道がない
「おまえを帰す道が、見当たらない」
「えっ、どういうこと?」
送り犬は答えなかった。鼻先を持ち上げ、黒い木々の間をゆっくりと見回している。
ばさり、と頭上で音がした。
「わっ」
肩が跳ねた。顔を上げると、すぐそばの枝の上に、一羽のカラスがとまっていた。
空よりも濃い黒の体は、枝とひと続きの影のようにも見えた。その中で、まるい目がふたつ、月明かりを返しながら千春をじっと見下ろしている。
「……送り犬」
「なんだ」
「なんか、カラスがいる。こっち見てる」
声をひそめる必要があったのかはわからないが、自然と小声になってしまった。
送り犬は枝の上をちらりと見る。
「構うな。なにもしてこない」
そう言って、送り犬はまた地面へ鼻先を近づける。
匂いを嗅ぎながら落ち葉の上を歩き、ときおり木の根の間を確かめるように覗き込んでいた。
かあ、と後ろから鳴き声がした。
振り返った千春は、口を開けたまま固まる。
カラスは一羽ではなくなっていた。右手の低い枝に一羽。奥の幹の影に一羽。その上にも、もう一羽。
そのどれもが、小首を傾げながら千春を見ていた。
「送り犬」
「なんだ」
「カラス。カラス、増えてる」
「放っておけ」
「放っておいていい数なん、あれ」
指差して訴えるが、送り犬はカラスたちを見回し、すぐに「あれはただのカラスだ」と視線を切った。
ただのカラス。
確かに、普通のカラスなんやけど。
何羽もいて、その全部の目が自分を追っているのが落ち着かなかった。千春は、送り犬のすぐそばを離れないようにした。
ふいに、送り犬の耳がぴくりと動く。金色の目が空を向いたのにつられ、千春も顔を上げる。
黒い鳥影が、三つの月の下を横切った。
大きい。
他のカラスより、ひとまわり以上は大きかった。
翼が風を打つ。
ばさり、ばさりと、濡れた布を広げるような音が何度か響いた。
大きなカラスは枝ではなく、千春たちの目の前の少し開けた地面に降り立った。月明かりを緑や紫に返すような黒い体から、細い足が伸びている。
それが、一本、多い。
三本の足が、黒い土を踏んでいた。
サッカーの日本代表のマークって、こんなんじゃなかったっけ。
そんな場違いなことが頭をよぎった直後だった。
「山の神はどうした」
送り犬がカラスに声をかけた。
「御山の神は、ただいま御不在にございます」
返ってきたのは、やけに明瞭な声だった。
千春は目を瞬いた。カラスが喋った。
いや、犬も喋っているのだから、今さら驚くことではないのかもしれない。
「不在だと」
送り犬の声が低くなる。
「はい。お戻りになるのがいつかは、わたくしどもにもわかりかねます」
顔を寄せ、「かみさまって?」と小さな声で送り犬に尋ねると、送り犬は三本足のカラスに視線を向けたまま答えた。
「山の神がいなければ、道は開かない」
「左様にございます」
大きなカラスが、よく通る声で言った。その視線が、送り犬から千春へと滑る。
「この娘御は、迷い込まれたわけではございませんね」
「どういうことだ」
「願って来られた。ゆえに、以前と同じ道では帰れませぬ」
願って来た。
「あっ……」
思わず声が漏れ、振り返った送り犬と目が合った。
確かに、送り犬に会いたいと口には出した。帰れなくなるなんて、考えもせずに。
「でも、帰れないのは困る、というか……困ります。普通に」
続けた言葉は、なぜか丁寧語になってしまった。大きなカラスがあまりに礼儀正しく話していたからかもしれない。
「願ったところで、迷い込めるわけがない。違うか」
カラスが答える前に送り犬がそう言い、喉を低く鳴らした。
「神が御慈悲で、願いを掬い上げてくださったのです」
「山の神でなければ道は開けない。千春を人里へ帰す」
カラスが小さく首を傾げた。
「いまだ斯様に人を送るお役目にご執心とは、お犬様はまこと律儀でいらっしゃる。ですが、神がお戻りになるまでは、いかんともしがたい」
「あの。どのくらい、かかるんですか」
千春はなんとなく小さく手を挙げて尋ねた。
「わかりかねます」
「わからない……」
千春は呆然と呟いて、ポケットからスマホを取り出した。画面はついたが、表示は四年前と同じ、圏外だった。
「そちらの板は、こちらでは用を成しませぬ」
「ですよね……」
スマホを握ったまま、息を吐く。
「行方不明とか、大ごとになったらどうしよう……」
「しかし、御山と人の世では、時の流れが異なりますゆえ。いましばらくは案ずるには及びませぬ」
「え、そうなんですか」
「左様にございます」
千春は、少しだけ肩の力を抜いた。
「それなら……少しは、よかったのかな」
「ただし」
カラスが、静かに羽を畳み直す。
「山は、人には危のうございます」
その言葉に、千春ははっとした。
暗がりに浮かんだやわらかな明かりを思い出す。
祖母の声に似せて、千春を呼んだもの。
人を連れて行ってしまうという、山の怪。
──ナンジ。
四年前、あれに触れかけたところを、送り犬が助けてくれた。送り犬がいなければ、きっと今頃──
「なんとおいたわしい。このような娘御ひとりでは、一晩も生きてはいられませんでしょう」
カラスは、送り犬のほうを見ながらそう言った。
少しの沈黙が落ちる。
「千春」
送り犬が踵を返した。
「行くぞ」
「え? 行くって、どこに?」
「住処がある」
「誰の」
送り犬は答えなかった。
数秒待ったが、やっぱり返事はない。
「……送り犬の?」
「そうだ」
「お邪魔していいの?」
それにも返事はなかった。
黒い尾が、ゆっくり揺れた。
ついてこい、という合図のように見えた。
千春は去り際、三本足のカラスをもう一度見た。カラスは何も言わず、小さく首を傾げる。
「あの、山の神様が戻ったら、帰れるんですよね?」
「それは、神がお決めになることにございます」
そこは、はいって言ってほしかったな。
千春は少し困って、それから送り犬の後を追いかけた。
追いかけながら、なんだか不思議な気持ちになった。
四年前、送り犬はずっと千春の半歩後ろにいた。先導はしない、千春が歩いて送り犬が送る、そういう決まりだったはずなのに、今はその黒い背中が前にある。
暗い中、金色の目がときおり立ち止まって振り返った。千春がついてきているか確かめ、歩調を合わせるように。
木の根につま先が引っかかりかけて、千春はふと思い出す。振り返るのは大丈夫でも、山の決まりごとは他にもあった。
「あ、そうだ。待って、送り犬」
「なんだ」
「ここも、転んだらだめ?」
「ここは帰り道ではない。決まりごとはない」
「そうなんだ。じゃあ安心だね」
ふぅ、と息を吐いていると送り犬は足を止めて、振り返った。そのまま動かずしばらくじっと千春を見ている。
「え、なに」
「泣かれても困るが、千春は少し山を怖がったほうがいい」
そう言って、送り犬はまた歩き出す。
帰り道はない。いつ帰れるかもわからない。
山の神様は不在で、カラスは妙に見てくるし、この山にはナンジもいる。
山は怖い。
それでも送り犬がいる。
それだけで、千春は足を動かせた。
黒い犬の尾が、目の前でゆっくり揺れている。




