かわいい
翌日も同じような過ごし方をした。
朝になると、湧水で顔を洗い、茱萸の木のある場所まで歩く。赤い実をいくつか摘んで食べ、季節のばらばらな花の咲く場所を少し歩いて、それから住処へ戻る。
することは多くないのに、一日はあっという間に終わっていく。
スマホは繋がらず、ホーム画面の時計も迷い込んだ時のまま動かない。山の神が戻った知らせもなく、カラスたちは数を増やしたり減らしたりしながら、変わらず千春を見下ろしていた。
千春は住処の中、一段高くなった床に腰かけた。
すぐそばで伏せている送り犬の背にそっと手を伸ばす。高窓から差し込む日の光を受けた黒い毛並みは、撫で下ろす手を追うように青い光沢が走った。
毛は少し硬いが、その下にふわりとした熱を帯びている。──生きている。それを確かに感じるのに、送り犬は普通の犬ではない。山のものなのだと思うと、なんだか不思議だった。
「送り犬は、山の神さまに会ったことあるの?」
「ある」
「どんな人? ……あ、人じゃないよね。どんな神様?」
送り犬は少しだけ頭を上げた。
「どんな」
「えっと……怖いとか、優しいとか」
送り犬はしばらく黙っていた。
「考えたことがない」
「そっかぁ」
千春は膝に肘をついて、頬杖をついた。なにかを期待して聞いたわけでもなかったが、あまり参考にはならなかった。
「いつ帰ってくるんだろうね、神さま」
ため息を漏らすと、送り犬がこちらを見た。
「不安か」
「……うーん」
不安ではある。
不安ではあるけれど、一種類のそれではなかった。
帰れなかったらどうしよう、という気持ちはもちろんある。もし帰れたとしても、行方不明みたいに大ごとになってても困る。
千春は視線を落とした。
けれど、不安は、それだけではない。
帰る道が開くとしたら、四年前と同じなのだろうか。
あのとき、千春は二本の木杭に渡された綱の下をくぐった。綱に結ばれた紙片が頬を掠めた次の瞬間には、祖母の畑のそばに立っていた。
そうして振り返ったときにはもう、送り犬も、三つの月も、不思議な山道も消えていた。見知った景色の中に帰れたことに、本当にほっとしたのを覚えている。
それなのに。
それからの四年間は心の中に小さな穴が開いたままみたいだった。
ふとした拍子にそこへ風が通るようで、その足りなさだけは、どうしても埋まらなかった。
送り犬とは、こうしてまた会えたのに。
でも、また、別れなきゃいけないのかな。
そう思ったときだった。千春の身体が少しだけ傾いた。
「わっ」
驚いて顔を上げると、いつの間に起き上がっていたのか、送り犬が隣に腰を下ろしていた。もう一度、鼻先で肩を押される。金色の目がまっすぐこちらを見ていた。
励ましてくれてるのかな、と思った。
「大丈夫」
千春は笑った。
「そこまで不安なわけじゃないよ、送り犬もいてくれるし」
送り犬は何も言わず、鼻先を千春の肩に寄せたまま動かなかった。千春はその黒い頭を数度撫でる。
「ミカヅキ」
名前を呼ぶと、送り犬の耳がぴくりと立った。
その反応が素直で、千春は思わず笑ってしまった。
「千春はよく笑う」
「ふふ、そうかも」
「今はなぜ笑った」
「耳が動くのが、可愛いなって」
送り犬の金色の目が瞬いた。
「かわいい」
おうむ返しではなく、問いかけるような声だった。
「うん。可愛い」
「それはなんだ」
「え」
千春は、言葉に詰まった。
可愛い。
送り犬にとって、その形容詞は未知の概念だったらしい。
でも、可愛いは、可愛いだ。
説明するとなると難しい。千春は少し考え込んだ。
「なんだろうな……見てると、好きだなって思うこと、かな」
「すき」
「うん。あとは……心があったかくなる感じ」
「こころ」
「そう。心。気持ち、って言ったほうがわかりやすいかも」
送り犬は小さく首を傾げた。
それもまた可愛い、と思う。
こんなに大きい犬なのに、言葉を繰り返したり、不思議そうに首を傾げたりするところが、あどけなくて可愛かった。
雑貨や服を見て言う可愛いとも、甥を見たときの可愛さとも、少し違う気がした。
「うーん。送り犬の可愛さは……たぶん、なんか、こう……触りたくなる感じ」
「触りたくなる」
「うん。そう。撫でたくなるの。あと、抱きしめたくなるって言ったらわかる?」
「わからない」
「えっとね」
千春は言いながら、送り犬の首のあたりに両手を回しかけた。犬の身体が明らかに強張った。
千春は手を止めた。
送り犬は黙っている。
「あ、嫌だった?」
「嫌ではない」
「びっくりしたの?」
「……嫌ではない」
同じ言葉を繰り返すその声は、いつもよりほんの少し低かった。千春は少し迷ってから、そっと送り犬の首元に腕を回す。
「抱きしめる、は、こう」
頬を寄せると、毛並みが鼻先に触れた。ふわふわとは違う、少し硬い毛並み。腕の中にある大きな身体はあたたかく、呼吸のたびにゆっくり動いている。
「可愛いっていうのは、褒めてる。でも嬉しくなかったらごめんね」
言ってから、また「謝るな」と言われるかなと思ったのに、予想に反して送り犬は黙ったままだった。
千春は少しだけ腕をゆるめた。
「ミカヅキ?」
腕の中で、送り犬の耳が小さく動く。
「覚えた」
ぽつりと、そう返ってきた。
送り犬の尾が、床の上を払うようにゆっくりと揺れていた。




