ミカヅキ
目を開けると、明るかった。
千春はしばらく、自分がどこにいるのかわからなかった。見慣れた一人暮らしの部屋ではない。実家とも、祖母の家とも違う匂いがした。土と、木の匂いだった。
「……あ」
そうだ。山だ。
身体を起こす。硬い床の上で眠ったわりには、身体に違和感は覚えなかった。空気は冷えているのに、不思議と胸の奥まで楽に入ってくる。
首を巡らせる。送り犬がいない。伏していた場所の床板に触れると、ひんやりとしていた。
途端に心細くなった。
「送り犬?」
呼びかけながら立ちあがり、揃えていた靴を履いた。床板がぎし、と小さく軋む。
入口へ向かい、低い位置についた扉の取っ手を押すと、隙間から差し込んでいた柔らかい光が目の前に溢れた。千春は眩さに目を細める。
「わぁ」
青く高い空を縁取るような木々の緑。
そのあいだから落ちる木漏れ日に、朝露をまとって瑞々しく立ち上がる苔と下草。
薄暗い山しか知らなかった千春は、しばらく動けなかった。
こんなに綺麗なところだったんだ。
けれどやっぱり、人の世とは違うのだとすぐに思い知らされた。空には、白くて細い月が三つ。当たり前のように並んでいたからだ。
そして、枝の上にいるカラスと目が合った。
一羽ではない。二羽、三羽。もっと奥にもいる。黒い目をくりくりとさせながら、どのカラスもじっと千春を見下ろしている。
「……おはよう、ございます」
なんとなく、挨拶してみる。けれどカラスたちは何も答えない。ただ小首を傾げて千春を見ていた。
た、たん。た、たん。
その足音に、弾けるように振り返った。
「送り犬」
呼ぶと、木々の間から黒い毛並みが姿を現した。
薄い月明かりではなく、明るいなかで見る姿は初めてだった。
目の位置が千春の腰より高いなとは思っていたけれど、想像していたより大きかった。
暗がりでは黒い影にしか見えなかった毛並みが、朝の光の中ではちゃんと獣の形を取っていた。
立った耳。濡れた鼻先。背中から尾にかけての、黒くて艶のある毛の流れ。
朝の光を取り込んだ金色の瞳が、千春を見据えて近づく。
「起きたか」
「おはよう、送り犬。ここ、朝が来るんだね」
「来る」
「そっか。なんか、ずっと夜なのかと思ってた。送り犬は、どこに行っていたの?」
「道がないか見てきた」
「あった?」
「ない」
「そっかぁ……」
千春は肩をすくめた。
でも、考え込んだところで、山の道が見つかるわけでもない。せめて気分だけでも切り替えたいと思った。
「あ、顔。洗いたいんやけど。水ってあるかな?」
送り犬は「水」と言葉をなぞると、踵を返し、歩き始めた。カラスたちの視線を背中に感じながら、後を追う。
少し歩いたところに、湧き水があった。
岩の割れ目から細い流れが苔の上を伝っている。透き通ったまま流れているそこに、千春はしゃがみ込んで両手を浸した。冷たくて、気持ちがよかった。
両手で何度か水をすくい、顔を洗う。首筋にも少し水をつけると、寝起きのぼんやりした感じが薄れていった。
そうしていて、ふと思った。
お風呂に入っていないのに、身体の不快感みたいなものがない。
昨日、湿った落ち葉の上を歩いたはずの靴にも、泥の跡や汚れはついていなかった。洗っていないはずの髪も妙にさらさらとしている。
送り犬の住処を思い出す。床にはほこり一つ落ちていなかった。山は、そういう場所なのかもしれない。
便利だな、で済ませていいのかはわからないけど。
「そういえば……お腹も空いてないかも」
ぼそりと呟く。送り犬が首を傾げた。
お腹はすいていない。けれど、何かを口にしたい気持ちはある。
「この水、飲める?」
「害はない」
「害、って」
千春は笑い、少しだけ水を口に含んだ。冷たさが喉を通り過ぎる。
「おいしい」
そう言うと、送り犬は水ではなく、千春を見ていた。
「なに?」
「水を飲んでいるのを見ている」
「え。なんで」
千春はまた笑った。送り犬はじっと視線をそらさなかった。
「満足か」
「うん。とりあえず。でも、口が寂しいかも」
朝起きて、顔を洗って、何かを飲んだら、今度は何かを食べたくなった。空腹だからではなく、習慣に近いかもしれない。
「くちがさみしい」
「そう。食べなくてもいいんだけど、何か食べたいなって」
やや考えるような間を挟み、送り犬が答えた。
「木の実ならある」
「食べられる?」
「害はない」
「またそれ」
歩き始めた送り犬の後について、細い獣道を進む。
足元の草の間に、小さな白い花が咲いていた。ぽつぽつと散るように続いているそれを目で追っていると、少し先で、満開の桜が枝を広げていることに気づいた。
桜の向こうには、夏のような濃い緑がある。さらに奥には、紅く色づいた葉が揺れていた。
おかしい、と思うより先に、きれいだと思った。
開けた場所に出ると、季節のばらばらな花が咲いていた。春に咲くはずの花の隣で、夏の花が揺れている。その奥には秋の色があり、冬の花まで、何食わぬ顔で並んでいた。
思わず「すごい」とこぼすと、先を歩いていた送り犬が立ち止まり、こちらを振り返った。
千春はその脇をすり抜けて、花の咲くほうへ駆け寄った。藤の下で足を止め、笹百合を見つけて身をかがめ、紫陽花の前でまた顔を上げる。あちこちへ移る視線に合わせて、表情まで少しずつほどけていった。
こんな場所があるなんて。
「きれいだね」
送り犬は同意もせず、ただ千春を見ていた。
ややあってから、「千春」と呼びかけられる。
送り犬が鼻先で示した木には、葉に紛れるようにしていくつも実がついていた。楕円形で、小さくつやつやした赤い実。祖母の家の近くで見たことがあった。子どもの頃に食べたこともある。
「これ、茱萸の実だっけ」
千春は手を伸ばし、一粒摘んで口に入れた。皮は薄くて、柔らかい。味は、甘いと言うより──
「酸っぱい」
目をぎゅっとしたまま、送り犬のほうを向いて笑いかけた。送り犬の金色の目が、ほんの少しだけ細まった気がした。
その目が綺麗だと思った。細まると特に、月みたいで。
しばらくあたりを歩く。初めて見る花もいくつもあった。
「送り犬、あれは何?」
「花だ」
「何ていう花?」
「名はわからない」
「あれは?」
「わからない。花は花だ」
「名前がわかるものはないの」
犬の足が止まる。こちらを見上げ、口を開いた。
「千春」
「うん?」
「千春の名はわかる」
一拍おいて、ふっと噴き出してしまった。真面目な声でそう言う送り犬が、なんだか可笑しくて可愛かった。
千春の笑い声にあわせて、犬の耳が小さく動く。
「ねえ、送り犬」
「なんだ」
「名前、つけてもいい?」
「なまえ」
「送り犬の名前」
「必要ない」
返事は早かった。
「でも、名前で呼びたいな」
千春は、送り犬に目線を合わせるように屈んだ。
「送り犬って呼ぶのも好きなんやけど、なんか呼び名みたいなのがあったらいいなって」
「呼び名」
「うん。送り犬が私の名前を呼んでくれるみたいに、私も送り犬を名前で呼びたいの」
送り犬は黙っていた。千春は続ける。
「もちろん、送り犬が嫌じゃなかったら、やけど」
やや考えるような間を置いて、小さな声が返る。
「……任せる」
「いいの? じゃあ、どうしようかな」
――犬の名前。犬の名前かぁ。
祖母の家で昔飼っていた犬は、ラッキーだった。近所に住んでいる犬はマロンちゃん。
目の前にいる送り犬をじっと見る。
……全然合わない。
夜みたいに暗い色の毛、大きな身体。金色の瞳。
「うーん」
唸りながら、じっとその瞳を見つめる。
間近で見ると、やっぱり綺麗だと思った。
あ。
「……三日月」
千春は呟いた。
「三日月はどう?」
「月の名か」
「うん。目が金色で、暗いところに浮かぶ三日月みたいで綺麗だから」
ふと風が吹いて、黒い毛並みがふわりと揺れた。
送り犬は目線を空へ向ける。
「月は白い」
「うん。まあ、厳密には、そうかも。でもなんかそういうイメージがあって……絵文字とかイラストだとよく黄色で描かれてるし……」
送り犬はしばらく黙っていた。理解しているのか、いないのか、よくわからない顔をしている。
「三日月」
送り犬の低い声が、ゆっくりその音をなぞった。千春は少し嬉しくなった。
「うん。ミカヅキ」
呼びかけるように言うと、送り犬の耳がぴくりと立った。
「呼びたいときに、そう呼ぶからね」
「呼びたいときに呼ぶ」
「うん」
「そうか。覚えた」
送り犬はそれだけ言った。その目がまた、細まっているように見えた。
千春はそっと手を伸ばし、黒い頭に手を乗せた。送り犬は動かない。硬い毛並みが、指の下でゆっくり沈む。
「ミカヅキ」
すぐにまた名前を呼ぶ。
金色の目が、千春をじっと見ている。
それがやっぱり月みたいで、綺麗だと思った。




