?話 待てにはよしがある
見慣れない男が、そこにいた。
見慣れない、はずだった。
けれど、暗がりの中でこちらを見ているその金色の瞳を、千春はよく知っている。
「千春」
低くて静かなその声も。
間を取るようなその呼び方も。
知っている。
頭に黒い獣の耳が立ち、毛並みのよい尾は床をゆっくりと払う。
どう見ても、送り犬だ。
でも、知っている送り犬ではない。
千春よりずっと背が高くて、犬ではなく、人の形をしているのだから。
男は一歩踏み出した。
「送り犬……待って」
千春は、咄嗟にそう言った。こちらに近づこうとしていた送り犬が、ぴたりと止まる。
「“待て”だな」
「あ、そうじゃないんやけど……ちょっと、心の準備が」
心臓がうるさい。千春は胸に手を当てた。
そうしているあいだも、送り犬はその場で止まり、金色の目でじっと千春を見据えている。
「……送り犬?」
「待っている」
「うん?」
送り犬は真面目な顔をして言った。
「待っていれば、“よし”がある。そうだったな」
「え」
「千春が、そう言っていた」
あ。
たしかに、そう教えた。
──私が、教えた。
でも。
待てとかよしって──そういう意味だっけ。
「千春。“よし”はまだか」
千春は頭を抱えたくなった。
少し前まで、目の前にいたのは大きな黒い犬だった。寄り添って座り、頭を撫でることも平気でできた。
でも、こうして人の姿をとられれば、どう接していいのかわからない。
怖いわけではない。
怖いわけでは、ないのだ。
ただ──
「千春」
促されるようにもう一度呼ばれる。
千春は息を吸った。
「……よし」
掠れた声が出た。
送り犬が近づく。
一歩分の距離を残して向き合った。
目線の高さは違っても、この金色の瞳はいつもと同じなのに。今は、綺麗だと思うだけでは済まない気がした。
送り犬が、静かに手を差し出す。
「ん? なに?」
「お手だ」
「お手?」
「昼にもやった」
千春は差し出された手を見つめた。
それから、送り犬の顔を見上げる。
たしかに、昼にお手をした。
そのときは千春が手を差し出して。送り犬が脚を乗せて。
「千春、“お手”」
自分が手を乗せるとなると、ちょっと複雑かも。
そう思うと少しおかしくて、緊張がわずかにほどけた。千春はそっと手を伸ばす。
「はい、お手」
送り犬の手のひらに、自分の手を乗せる。
触れた肌から体温が移ってきて、すぐに息をのんだ。
大きくて厚い、男の人の手だと思った。
「千春。“いい子”だな」
低い声が耳朶を打つ。耳の奥が、じんと熱くなった。
──それを、自分に言われる日が来るとは思っていなかった。
くすぐったいような気恥ずかしさに、手を引こうとしたときだった。
少し硬い指先が、千春の指の腹に触れた。
そのまま関節の凹凸をなぞり、ゆっくりと指の隙間へ滑り込んでくる。
絡め取られたと気付いたのは、そのすぐあとのことだった。




