二度目の来山
「あないもうす、あないもうす」
誰もいない部屋でそう唱えるのは、想像していたよりずっと恥ずかしかった。
窓を閉め、カーテンを引き、電気を消した暗い部屋の真ん中に、千春は一人で立っていた。
背負っているリュックは、タオルケットと小さめのクッションでぱんぱんになっていた。
そこへ、念のためにペットボトルの水、軽食、ウェットティッシュもねじ込む。
山では身体が汚れにくい。お腹もあまり空かない。
それでも、何も持たずに行くのは、どこか落ち着かなかったからだ。
千春は息を吸い、八咫烏に教えられた通りの文言をもう一度口にした。
「あないもうす、あないもうす」
部屋の空気が少し冷えた。
目の奥が、きゅっと痛む。
「うけたもう、うけたもう」
どこからともなく、声が返った。
丁寧で、伸びるような声。すぐに八咫烏のものだとわかった。
「いずこの御方にて候や」
いずこ──生まれ育った実家の住所を言えばいいのか、大学近くの現住所を言えばいいのか、千春は少し迷った。
「えっと……千春です」
ひとまずそれだけを名乗ると、八咫烏の声は少しだけ笑いを含んだ。
「そのチハル様が、御来山のゆえはいかに」
「送り犬に会いたいんですけど……」
間を置いて、また笑う気配があった。けれど、そうとしか答えようがなかったので、そのまま千春は返答を待った。
「なれば、御通り召されよ」
その声が落ちた瞬間、目の奥がいっそうきつく疼いた。
「っ」
千春は思わず目を閉じた。
足元が、ふっと頼りなくなる。
エレベーターに乗ったときの浮動感に似ていた。
耳の奥で、葉擦れの音が鳴る。
次に目を開けたとき、そこはもう自分の部屋ではなかった。
湿った土の匂い。
青みがかった木々の影。
遠くで聞こえる水音。
「ようお参り、チハル」
山のどこかから、山の神の声がした。
千春は肩を跳ねさせ、周囲を見回す。どこにも姿は見えなかった。
「……お邪魔します」
返事があったわけではない。
代わりに、少し離れた木々の間で、落ち葉が沈む音がした。
た、たん。
千春の胸が、きゅっと縮む。
「ミカヅキ」
呼ぶと、黒い毛並みが木々の間から現れた。
金色の目。夜を切り取ったような黒い身体。聞き慣れた足音。
それだけで、肩に入っていた力が抜けた。
「千春」
低い声が、自分の名前を呼ぶ。
千春は思わず駆け寄った。
「来たよ」
しゃがみ込んで、黒い首元に手を伸ばす。硬い毛並みが指の下に沈む。その感触に、千春は小さく息を吐いた。
ああ、これだ、と思った。
綱をくぐったあと、結局ほとんど現実世界での時間は経っていなかった。もともと乗る予定だったバスには間に合わなかったが、その二時間後のバスには乗ることができた。
まず母に連絡して、部屋に帰って、自分の生活に戻って。大学にも行き、バイトにも行った。
そうして、ちゃんと現実の時間を過ごしたはずなのに、胸のどこかがずっと落ち着かなかった。
今、数日ぶりにこの毛並みに触れて、ようやく何かが元の場所に収まるような気がした。
「会いたかったぁ」
ぽつりとそう言うと、送り犬の耳が小さく動いた。千春は照れくさくなって、慌てて笑う。
「いや、そんなに時間経ってないんだけどね。こっちだと、どうなのかわからないけど」
送り犬はしばらく黙っていたが、一歩踏み出し、しゃがんだ千春の肩口へ顔を寄せた。
「わ」
ぐい、と鼻先が服に擦れる。
「なに?」
「匂いがする」
「柔軟剤? あ、シャンプーかも。来る前にシャワー浴びてきたから」
「生きている匂いがする」
「急に重いね」
千春は笑った。
「重い?」
送り犬が鼻先を引きかけたので、千春は慌てて首を振った。
「違う違う、そういう意味じゃないから。くっついてていいよ」
言いながら、黒い頭を撫でる。
送り犬は、また千春の肩口に鼻を寄せた。
一度そうすると、今度はなかなか離れなかった。服越しに、呼吸がかすかに伝わってくる。
鼻先が肩から首元へ少しだけ滑り、千春は笑い声を上げて肩をすくめた。
「くすぐったい」
そう言っても、送り犬はすぐには離れない。
犬だから、匂いで確かめているのかもしれない。そう思うと少し恥ずかしかった。でも、嫌ではなかった。
「ちゃんと生きてるよ」
千春はそう言って、何度も毛並みを撫でた。
「大学の課題も来る前にやってきたし、こっちで何日かいても、向こうではそんなに経たないみたいやから。また少し、こっちにいられそう」
送り犬はなにか言いかけたように喉を鳴らし、けれど何も言わなかった。
「ミカヅキ?」
呼びかけても、返事はなかった。金色の目が、じっと千春を見つめている。
「……また私が来て、困っちゃった?」
「違う」
間を置かずに返ってきた。
千春は少しだけ目を丸くする。
「そっか」
送り犬は、なおも何か言いたそうに口を開きかけた。けれど、結局それ以上は何も言わなかった。
困っていない、と言ったのに、どこか困ったような目をしている。
千春には、その理由まではわからなかった。
「ちゃんと、帰るから……それまでまた一緒にいてもいい?」
返事の代わりにか、送り犬の尾がゆっくりと揺れた。
「行くぞ」
送り犬は身を翻す。
千春も立ち上がり、湿った地面を踏み出した。背中のリュックが揺れる。その重さまで、今は少し嬉しかった。




