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千はたくさん、春は春


 今でもときどき、あの日の夢を見る。


 足場の悪い、暗い山道を歩いている夢だ。

 背後から、た、たん、と軽い足音が続く。


「前を向け」

「一歩ずつでいい」

「千春、おまえを帰す」


 その低い声を、千春は忘れたことがない。



 祖母の七回忌が終わった。

 三回忌のときより親戚は少なく、座布団の片付けもすぐに済んだ。掃除機をかけ終えた千春は、台所にいる母に声をかける。


「お母さぁん。客間、片付け終わったよ」


「ありがとう、千春。珈琲でも淹れようか」


「いや、いい。もう出ようかなって。次のを逃すと二時間くらいバス来ぃひんし」


「そう。ほな、気ぃつけて帰り」


「はぁい」


「あ。着いたら、連絡するんやよ。忘れんといてね」


「う、わかってる……いつもごめん」


 一人暮らしを始めてから、会うたびに母はそう言った。心配をかけている自覚はある。それでも、連絡不精はなかなか治らなかった。


 祖母の家を出ると、午後の光がまぶしかった。春らしいやわらかな風が吹きぬけた先、車道のそばには人影があった。


「お姉ちゃん!」


「あれ。千春、もう帰るん」


 頷き、軽く言葉を交わしながら、千春は姉の腕の中にいる甥を覗き込む。甥がぐずるように身じろぎすると、姉は当たり前みたいに抱き直し、背中をぽんぽんと叩いた。


「じゃあ、またね」


 ──いつか自分も、結婚とかするんかな。 

 姉と甥に手を振りながら、そんなことを考えた。


 いや、想像できひん。

 そういう相手がいるわけでもないし。


 バス停へ向かう途中、祖母の畑が視界に入った。もう畝の跡すら残っておらず、草も伸び放題で、荒れ地のようになっている。


 スマホを見ると、バスが来るまでまだあと十分近くあった。自然と足がそちらへ向かう。


 四年前の三回忌の日も、ここへ来た。

 祖母との思い出に触れる、気安い散歩のつもりだった。


 けれどあの日、どういうわけか千春は不思議な場所に迷い込んだ。


 帰るのを助けてくれたのは、祖母がよく話していた「送り犬」。道を外れた人間を人里まで送る、黒くて大きくて、人の言葉を話す犬だ。


 千春は土道にそっとしゃがみ込んだ。

 あの日、あの山道でそうしたように、指で地面に線を引く。乾いた土の上に、薄く文字を書いた。


千。


春。


「千は、たくさん」


 気づけば、声に出していた。


「春は、春」


 そういうふうに送り犬に教えた名前。

 送り犬が、低い声で繰り返した名前。


「まだ、覚えてる?」


 誰に聞かせるでもなく、呟いた。


「送り犬。また、会いたいな」


 言ってから、千春は自分で少し驚いた。四年間、夢を見るたびに何度も思っていたが、声に出したのは初めてだった。


 言葉にすると寂しくなった。


 千春はそっと目を閉じる。


 そのとき──足元が、わずかに沈んだ気がした。


「……え?」


 目を開ける。


 あたりは薄暗くなっていた。


 つま先の下で、ぐしゃりと嫌な音が鳴る。

 足元には湿った落ち葉が積もり、黒い土の上を、太い木の根があちこちに張り出していた。


 顔を上げて見回す。祖母の家の瓦屋根は消えていた。目の前にあった畑もない。


 慌てて空を見ると、白い月が浮かんでいた。

 細く欠けた月が、低く、横向きに──三つ。


 喉の奥が冷えた。

 けれど、足はすくまなかった。


 ──ここを、知っている。


 直後、背後で軽い音がした。


 た、たん。た、たん。

 夢の中で何度も聞いたその音だった。


「……おまえ」


 低い声。

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。


「おまえ、千春か」


「送り犬──」

 名前、覚えていたんだ。


 振り向きかけて、はっとして止まる。


 この山には決まりごとがあった。

 ──振り返ってはいけない。


 千春は半端に首を動かしたまま止まり、小さく尋ねた。


「あ……ねぇ、今は、後ろを振り向いても大丈夫なやつ?」


 聞きながら、間が抜けた再会だなと思って、ちょっと可笑しかった。


「振り向いてもいい」


 胸をなで下ろし、ゆっくり振り返る。暗がりの中、千春の腰よりも高い位置に、金色の目があった。

 黒い毛並みは夜の闇とほとんど同化していて、薄く落ちた月明かりだけがその輪郭を細くなぞっている。


「千春、どうしてここにいる」


 その声も、呼び方も、四年前と同じだった。


「送り犬」


 もう一度呼ぶと、犬の耳がぴくりと動く。その仕草まで変わっていなくて、涙がこぼれた。


「……どうして泣いている」


 問われても、答えられなかった。


 た、たん。た、たん。


 ゆっくり近づいてきた送り犬は、千春の足元で止まり、どうすればいいのかわからないみたいに見上げてくる。


「怖いのか?」


「……ちがうの」


 千春は、手の甲で目元を拭いながら言った。

 

「四年ぶりやし、ちょっと、びっくりして」


 犬が小首をかしげる。


「あと、名前。覚えてたんやなって思ったら、なんかね」


 言いながら、千春は送り犬と向き合うようにしゃがんだ。すぐ目の前で金色の瞳が瞬く。


「前は、ありがとう」


 鼻をすすって言葉を続けた。


「送ってくれて。帰してくれて、ありがとう」


「礼は言うなと何度も言った」


 千春は小さく笑ってしまった。送り犬のその律儀さも懐かしかった。


「千春」


「うん」


「なぜここにいる。おまえは、帰したはずだ」


「わからない」


 正直に答えるしかなかった。


「前に迷い込んだ場所にいたからかな……気づいたらここに来てた」


「そんなふうに迷い込めるはずがない」


 理由は、自分にもわからない。わからないけれど。


「でも、会えて嬉しい」


 送り犬から返事はなかった。

 しばらく黙って向き合っていると、ふいに、送り犬が鼻先を持ち上げた。風の匂いを嗅ぐように動かしたかと思えば、千春の脇をすり抜けて歩き出す。


「どうしたの?」


「帰り道を探す」


「あ……そっか。そうだね」


 納得しながら、胸の奥が少し沈んだ。

 会えたばかりなのに、もう帰る話をしている。


 バスの時間もあるし、母にも帰ったら連絡すると言ってある。帰らないといけないのは、確かにそうだった。


 送り犬は地面の匂いを嗅ぎ、木々の間を見回した。

 木の根を越え、風上へ歩き、また戻ってくる。


 その足が、止まる。


「……ない」


「うん?」


「道がない」


「道?」


 首を傾げると、送り犬はまっすぐ千春を見据えて言った。


「おまえを帰す道が、見当たらない」


 湿った風が吹き抜け、頭上で木の葉がざわざわと揺れる。遠くで、かあ、とカラスが鳴いた。

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