隣りにいてくれたら大丈夫
夜だった。
眠りについてどれほど経った頃か、隣に伏せていた送り犬が顔を上げた気配で、千春は目を覚ました。
背中に触れていたはずの毛並みが離れる。立ちあがった送り犬は警戒するように尻尾をピンと伸ばして、入口のほうをじっと見ていた。
「……送り犬?」
横になったまま声をかけた、そのときだった。
「千春ちゃん」
外から、声がした。
千春は息を止める。
亡くなった祖母の声だった。
「千春ちゃん、こっちやよ」
慌てて上体を起こし、声の方を見れば、板戸の隙間から黄色くてあたたかそうな光が漏れていた。
──おばあちゃんの家だ。
そう思ってしまった直後、胸の奥が冷えた。
違う。
あれは、四年前と同じ──
「ナンジだ、惑わされるな」
送り犬が板戸を睨んだまま言った。
難事。人を惑わし、連れて行ってしまう山の怪。
四年前も、千春はあの光を祖母の家だと思った。そしてその声に呼ばれるままナンジのほうへと足を踏み出したとき、送り犬がそれを引き戻してくれた。
はじめて、千春の名前を呼んで。
「千春」
あのときと同じ、送り犬の低い声がすぐそばから落ちた。顔を上げるとこちらを覗き込んでいる金色の目がすぐ目の前にあった。
「わかってる。大丈夫だよ」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
「千春ぅ」
今度は、後ろの壁越しに聞こえた。母の声だった。
「千春、バス停、こっちやよ」
続いて、姉の声。その後ろで、赤ん坊がぐずるような声も聞こえてくる。
胸の奥がきゅっと狭くなって、思わず目を閉じる。
送り犬は千春と入口のあいだに立ち、頭を低くした。唸り声が床板の上を這う。板戸の向こうで、黄色い明かりが震えるように揺れ始めた。
「千春ちゃあん」
千春を呼ぶ祖母の声が、いやに長く伸びたとき、送り犬が入口へ一歩踏み出した。
外へ出るつもりだ。
「ミカヅキ」
名前を呼ぶと、送り犬はピタリ止まった。
「こっちきて」
千春は、自分の隣を指先で示した。
「隣にいてくれたら、たぶん大丈夫」
送り犬はしばらく入口を睨んでいたが、千春がもう一度「ミカヅキ」と呼ぶと、ゆっくりとそばへ戻ってきた。
すぐ隣に伏せる。
硬い毛並みが、千春の腕に触れた。
千春は、その背に手を置く。
あたたかかった。
次第に呼吸が落ち着いていくのがわかった。
外の明かりを見たいとは思わなかった。声のほうへ行きたい気持ちもない。前は、あんなに心を惹かれたのに。
「……大人になったからかな」
ぽつりと呟くと、送り犬が首を傾げ、「おとな」と言葉をなぞった。
「うん。前にここへ来たとき、私、高校生だったから。今は大学生。だからもう、惑わされないのかも」
言ってから、自分でもちょっと違う気がした。
千春は、かすかに上下する送り犬の毛並みに指先を沈めながら、その背を撫でた。
外ではまだ、誰かに似た声が千春を呼んでいたが、その声は住処の中にいる送り犬の呼吸よりも、ずっと遠くに聞こえる。
「送り犬、話してていい?」
「話せば、気が紛れるんだったな」
「うん。……えっと、そう。今は大学生」
「だいがく」
「大学っていうのは、勉強したり、友達と会ったりするところ、かな。それで、一人暮らしも始めた。自分でご飯作ったり洗濯したりしてる。まあ、ちゃんとしてるかって言われたら、微妙やけど」
送り犬は何も言わない。
それでも、聞いてくれている気配はあった。
千春は、送り犬の背をゆっくり撫でながら言葉を継いだ。
「バイトもしてる。ファミレスの接客。覚えること多いし、人間関係も、慣れるまでけっこう時間かかったかも」
言いながら、千春は少し笑った。
山の中で、何を話しているのだろうと思う。
外ではナンジが、まだ母や姉や祖母の声で千春を呼んでいる。なのに自分は、送り犬に大学やバイトの話をしている。
でも、そうしているほうが外の声が少し遠のくような気がして、落ち着いた。
送り犬が理解しているとは思わない。
たぶん、大学も、一人暮らしも、バイトも、送り犬には意味のわからない言葉だろうから。
「でも、この四年で一番大きく変わったのは、お姉ちゃんかな」
千春は、法事の日に見た姉の姿を思い出した。
その腕のなかにいた小さな甥のことも。
「お姉ちゃん、結婚したの。赤ちゃんも生まれた」
「けっこん」
「そう、結婚」
「それはなんだ」
「えっと……」
千春は少し考える。
「結婚は、日本だと男女の大人が夫婦になること、かな」
「番みたいなものか」
「つがい……うーん。家族になるというか。これから一緒に生きていきます、っていう約束みたいなものかな」
「約束」
送り犬の耳がぴくりと動いた。
そこ? と思った。
「約束は、決まりごとだな」
確認するように送り犬が言った。
送り犬らしいなと思って、千春はちょっと苦笑してしまう。
この山の帰り道には決まりごとがある。
はじめは、転んではいけない。
つぎは、立ち止まってはいけない。
最後には、振り向いてはいけないが足された。
送り犬は、その決まりごとを守れば、迷い込んだ人を人里まで送るという犬だった。
もし、守らなかったときは──。
「千春」
話を促すように、送り犬が名前を呼んだ。
「そう、相手とする約束。それを、法的に──はわかんないよね。人の世の決まりごとにするというか」
送り犬は黙って聞いていた。
外の声はいつの間にか止んでいたが、千春はそれを口にしなかった。
「その決まりは」
送り犬は、千春から目を逸らさずに続けた。
「重いのか」
低い声が住処の静けさに沈む。千春は、返事をしようとして少しだけ言葉に詰まった。




