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見知らぬ男



 住処へ着くと、千春はリュックを下ろした。古びた床板の上に、持ってきたものを並べていく。


「今日は、いろいろ持ってきちゃった」


 送り犬は並べられたものではなく、ひとつひとつを説明する千春のことをじっと見ていた。


「これは、タオルケット。寒くはなかったんだけど、身体にかけるものがあると、なんとなく安心するから」


 千春はタオルケットを広げた。淡いパステルカラーのそれは、一人暮らしを始めたときに買ったものだった。


「ここで使ってもいい?」


「好きにしろ」


「ありがとう」


「礼を言うな」


「はいはい」


 数日ぶりだからか、いつものやり取りが妙に嬉しい。


 高窓から差し込む日差しは柔らかく、日暮れはまだ先に思えた。

 それなのに、千春は妙に眠かった。こちらに来るためにシフトを代わってもらい、バイトに行った直後だった。課題と家事も済ませてきた。

 送り犬と会えて、安心したら疲れが身体に広がった。


「ちょっと、寝てていい?」


「そうしろ」


「そうする」


 千春はあくびをしながら、クッションを床の上に置いた。横になって、タオルケットに包まると、マットレスや布団があるわけではないのに、それだけで今までよりずっと寝心地がよかった。


「わ、すごい。文明を感じる」


 思わずそう呟く。

 送り犬は少し離れたところで黒い体を伏せた。


「こっち来ないの?」


「寒いのか」


「そうじゃないけど……こっちきて寝ないの」


 送り犬は動かなかった。


「ミカヅキ」


 呼ぶと、耳がぴくりと動く。

 送り犬はゆっくり立ち上がった。


 千春の隣まで来て、少しだけ迷うように立つ。タオルケットに触れない場所を選ぶようにして伏せた。


 遠慮してるのかな。そう思うといじらしくて、可愛かった。千春は少し笑ってしまう。

 横になったままタオルケットを持ち上げて「こっち」と示す。


「ミカヅキ、おいで」


 もう一度呼びかける。


 ためらいがちに、送り犬がすぐ隣へ身体を寄せた。


 タオルケットをふわりとかけてやる。


「千春の匂いがする」


「ちゃんと洗ってるよ」


 金色の目と、目が合う。分け合う一枚のタオルケットが、互いの呼吸と体温を伝えているみたいだった。


「やっぱり、落ち着く」


「落ち着く?」


「うん。ミカヅキが近くにいると、いいなって」


 送り犬は、少しだけ目を細めた。千春も笑う。

 そのまま、しばらく見つめ合っていた。


 外の光が、少しずつ薄れていく。

 住処の中に、夜が満ち始める。


 まぶたが、ゆっくり重くなる。

 閉じかけた視界の端で、何かが淡く光った。

 送り犬の黒い毛並みだった。


「え」


 千春は身体を起こしかけて、中途半端な姿勢で止まった。


 光は、月明かりのようにぼんやりしていた。黒い毛並みを縁取るように覆い、輪郭をほどくように揺れている。


「ミカヅキ?」


 呼ぶと、送り犬は落ち着いた声を返した。


「ああ。またか」


「また?」


 聞き返す間もなかった。


 黒い毛が光の中へ溶けていく。大きな獣の輪郭が組み替わるように変わっていく。


 光が収まったとき、千春の隣にいたのは、黒い犬ではなかった。


 ひとりの男だった。


 黒い髪の間から立ち上がる、獣の耳。

 夜を切り取ったような黒い衣。

 そこから覗く、人の手足。


 ゆっくりと男の瞼が持ち上がる。

 見知らぬ男の顔に、知っている金色があった。


 千春は口を開いたまま、声が出なかった。


 男は上体を起こすと、自分の手を見ていた。握る、開くを繰り返す。自分の身体を確かめているみたいに。


「見慣れない」


 男の口から落ちたのは、送り犬の声だった。

 低くて、静かな、いつもの声。


 千春はようやく息を吸った。


「おくり、いぬ?」


 言いながら、千春は反射的に後ろへ下がった。

 タオルケットが足に絡むのにも構わず、壁が背中につくまで後退る。


 こちらを見る男の目が驚いたように、少しだけ見開かれる。


「送り犬なの?」


 もう一度問う。


「……山の神に、術をかけられた。夜は、この形になる」


「夜は……このかたち……」


 千春は言葉を繰り返す。


 頭が追いつかなかった。


 声も。話し方も。耳も、尻尾も。

 送り犬だとわかる。

 わかるのに、身体が勝手に強張ってしかたがなかった。


 ついさっきまで、送り犬のすぐそばで横になっていた。タオルケットを分け合って。目を合わせて呼吸を聞いて。近くにいると落ち着くと思った。


 けれど、人の形になると──同じ距離ではいられない。


 金色の目が伏せられる。


「……この姿では、かえって怖いのか」


「あっ、ごめん。違うの」


 慌てて首を横に振る。


「あのね、怖いとかじゃなくて……えっと……その」


 送り犬は何も言わなかった。

 でも、人の顔は、表情が読めてしまう。


 犬の姿のときは、耳や尾や目の動きでなんとなくわかった気になっていた。けれど、今は、伏せられた目元や、わずかに引かれた口元が、はっきりと悲しそうに見えた。


「本当に、違うの。びっくりしただけ。ごめん……怖くない」


 言えば言うほど自分でも白々しく聞こえた。それでも、違うと繰り返すしかできなかった。


「そうか」


 送り犬はそう言った。

 それだけだった。


 その声が遠く聞こえるのに、千春は近づこうとして、できなかった。


 互いに座ったまま、しばらく何も言わなかった。

 気まずさが、住処の中にゆっくり広がっていく。


「千春」


「あ、はい」


 顔を上げかけて、直視できずに千春は答えた。


 送り犬は「もう寝ろ」とだけ言うと立ち上がり、千春から離れた場所に腰を下ろしたらしかった。


「……うん。おやすみ、ミカヅキ」


 千春は再びタオルケットをかけて横になった。


 今度は、送り犬のほうを向けなかった。仰向けになり、古い天井を見上げる。心臓がまだ速い。


 送り犬も、離れたところで横になったらしい。

 黒い衣の擦れる音がして、それから静かになる。


 タオルケットにこもるぬくもりは、どこか頼りない。

 千春は目を閉じた。


 おいで。

 さっきは言えた。

 犬の姿なら、言えたのに。


 しばらくして、おずおずと目を開ける。暗がりの中に、横たわっている男の姿を見つける。


 千春はもう一度、目を閉じた。


 同じ屋根の下で、自分とは別の人の呼吸がある。


 心臓はまだ、落ち着く気配がない。

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