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山の神




 道は、今まで歩いたどの道とも違っていた。

 落ち葉も湿った土もなく、よく踏み均されていた。


 空を行く八咫烏に続いて、送り犬が千春の半歩前を歩く。ときおり振り返る金色の目に、千春はそのたび小さく「大丈夫」と頷いてみせた。


 本当は、あまり大丈夫ではなかった。

 山の神は、優しいのか、怖いのか。送り犬は考えたことがないと言っていたが、緊張しないはずがなかった。

 なにより、千春が再びここへ来られたのは、山の神が千春の願いを聞き入れたからだという。送り犬に会いたい、と願ったから。

 それを今さら「そんなつもりじゃなかったんです」なんて言って、帰してもらうことはできるんだろうか。

 千春は人知れず息を吐いた。


 木々が、急に開けた。

 社殿がある。


 山の中にあるには不自然なほど、整って立派だった。鳥居はないが、玉砂利を踏んだ瞬間に空気が変わった。


 涼しい。

 静かすぎる。


 葉擦れの音すら、聞こえない場所だった。


「こちらに」


 八咫烏が社の前に降り立つ。その奥で、扉が音もなく開いた。中は暗いが、ぼんやりと、何かがいることはわかった。


「よう参り、チハル」


 声がした。低くも高くもない、男女のどちらとも取れるような声。張りはあるのに、妙に落ち着いていて、耳元ではなく山全体から響いてくる感じがした。


 背すじが伸びた。


「はい。あの……お邪魔します」


「ふふ。邪魔ということはない。呼んだのはこちらなんやしな」


 闇の中から人影がやおら出てくる。

 人影、としか言いようがない。長い髪を後ろでゆるく結び、白とも灰色ともつかない衣をまとっているが、その輪郭はどこか曖昧だった。遠目に顔も見えているはずなのに、認識ができない。目を離すと、その姿ごと思い出せなくなりそうだった。


 千春は、これが人とも送り犬とも違うものだと、そのときすぐに理解した。


「御山の神にございます」


 八咫烏が言った。

 山の神は、千春に向かって微笑む。


「留守にしておって悪かったな。して、山の暮らしはどうじゃ、チハル」


「えっと……楽しく、過ごしています」


「そうかそうか。それはよかった」


 思っていたより話しやすそうだ。

 山の神の優しげな物言いに、千春が少し肩の力を抜きかけた、そのときだった。

 隣にいる送り犬が、低く唸った。


「道を開け」


 えっ、なに。

 千春は戸惑った。送り犬は、千春を気にする様子もなく山の神を見据えていた。

 山の神も、ゆっくりと送り犬を見る。


「犬の。おぬしは相変わらず急く。獣の性か?」


「千春を帰せ」


「帰す……“帰す”なあ」


 神は笑った。


「帰してよいのか?」


 送り犬は黙った。

 千春は、二人のあいだで視線を揺らす。


「せっかく会わせてやったというのに。ああ、ミカヅキ、であったか。名まで賜って、随分と可愛がられておるではないか」


「会わせるように頼んだ覚えはない。道を開いて、今すぐに帰せ」


「じゃが、犬の。おぬし、帰したくないのであろう」


 空気が止まった気がした。

 送り犬の金色の目が鋭くなる。


「娘。おぬしも、帰りたくない。違うか」


 山の神の視線が、千春に移った。

 千春は息を詰める。


 帰りたい。

 千春には千春の生活がある。


 でも。

 帰れば、送り犬とはどうなるのか。

 また会えなくなる──そう思っただけで、胸の奥が沈んだ。


「帰れば、もう二度とは会えんなあ」


 山の神は、千春の胸の内をなぞるように言った。


「どうする?」


「二度と、ですか」


 聞き返した声が、自分でも少し掠れているのがわかった。


 送り犬が前へ出る。


「千春、だめだ」


「でも」


「口車に乗せられるな。千春、おまえは帰る。それを忘れるな」


 その声は、いつになく硬かった。

 山の神は、ふふ、と柔らかい声を漏らす。


「なんとまあ。悲しいことよ。おぬしら、せっかく想い合うておるのになぁ」


「黙れ」


 送り犬が吠えるように言った。


 千春の胸が、どきりとする。


 吠え声に驚いたのか、それとも『想い合う』という言葉が胸に刺さったからか、自分でもよくわからなかった。

 送り犬の唸りが地面を這う。


「送り帰した千春を連れてきておいて、よくも言う」


「千はたくさん、春は春──」


 山の神は、歌うように言った。


「そう諳んじておったな、犬の。何度も、何度も」


 千春は咄嗟に送り犬を見た。


「哀れに思うたからこそ、吾が連れてきてやったというのに」


「送り犬……?」


 こぼれた問いかけに、送り犬は反応しなかった。山の神をじっと見据えたまま黙っている。

 山の神は愉快そうに続けた。


「犬の。おぬし、春が来るたび、何を探しておった。月が細る夜、誰の足音を拾おうとしておった」


「黙れと言った」


「おお、怖や怖や。しかし。ふふ、おぬしそんな顔もできたんじゃな」


 千春は、胸の奥が苦しくなった。

 あの帰り道、自分が白い砂の上に書いた名前を。意味まで。何度も。

 送り犬はずっと、そんなふうに覚えていたのだろうか。四年の間、ずっと。


「チハル」


 山の神が、今度は千春を呼んだ。


「おぬしはどう思う。帰りたいか」


 千春は唇を開く。

 答えは決まっているはずだった。


「帰りたい、です」


 隣にいる送り犬が息を吐いたのがわかった。


 千春は続ける。


「でも」


 送り犬がこちらを見る。


「送り犬と、もう会えないっていうのは……」


 言葉がそこで止まった。


 言うべきではないのかもしれない。

 でも、胸のうちに留めてもおけなかった。


「さみしい、です」


 山の神が目を細める。


「そうであろうなあ」


「千春、だめだ」


「でも、さみしいよ」


 千春は送り犬を見た。


「また会えなくなるのは、嫌」


 言うと、目の奥が痛かった。唇を引き結ぶと同時に、視界がじわりと滲む。


 送り犬は何も言わなかった。

 金色の目がかすかに揺れたように見えた。


 山の神は満足そうに二人を見比べると、軽く手を振った。


「犬の。少し下がれ」


「なぜだ」


「娘にもう少し問うてみたい」


「ここで問え」


「おぬしがおっては、答えにくいこともあろう」


 送り犬が再び唸った。低く、鋭い音だった。近くにいた烏たちが一斉に飛び去る。

 山の神だけは、悠然としていた。


「なに。取って食らうようなことはせん」


「信用できない」


「犬の」


 山の神の声が、少しだけ冷えた。


「この娘を帰すか否かは、こちら次第じゃ。それを、ゆめゆめ忘れるな」


 空気が、ぴんと張る。


 送り犬の金色の目が、枝の上へ向いた。視線の先にいた八咫烏が、かすかに羽を震わせる。


「千春に何かあれば」


 低い声が、地を這うように落ちた。


「その烏を落とす」


 八咫烏が、一歩だけ枝の上を退いた。


「ふふ。吾の山で、吾の使いを脅すのか。まこと、扱いづらい犬よ」


 千春は、胸の奥がざわつくのを感じながら、送り犬の背に手を伸ばした。


「ミカヅキ」


 名前を呼ぶと、送り犬の耳が動く。


「大丈夫だから。何かあったら、呼ぶから」


「……」


「ね」


 送り犬は、千春だけに聞こえる声で言った。


「何を言われても、帰ると言え」


「……うん」


「帰る里のことを忘れるな」


 千春が頷くと、送り犬はようやく身を翻した。


 黒い尾が、来た道を遠ざかる。途端に、社の中が広くなったように感じた。


 山の神と、千春。

 枝の上には、黙って見ている八咫烏。


 千春は、両手をぎゅっと握った。

 山の神が、にこりと笑う。


「して、チハル」


 その笑みは、先ほどより少し柔らかく見えた。

 だからこそ、千春は余計に身構えた。


「聞かせてもらおうか」


 山の神の声が、静かに落ちる。


「おぬしは、あの犬とどうなりたい」


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