犬なんやけど」
千春は付け足す。
「でも、そういう人がいたらいいのに、って。ちょっと思っただけ」
深い意味はなかった。本当に、ただ考えついたことを口にしただけだった。
言っても困らせないような気がした。人間の男の人に言うには少し重いことでも、送り犬になら。
送り犬は黙っていた。
尾が、床板を一度だけゆっくり払う。
「……送り犬?」
千春が呼ぶと、送り犬は低く息を吐いた。
「覚えた」
「え?」
「覚えた」
「今の、どこを?」
問い返しても、送り犬は答えなかった。
「え、変なところ覚えた?」
送り犬は、やはり答えない。
結婚に向いてないことを覚えられたのかも、と思うと少し可笑しかった。
外で、また羽音がした。今度は近かった。
かさり、と板戸の向こうで何かが動く。千春が顔を上げるより先に、送り犬が立ち上がった。
「なに?」
「八咫烏だ」
送り犬が睨んだ板戸の向こうから、丁寧すぎる声がした。
「夜分に恐れ入ります」
千春は思わず背筋を伸ばした。よく通る声。三本足のカラスだ。送り犬は戸を開けることもせず、返事もしない。
「御山の神がお戻りにございます」
「神さまが……?」
「はい。されど、御山の神はお疲れのご様子。御目通りは、どうぞ明日に」
「戻ったのなら今すぐ道を開けさせろ」
送り犬が低く言う。
「お犬様」
八咫烏の声が、わずかに笑みを含んだように聞こえた。
「御山の古き者が、そのように獣然と急かされますな。作法というものがございましょう。道を開けるかどうかをお決めになるのは、御山の神にございますゆえ」
羽を開くような音がした。
「明朝、お迎えにあがります」
それだけ言うと、板戸の隙間を黒い影が横切った。その気配はすぐに遠ざかっていく。
住処の中には、また静けさが戻る。
山の神が戻った。
なら、帰れるのかもしれない。
そう思うのに、胸の奥はどこか沈んだままだ。
隣を見ると、送り犬はまだ入口のほうを睨んでいる。
「神さまも疲れたりするんやね」
冗談めかして言ってみるが、送り犬は答えなかった。
「……明日、神さまに会ったら帰れるんかな」
「今すぐに道を開けさせる」
送り犬が建物から出ようと一歩踏み出すので、千春は立ちあがり、送り犬の背に手を置いた。毛並みの下の身体が、いつもより硬かった。
「でも、会わないと帰れないんでしょ?」
「……」
「大丈夫だよ。会うぐらい」
「千春はすぐに帰るべきだ」
そうしたいはずなのに、送り犬に言われると胸の奥が小さく痛む気がした。
「わかってる……」
そう答えた自分の声は、思ったよりも小さく聞こえた。
「そろそろ寝ようか」
千春は笑い、いつもの場所に横になった。
送り犬も、いつものように隣に伏せる。
千春は目を閉じた。
眠れる気はしなかった。
それが場所のせいではないことをわかっていた。
すぐそばで、送り犬の呼吸が聞こえる。
低く、ゆっくりした呼吸。
金色の目がこちらを見ている気配もある。
お互い、起きているのだと思った。
けれど、どちらも何も言わなかった。
明日の朝、三本脚のカラスが迎えに来たら山の神のところへ行く。
そうしたら、帰る道が開くのかもしれない。
千春は目を閉じたまま、いつもより少しだけ送り犬に近寄った。触れあうところがあたたかかった。送り犬は動かない。
そのまま、ただ静かに、夜を過ごした。




