七度までの来山
「おぬしは、あの犬とどうなりたい」
どうなりたい。
そんなふうに考えたことは、なかった気がする。
千春は玉砂利のうえに視線を彷徨わせた。
ただ、送り犬に会いたかった。
はじめはそれだけ。
自分のことを覚えているか訊きたかった。
また、名前を呼んでほしかった。
金色の目を見ると安心して、低い声が耳に心地よくて。
硬い毛並みや、触れたときのあたたかさも知り、その離れがたさも、千春には自覚があった。
けれどそれを、まとめて何と呼べばいいのか。
それはまだうまく言葉にできそうになかった。
「私、帰りたいです」
まず、そう言った。
「母も心配しますし、大学もバイトもあります。ずっとここにいることはできません」
山の神は、続きを促すように目を細める。
千春は、体の前で組んだ両手にぎゅっと力をこめた。
「──でも、送り犬にも会いたいです」
声に出すと、胸の奥が小さく震えた。
「帰ったら、もう二度と会えないっていうのは……嫌です」
「欲張りなことよな」
山の神は愉快そうに口元を歪めた。
「人の世には帰りたい。されどまた犬にも会いたい。チハル、おぬしはどちらも欲しいと申しておるのだな」
「……そうなります」
帰りたい。
会いたい。
どちらも本当で、否定はできない。
「できませんか」
「うん?」
「帰って、また、送り犬に会いに来ることは」
ほんの少しだけ、場の空気が変わった。
「おぬしは、こちらとあちらの道を、そう易々と開け閉めできるものとでも思うておるのか」
「……神さまなら、できるのかなって」
言いながら、千春は山の神の顔を見た。
できない、とは言わないのではないか。そんな思惑が薄くあった。
山の神は軽やかに笑う。
「できぬとは言わぬ」
言い終えると、その笑みが一瞬だけ消えた。
見透かされた、と胸が冷える。
けれど山の神は咎める様子もなく、ゆるく袖を揺らしながら続けた。
「おぬしに尋ねたのは、山に残るか、帰るかの筈じゃったが……まあ、そうじゃな。人の娘には人の世での生がある。残るのは難しいじゃろう。そこまで望むのなら、行き来させてやるのも神の慈悲じゃな」
「本当ですか?」
「本当じゃ。山の裾におらずとも、こちらへ通じる道を開いてやることもできるしな」
「それは……たとえば、私の部屋からでも?」
「人の世であれば、どこからでも」
胸の奥が、ぱっと明るくなる。
一人暮らしの部屋からでも。大学の近くからでも。祖母の家に行かなくても、送り犬に会いに来られる。
「ふふ。その顔を見るに、悪くない話のようじゃな。叶えてやろう」
「ありがとうございます」
胸がいっぱいになって、頭を下げた。
そのときだった。
「ただし」
山の神の声が静かに落ちる。抑揚を抑えた調子だった。千春は背すじを伸ばして続きを待った。
「条件がある」
思わず、固い唾を飲み込む。
「そう身構えるな」
山の神は、楽しげに言った。
「ただ、人の娘を、好き放題こちらへ通わせてやる謂れはない」
「なら、どうすれば」
「形が要る」
「形……?」
「婚姻でもしてみたらどうじゃ」
千春は、瞬きをした。
「婚姻?」
「そうじゃ」
「婚姻って……結婚、ってことですか」
「人間の風習であろう。恋しい者同士、傍におればそうなるのも自然ではないか」
「いや、でも」
千春は言葉に詰まる。
結婚。
昨夜、自分が送り犬に説明したばかりの言葉だった。
夫婦になること。一緒にいたい相手とする、重い決まり。
「チハルが吾と契りを交わし、犬と縁を結ぶのなら──おぬしの望む折に、いくらでも道を開いてやろう」
「神さまと、契りを?」
そこが、やけに引っかかった。
「道を開くのは、吾じゃからな。犬とおぬし二人だけの話というわけにもいかん」
「……」
「犬との婚姻は嫌か」
「嫌、というか」
そういう話ではなかった。
急に足元が頼りなくなる。
「そんなこと、できるんですか」
「すればよかろう」
「いや、そんな簡単に」
「神の御前で誓えば、それでしまいじゃ。難しいことなものか」
「……でも、送り犬がどう思ってるのかは、わからないですし」
口にした途端、山の神は声を上げて笑った。
「あれの意思が気になるのか」
「送り犬のことを、送り犬抜きでは決められません」
千春は、少し強く言った。
山の神はひとしきり笑ったあと、しばらく千春を見ていた。
不思議な視線だった。
優しいようでもあり、面白がっているようでもあり、冷たいようでもある。
緊張感だけが、首筋にずっと絡みついているみたいだった。
山の神は短く息を吐く。
「よかろう。今すぐ決めよとは言わぬ」
「え」
「そうさなぁ。七度までなら、契りを交わさずとも道を開いてやろう」
山の神は、ほっそりとした指を折る。
「此度が一度目。残りは六度。七度目の終いに決めよ。人の世へ帰り、二度と来ぬか。犬と結び、吾とも契るか」
「あと六回……」
「まあ──七度も要らぬかもしれんがな。人の娘が山の犬に焦がれるなど、そう長く続くものでもあるまい」
千春は口を噤んだ。
言いたいことや、聞きたいことがなかったわけではない。ただ、神さま相手に、どこまで詰め寄っていいのかわからなかった。
山の神は、優しい顔で笑っている。
けれど、送り犬は少しも神さまに気を許していなかった。きっと、言葉も表情も、そのままに受け取ってはいけない。
「此度の帰り道を開いてやる。犬に送られ仲良く歩くがよい」
山の神が手を振ると、社の扉が、音もなく閉じた。
「お話は以上にございます」
枝の上から八咫烏の声が響く。
すぐに後ろから、た、たん。た、たん。と足音がした。いつもより細かな間隔だった。
振り返ると、駆けてくる黒い影があっという間に足元まで来た。金色の目が、心配げにこちらを見上げる。
「千春」
「ミカヅキ」
呼び返すと、耳が動いた。
「何を言われた」
「えっと……」
千春は迷った。
全部をすぐに言うには、まだ自分でも飲み込めていなかった。
「帰れるって。道を開いてくれるって言ってた」
まず、それだけを伝えた。
「そうか」
送り犬の目がほっとしたように細くなる。
「お犬様。帰りはお二人で帰れますな」
八咫烏の声に、送り犬は返事を返さなかった。
「行くぞ、千春」とだけ言って、踵を返す。
千春は社に向かって一度頭を下げ、黒い背に続いた。
「他にはなにも言われなかったか」
前を歩きながら送り犬が振り返る。
「あ、えっと……また、会いに来てもいいって」
送り犬の目が見開かれる。顔をそらすように、送り犬はすぐに前を向いた。
「おばあちゃんの家の裏手からじゃなくても、道を開いてくれるって。私の部屋からでも、たぶん」
「人の世のどこからでもか」
「そう言ってた」
前を向いたまま、送り犬は黙った。
驚いているのか、困っているのかはわからない。
「でも、七度までだって」
「七度」
「今が一回目だから、あと六回。その終わりに、決めろって。人の世に帰って二度と来ないか。もし、好きに行き来したいのなら──」
千春はそこですこし迷った。開いた口はそのままに、言葉がなかなか出てこない。
不思議に思ったのか、送り犬が振り返りながら「千春」と名を呼んだ。
「……神さまと契って、送り犬と婚姻をしたらどうかって言ってた」
「こんいん」
「昨日話してた、結婚のこと。送り犬と、私が」
送り犬の足が止まる。鼻をきゅっと引きつらせ、眉間に深いしわを寄せて言った。
「だめだ」
千春が返答する間を待たず、送り犬はもう一度言った。
「だめだ。千春」
沈黙が落ちた。
カラスの鳴き声が遠く聞こえる。
ややあってから、千春は足を進めた。立ち止まった送り犬の隣に並び、黒い背に手を添える。
「ミカヅキ」
「なんだ」
「……ちゃんと帰るから。もう少し一緒にいてほしい」
それは、お願いというより、確認に近かった。
送り犬は千春を見た。
金色の瞳が、静かに揺れている。
「千春は、帰る」
「うん、帰るね」
「帰るべきだ」
「わかってる」
千春は頷き、続けた。
「でも、私、また送り犬に会いに来たい」
その言葉に、送り犬はなにも返さなかった。
風が吹いてもいないのに、両側の木々が、笑うようにざわざわと揺れた。




