表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/18

二度目の来山



「あないもうす、あないもうす」


 誰もいない部屋でそう唱えるのは、想像していたよりずっと恥ずかしかった。

 窓を閉め、カーテンを引き、電気を消した暗い部屋の真ん中に、千春は一人で立っていた。

 

 背負っているリュックは、タオルケットと小さめのクッションでぱんぱんになっていた。

 そこへ、念のためにペットボトルの水、軽食、ウェットティッシュもねじ込む。

 山では身体が汚れにくい。お腹もあまり空かない。

 それでも、何も持たずに行くのは、どこか落ち着かなかったからだ。


 千春は息を吸い、八咫烏に教えられた通りの文言をもう一度口にした。


「あないもうす、あないもうす」


 部屋の空気が少し冷えた。


 目の奥が、きゅっと痛む。


「うけたもう、うけたもう」


 どこからともなく、声が返った。

 丁寧で、伸びるような声。すぐに八咫烏のものだとわかった。


「いずこの御方にて候や」


 いずこ──生まれ育った実家の住所を言えばいいのか、大学近くの現住所を言えばいいのか、千春は少し迷った。


「えっと……千春です」


 ひとまずそれだけを名乗ると、八咫烏の声は少しだけ笑いを含んだ。


「そのチハル様が、御来山のゆえはいかに」


「送り犬に会いたいんですけど……」


 間を置いて、また笑う気配があった。けれど、そうとしか答えようがなかったので、そのまま千春は返答を待った。

 

「なれば、御通り召されよ」


 その声が落ちた瞬間、目の奥がいっそうきつく疼いた。


「っ」


 千春は思わず目を閉じた。


 足元が、ふっと頼りなくなる。

 エレベーターに乗ったときの浮動感に似ていた。


 耳の奥で、葉擦れの音が鳴る。


 次に目を開けたとき、そこはもう自分の部屋ではなかった。


 湿った土の匂い。

 青みがかった木々の影。

 遠くで聞こえる水音。


「ようお参り、チハル」


 山のどこかから、山の神の声がした。

 千春は肩を跳ねさせ、周囲を見回す。どこにも姿は見えなかった。


「……お邪魔します」


 返事があったわけではない。


 代わりに、少し離れた木々の間で、落ち葉が沈む音がした。

 た、たん。

 千春の胸が、きゅっと縮む。


「ミカヅキ」


 呼ぶと、黒い毛並みが木々の間から現れた。

 金色の目。夜を切り取ったような黒い身体。聞き慣れた足音。


 それだけで、肩に入っていた力が抜けた。


「千春」


 低い声が、自分の名前を呼ぶ。

 千春は思わず駆け寄った。


「来たよ」


 しゃがみ込んで、黒い首元に手を伸ばす。硬い毛並みが指の下に沈む。その感触に、千春は小さく息を吐いた。


 ああ、これだ、と思った。


 綱をくぐったあと、結局ほとんど現実世界での時間は経っていなかった。もともと乗る予定だったバスには間に合わなかったが、その二時間後のバスには乗ることができた。

 まず母に連絡して、部屋に帰って、自分の生活に戻って。大学にも行き、バイトにも行った。


 そうして、ちゃんと現実の時間を過ごしたはずなのに、胸のどこかがずっと落ち着かなかった。


 今、数日ぶりにこの毛並みに触れて、ようやく何かが元の場所に収まるような気がした。


「会いたかったぁ」


 ぽつりとそう言うと、送り犬の耳が小さく動いた。千春は照れくさくなって、慌てて笑う。


「いや、そんなに時間経ってないんだけどね。こっちだと、どうなのかわからないけど」


 送り犬はしばらく黙っていたが、一歩踏み出し、しゃがんだ千春の肩口へ顔を寄せた。


「わ」


 ぐい、と鼻先が服に擦れる。


「なに?」


「匂いがする」


「柔軟剤? あ、シャンプーかも。来る前にシャワー浴びてきたから」


「生きている匂いがする」


「急に重いね」


 千春は笑った。


「重い?」


 送り犬が鼻先を引きかけたので、千春は慌てて首を振った。


「違う違う、そういう意味じゃないから。くっついてていいよ」


 言いながら、黒い頭を撫でる。


 送り犬は、また千春の肩口に鼻を寄せた。

 一度そうすると、今度はなかなか離れなかった。服越しに、呼吸がかすかに伝わってくる。

 鼻先が肩から首元へ少しだけ滑り、千春は笑い声を上げて肩をすくめた。


「くすぐったい」


 そう言っても、送り犬はすぐには離れない。

 犬だから、匂いで確かめているのかもしれない。そう思うと少し恥ずかしかった。でも、嫌ではなかった。


「ちゃんと生きてるよ」


 千春はそう言って、何度も毛並みを撫でた。


「大学の課題も来る前にやってきたし、こっちで何日かいても、向こうではそんなに経たないみたいやから。また少し、こっちにいられそう」


 送り犬はなにか言いかけたように喉を鳴らし、けれど何も言わなかった。


「ミカヅキ?」


 呼びかけても、返事はなかった。金色の目が、じっと千春を見つめている。


「……また私が来て、困っちゃった?」


「違う」


 間を置かずに返ってきた。

 千春は少しだけ目を丸くする。


「そっか」


 送り犬は、なおも何か言いたそうに口を開きかけた。けれど、結局それ以上は何も言わなかった。

 困っていない、と言ったのに、どこか困ったような目をしている。


 千春には、その理由まではわからなかった。


「ちゃんと、帰るから……それまでまた一緒にいてもいい?」


 返事の代わりにか、送り犬の尾がゆっくりと揺れた。


「行くぞ」


 送り犬は身を翻す。

 千春も立ち上がり、湿った地面を踏み出した。背中のリュックが揺れる。その重さまで、今は少し嬉しかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ