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人の形


「じゃあ──またくるね」


 千春が綱をくぐったあとも、送り犬はしばらくそこに留まった。


 白い砂礫地の上には、二本の木杭が立っている。

 その間に渡された太い綱には、紙片がいくつも結ばれ、それがひらりひらりと揺れていた。


 綱の向こうには、もう何もない。

 垣間見えた人の世の夕暮れも、屈んで手を振る千春の姿も消えている。


 道は閉ざされた。


 送り犬は、何もないそこをただ、見ていた。


「犬の。もう娘が恋しいか」


 背後から声が落ちた。送り犬は振り返らなかった。


「さて。本当に戻ってくるかどうか」


「千春に余計なことを吹き込んだな」


「余計……」


 山の神は、わざとらしく目を瞬いた。


「余計か?」


 その問いは、すぐそばの枝に止まっていた八咫烏へ向けられる。黒い鳥は三本の脚で枝を掴み、恭しく羽を畳んだまま、声もなく首を横に振った。

 山の神はそれを見て、満足そうに頷いた。


「余計ではあるまい」


 送り犬は、そこでようやく振り返った。

 白い砂礫地の端に、山の神が立っている。

 

 送り犬は低く言った。


「千春は人の世に帰った。もう構うな」


「一度、帰っただけじゃ」


 山の神は笑う。


「あの娘はまた来ると申した。聞いたであろう? あと六度の逢瀬じゃなぁ」


「……」


「おぬし、それは覚えなかったのか?」


 山の神は一歩近づく。


「この数日、あれだけ娘の話を健気に聞いておったというのに。嬉しげに尻尾まで振って」


 山の神は、枝の上の八咫烏を見やる。


「なあ」


 八咫烏は黙って頭を下げた。


「見ていたならば、知っているはずだ。千春は帰りたがっていた」


「そうじゃな」


 山の神はあっさり頷いた。


「人の娘は人の世へ帰るべきじゃ。家もあり、母もあり、これから先の生もある。山に長く置くわけにもいくまい」


「ならば、もう道を開くな」


「なぜじゃ」


「千春が来なければよい」


 山の神は声を立てて笑った。


「そうしてよいのか?」


 送り犬は唸った。

 山の神は、目を細める。


「殊勝なことよ。まこと、人から賜った役目に忠実なのが哀れでならん」


「千春は人の世で生きる。山にいるべきではない」


「ならばなぜ、おぬしは娘を帰したあともここに立っておる」


 送り犬は答えなかった。


「犬の。なぜ、おぬしはあの娘に『来るな』とは言わなんだ」


「帰れと言った」


「もっと突き放せばよかろう。牙を見せて唸りでもすれば、あの娘はおぬしに会いたいなどと二度と言わんかったろうに」


 送り犬は黙った。


「──ああ、違うか。おぬし、そうしないのではなく、娘相手にそれができぬのじゃな」


「……」


「そう離れがたいのであれば、婚姻でもしてみればどうじゃ。それも、娘から聞いたであろう」


「犬と人では婚姻できない」


 山の神の笑みが深くなる。


「そうじゃな」


 足音もなく山の神が歩み寄る。


「ならば、人の形を取ってみればよい」


「なんだと」


「婚姻のためには、人の形のほうが都合がよかろう」


「必要ない。婚姻などしない」


「おぬしは、娘と違って勝手に決めるのだな」


 山の神の声が、少しだけ冷えた。


「何の話をしている」


 送り犬は言った。

 山の神はその答えに、いっそう楽しげに声を上げた。


「なおさら試してみればよい」


 山の神は片手を上げた。

 白い指先が、送り犬へ向けられる。


 山の神の手のひらから、雫のような光が落ちた。


 一呼吸後、足元の白い砂がざわめいた。

 綱の紙片が一斉に震える。


 目映い光があたりを包む。送り犬は目を細めた。


 光が収まったとき、白い砂礫地の上には、ひとりの男が立っていた。


 黒い髪。

 金色の目。

 夜を切り取ったような黒い衣をまとい、裸足で白い砂の上に立っている。


 送り犬は、自分の手を見た。


 握る。

 開く。


 指があった。

 毛で覆われていない手のひら。

 爪は短く、獣のそれではない。

 送り犬は、皮膚の下に知らない感覚が通っているのを、不思議そうに確かめた。


「半端な姿じゃな。完全にはかからんかったか」


 山の神は黒い髪から覗く獣の耳を見て言った。


「夜ごと、おぬしはその姿となるであろう」


 送り犬は眉をひそめる。


「余計なことばかりする」


「そう言うな」


 送り犬はもう一度だけ山の神をじっと見たあと、すぐに歩き出した。

 白い砂の上を、人の足が進む。

 はじめ、その歩みはぎこちなかったが、数歩進むうちに、身体はその形での歩き方を覚えたようだった。

 人の一歩は重かった。進むたび、足元でがらがらと砂礫が崩れた。


 枝の上から八咫烏の慇懃な声が落ちる。


「どうなりましょう」


 山の神は、去っていく背を見つめた。

 送り犬は振り返らず、住処のほうへ歩いていく。


「来ぬなら来ぬでよい。娘の名を諳んじる犬を、また眺めておればよい」


 山の神は、楽しげに言った。


「来たところで、人の娘の思慕など、そう長くは続くまい。何度か通うたのちに飽きられれば、今度は期待したぶんだけ傷も深かろう」


「左様にございますとも。人の情は、移ろいやすきものにございますゆえ」


「ああ、しかし、婚姻を選んでもよいな。娘ごと吾の契りの内に入ることになる。どう転んでも、吾の損にはならん」


「まこと、抜かりなき御見立てにございます」


「ふふ、婚姻。婚姻なぁ……」


 山の神は、その言葉を転がすように繰り返した。


「それも、それで見ものじゃな」


 白い紙片が、風もないのに舞い上がって揺れる。


「悲恋の末に娘を恨み、祟神となるか。欲しがるだけの獣になるか。あるいは──人になりたがるか」


 山の神はひとつひとつ数えるようにそう言うと、最後に冷たく吐き捨てた。


「異類の婚姻など、うまくいくはずがない」


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