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覚えていた


 迷いなく進む送り犬の後を追う。


 頭上には、まだカラスの気配があった。枝から枝へ渡る羽音が、ときおり小さく木を揺らしながら鳴った。


 ずいぶん歩いたように思えたが、景色はどこまで行っても変わらない。


「送り犬、まだ遠い?」


「もうすぐだ」


「ほんま?」


「ほんまだ」


 千春は思わず笑った。


「今の、私の真似?」


 送り犬は答えない。


 やがて、やや開けた場所に出ると、大きな一本の杉の木が目に入った。

 そのすぐ脇に、黒い影がある。近付いてみれば、低く積まれた石垣の上に、背の高い、細長い建物が佇んでいるのだとわかった。

 山中にひっそりある小さな祠を、そのまま人の入れる大きさに引き伸ばしたような見た目だと思った。


 人の家とは違う。

 けれど、想像していた獣の住処とも違う。


「ここ?」


「そうだ」


 送り犬は短く答え、尻尾を揺らして石垣を登った。

 扉の低い位置についた輪っか型の金具を口で引き、先に中へ入っていく。


 千春は少しだけ迷ってから、送り犬が開けたままにした隙間に身体を滑り込ませた。


 高窓から差し込む月明かりでは、室内の細部まではよく見えない。ただ、中ががらんとしていることだけはわかった。


 板敷きらしい床の奥、一段高くなった場所に送り犬は飛び乗ると、身体を丸めるようにして伏せた。


「好きに過ごせ」


「好きにって言われても……」


 千春はもう一度、室内を見回した。椅子も机も、布団もなさそうだった。


 それでも屋根と壁があり、外の湿った風は入ってこない。野外で過ごすよりは、よほどいい。


 千春は、一段高くなった床の端に腰を下ろした。

 なんとなく靴を揃えて脱ぎ、それから、送り犬の隣に上がって、なんとなく正座する。


「ここで寝てもいい?」


 送り犬から返事はなかったが、犬の身体がほんの少しだけ横へずれた。


「ありがとう」


「礼は言うな」


 軽く笑って「はいはい」と返しながら、千春は、送り犬に背を向けるようにして横になった。

 床板は思った以上に硬く、冷たい。けれど、ほこり一つ落ちておらず、汚くはなかった。


 歩き通して疲れていた。寝転ぶと重だるさが身体の奥底からじんわりと滲み出てくる。


 でも、眠くはなかった。暗い壁をぼんやり見ているうちに、癖でスマホを取り出す。

 青白い光が指先で広がった。


 バッテリーはまだある。

 表示は、圏外。

 時計の数字は、さっき見たときと同じ。


 何度か画面を消して、またつけて、結局何も変わらないのを見てから、千春はスマホを顔の横に置いた。


「……帰れなかったらどうしよう」


 ぼそりと呟く。


 バスの時間。

 母への連絡。

 一人暮らしの部屋。

 明日の予定。


 そういうものが、果てしなく遠く感じられた。


 山と人の世では時の流れが違う。三本脚のカラスはそう言った。けれど、それがどれくらい違うのかはよくわからないし、山の神様がいつ戻るのかもわからない。

 そもそも神様が戻ってきたとして、本当に千春が帰れるのかどうかすら、わからなかった。


 急に寒くなった気がして、千春は背を丸めた。

 もう一度ため息を漏らしたとき、背中に何かが触れる。


 驚いて振り向くと、黒い毛並みがそこにあった。


 送り犬の背が、千春の背中に寄っている。


「送り犬?」


 返事はなかった。

 

 伝わる温度が、ただ、あたたかかった。

 送り犬が呼吸をするたび、厚い背中が、ほんの少しだけ千春を押し返す。


 肩から力が抜けていくのがわかった。


「ねぇ、話しててもいい?」


「寝ないのか」


「寝たいんだけど、眠れないし。黙ってると、余計なことばっかり考えちゃいそうで」


 ややあってから、送り犬は答えた。


「それでやりすごせるなら、そうしろ」


 ああ、これも。

 同じだと思った。


 四年前も、そうだった。

 黙って暗い山道を歩くのは怖いから、話していてもいいかと聞いたことがあった。

 送り犬はそのときも、それで歩けるならそうしろと言ってくれた。


「……やっぱり、送り犬の声は落ち着くな」


 言いながら、千春は寝返りを打った。


 床板がみしりと小さく軋む。


 背中のぬくもりは離れてしまったが、送り犬の顔が見たかった。大きな頭を持ち上げた送り犬の金色の瞳が、横になった千春を見下ろしている。


「あのね。私、あれから何度も夢を見たよ」


「夢」


「うん。送り犬と、あの山道を歩いてる夢。前を向いて歩いて、後ろから足音がして。私が何か聞くと、送り犬がたまに答えてくれる夢」


 送り犬の目がゆっくり瞬いた。


「あのときは、本当に怖かったはずなのに、私、その夢を見るのは好きだった」


「なぜ」


「夢の中なら、送り犬と会えたから」


 答えると、犬の耳がぴくりと小さく動く。


「でも、夢の最後はいつも同じで。送り犬が言うの」


 千春は小さく息を吸った。


「『千回、春が来ても、おまえはもう来ないのだな』って」


 胸の奥が少し痛む。

 その声は、ずっと耳に残っていた。


 言葉の意味を理解したころには、千春はもう元の世界に戻っていた。振り返っても、後ろに送り犬の姿はなく、足音も、声も、それきり聞こえてこなかった。


 あれから四年が過ぎても、あのときどんな顔をしていたんだろう、と千春は何度も考えた。


「また会えて、本当に嬉しい」


 送り犬は黙っていた。

 千春も、少し黙る。


 外で、かあ、と鳴く音がした。カラスはまだ近くにいるらしいが、建物の中までは入ってこなかった。


「それに、送り犬が私のことを覚えててくれたのも、嬉しかった。送った人、一人一人のことは覚えてないって前に言ってたから……私のことも、忘れちゃってるかもと思ってて」


「千春のことは、覚えていた」


 はっきりとそう告げられ、息をするのが少し遅れた。また泣いてしまいそうになるのを堪える。 


「そっか……そっか。一緒だね。私も、ずっと送り犬のこと忘れられなかった」


 犬の濡れた鼻先が、すん、と短く鳴る。


「忘れられなかった」


 低い声がそう繰り返す。ただ言葉をなぞっただけなのか、送り犬もそうだったということなのかはわからない。


 それでも胸が小さく跳ねた。


「それも私の真似?」


 誤魔化すように笑って訊ねると、送り犬の尻尾が、ぱた、と一度だけ床を打った。


 千春は、送り犬の伸ばした前脚に身を寄せた。近づくと、口元に白い牙が覗いているのが見えた。

 四年前は、この牙も怖かった。でも今は、不思議と怖いとは思わない。


 もう少しだけ近づくと、薄い被毛が頬に触れた。その下にあるぬくもりを、確かに感じる。


 床は硬くて、冷たくて、布団も枕もない。

 明日どうなるのかもわからない。


 それでも、送り犬といれば、やっぱりなんとかなる気がした。


 木と土の匂いがする。


 まぶたが、ゆっくり重くなっていく。


「……眠くなってきたかも」


「そうか」


「おやすみ、送り犬」


 千春が眠りに落ちる直前、頬に触れた毛並みが、ほんの少しだけ身じろぎした気がした。



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