千はたくさん、春は春
今でもときどき、あの日の夢を見る。
足場の悪い、暗い山道を歩いている夢だ。
背後から、た、たん、と軽い足音が続く。
「前を向け」
「一歩ずつでいい」
「千春、おまえを帰す」
その低い声を、千春は忘れたことがない。
◇
祖母の七回忌が終わった。
三回忌のときより親戚は少なく、座布団の片付けもすぐに済んだ。掃除機をかけ終えた千春は、台所にいる母に声をかける。
「お母さぁん。客間、片付け終わったよ」
「ありがとう、千春。珈琲でも淹れようか」
「いや、いい。もう出ようかなって。次のを逃すと二時間くらいバス来ぃひんし」
「そう。ほな、気ぃつけて帰り」
「はぁい」
「あ。着いたら、連絡するんやよ。忘れんといてね」
「う、わかってる……いつもごめん」
一人暮らしを始めてから、会うたびに母はそう言った。心配をかけている自覚はある。それでも、連絡不精はなかなか治らなかった。
祖母の家を出ると、午後の光がまぶしかった。春らしいやわらかな風が吹きぬけた先、車道のそばには人影があった。
「お姉ちゃん!」
「あれ。千春、もう帰るん」
頷き、軽く言葉を交わしながら、千春は姉の腕の中にいる甥を覗き込む。甥がぐずるように身じろぎすると、姉は当たり前みたいに抱き直し、背中をぽんぽんと叩いた。
「じゃあ、またね」
──いつか自分も、結婚とかするんかな。
姉と甥に手を振りながら、そんなことを考えた。
いや、想像できひん。
そういう相手がいるわけでもないし。
バス停へ向かう途中、祖母の畑が視界に入った。もう畝の跡すら残っておらず、草も伸び放題で、荒れ地のようになっている。
スマホを見ると、バスが来るまでまだあと十分近くあった。自然と足がそちらへ向かう。
四年前の三回忌の日も、ここへ来た。
祖母との思い出に触れる、気安い散歩のつもりだった。
けれどあの日、どういうわけか千春は不思議な場所に迷い込んだ。
帰るのを助けてくれたのは、祖母がよく話していた「送り犬」。道を外れた人間を人里まで送る、黒くて大きくて、人の言葉を話す犬だ。
千春は土道にそっとしゃがみ込んだ。
あの日、あの山道でそうしたように、指で地面に線を引く。乾いた土の上に、薄く文字を書いた。
千。
春。
「千は、たくさん」
気づけば、声に出していた。
「春は、春」
そういうふうに送り犬に教えた名前。
送り犬が、低い声で繰り返した名前。
「まだ、覚えてる?」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「送り犬。また、会いたいな」
言ってから、千春は自分で少し驚いた。四年間、夢を見るたびに何度も思っていたが、声に出したのは初めてだった。
言葉にすると寂しくなった。
千春はそっと目を閉じる。
そのとき──足元が、わずかに沈んだ気がした。
「……え?」
目を開ける。
あたりは薄暗くなっていた。
つま先の下で、ぐしゃりと嫌な音が鳴る。
足元には湿った落ち葉が積もり、黒い土の上を、太い木の根があちこちに張り出していた。
顔を上げて見回す。祖母の家の瓦屋根は消えていた。目の前にあった畑もない。
慌てて空を見ると、白い月が浮かんでいた。
細く欠けた月が、低く、横向きに──三つ。
喉の奥が冷えた。
けれど、足はすくまなかった。
──ここを、知っている。
直後、背後で軽い音がした。
た、たん。た、たん。
夢の中で何度も聞いたその音だった。
「……おまえ」
低い声。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「おまえ、千春か」
「送り犬──」
名前、覚えていたんだ。
振り向きかけて、はっとして止まる。
この山には決まりごとがあった。
──振り返ってはいけない。
千春は半端に首を動かしたまま止まり、小さく尋ねた。
「あ……ねぇ、今は、後ろを振り向いても大丈夫なやつ?」
聞きながら、間が抜けた再会だなと思って、ちょっと可笑しかった。
「振り向いてもいい」
胸をなで下ろし、ゆっくり振り返る。暗がりの中、千春の腰よりも高い位置に、金色の目があった。
黒い毛並みは夜の闇とほとんど同化していて、薄く落ちた月明かりだけがその輪郭を細くなぞっている。
「千春、どうしてここにいる」
その声も、呼び方も、四年前と同じだった。
「送り犬」
もう一度呼ぶと、犬の耳がぴくりと動く。その仕草まで変わっていなくて、涙がこぼれた。
「……どうして泣いている」
問われても、答えられなかった。
た、たん。た、たん。
ゆっくり近づいてきた送り犬は、千春の足元で止まり、どうすればいいのかわからないみたいに見上げてくる。
「怖いのか?」
「……ちがうの」
千春は、手の甲で目元を拭いながら言った。
「四年ぶりやし、ちょっと、びっくりして」
犬が小首をかしげる。
「あと、名前。覚えてたんやなって思ったら、なんかね」
言いながら、千春は送り犬と向き合うようにしゃがんだ。すぐ目の前で金色の瞳が瞬く。
「前は、ありがとう」
鼻をすすって言葉を続けた。
「送ってくれて。帰してくれて、ありがとう」
「礼は言うなと何度も言った」
千春は小さく笑ってしまった。送り犬のその律儀さも懐かしかった。
「千春」
「うん」
「なぜここにいる。おまえは、帰したはずだ」
「わからない」
正直に答えるしかなかった。
「前に迷い込んだ場所にいたからかな……気づいたらここに来てた」
「そんなふうに迷い込めるはずがない」
理由は、自分にもわからない。わからないけれど。
「でも、会えて嬉しい」
送り犬から返事はなかった。
しばらく黙って向き合っていると、ふいに、送り犬が鼻先を持ち上げた。風の匂いを嗅ぐように動かしたかと思えば、千春の脇をすり抜けて歩き出す。
「どうしたの?」
「帰り道を探す」
「あ……そっか。そうだね」
納得しながら、胸の奥が少し沈んだ。
会えたばかりなのに、もう帰る話をしている。
バスの時間もあるし、母にも帰ったら連絡すると言ってある。帰らないといけないのは、確かにそうだった。
送り犬は地面の匂いを嗅ぎ、木々の間を見回した。
木の根を越え、風上へ歩き、また戻ってくる。
その足が、止まる。
「……ない」
「うん?」
「道がない」
「道?」
首を傾げると、送り犬はまっすぐ千春を見据えて言った。
「おまえを帰す道が、見当たらない」
湿った風が吹き抜け、頭上で木の葉がざわざわと揺れる。遠くで、かあ、とカラスが鳴いた。




