犬の姿だと
目を覚ますと、隣には黒い犬がいた。
千春はしばらく、瞬きを忘れてその姿を見ていた。
黒い毛並み。長い尾。伏せられた獣の身体。少し高い位置にある立った耳。
いつもの送り犬だった。
ほっとした。
ほっとしてしまったことに、胸が少し痛んだ。
「……おはよう」
千春が小さく言うと、送り犬がこちらを向く。
「起きたか」
「うん」
声も、いつも通りだった。
低くて、静かで、落ち着く声。
昨夜もその声は同じだった。
金色の瞳も同じだった。
送り犬であることも、変わらなかったはずだ。
それなのに、千春は離れた。飛び退くように、距離を取って。あんな、悲しい顔をさせてしまった。
千春は身体を起こし、タオルケットを膝にかけたまま送り犬のほうを向く。
「昨日のことなんだけど」
送り犬が、じっと千春を見た。まっすぐ見つめられて、一瞬だけ言葉が詰まる。
でも、言わなければいけないと思った。
「怖かったわけじゃないの」
千春は息を吸った。
「……びっくりはしたんだけど。でも、送り犬のことが怖いわけじゃない」
送り犬は黙っている。
理解しているのか、いないのかはわからない。
千春は言葉を選びながら続けた。
「嫌だったわけでもない」
「……嫌ではない」
「うん。嫌じゃないよ」
「千春は離れた」
「う」
痛いところを突かれて、千春は少しだけ肩をすくめた。
「それは、そうなんやけど……」
「あの形では、近づけない。触れられない。違うか」
責めるでもなく、事実を並べるような声だった。はっきりそう言われると、胸がぎゅっとなって苦しかった。
「無理して近付く必要も、触れる必要もない」
送り犬にとっては、そこがいちばん大きかったのかもしれないと思った。
人の姿になった途端、おいでと呼んだはずの千春が離れたのだから。
「今は、近づけるし、触れるよ」
「この形だからだ」
「……」
否定はできない。
千春は黒い毛並みを撫でながら、少し俯く。
「犬の姿だと安心するし、かわいいと思う。でも、人の姿だと……その。男の人だ、って思っちゃうから」
「男」
「そう。だから、男女っていうか……そういうふうに意識しちゃうの」
「そういうふう?」
送り犬が、聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返す。
千春は言葉をあれこれ思い浮かべてみたが、送り犬に対してうまく説明できる気がしなかった。
「うーん。えっと……心の準備がいる、みたいな感じ」
「準備」
「うん。急に近いと、びっくりするの。昨日も、送り犬が嫌だったんじゃなくて、急に男の人が隣にいたから、身体がびっくりしただけ」
「身体が」
「そう。頭では送り犬だってわかってるのに、身体が勝手に固まっちゃって……」
言えば言うほど、複雑になっていく気がした。
送り犬は黙った。わかっていないかもしれない。でも、聞いてはくれている。
「恥ずかしい、って言ったほうが近いかも」
送り犬は首を傾げる。
「えっと……恥ずかしいっていうのは、落ち着かなくなったり、どうしていいかわからなくなったりすること、かな」
「それは悪いものなのか」
「悪いものではない、と思う。たぶん」
「だが、近付けないし、触れられなくなる」
「う……」
そこへ戻ってきてしまう。
千春は両手で送り犬の顔を包むようにして、金色の目を見た。
「嫌だから触れられないんじゃない」
ゆっくり言う。
「怖いからでもない。ミカヅキ、覚えて」
送り犬の耳が、少しだけ動く。
「ただ、びっくりしただけ。……でも、ゆっくりなら、大丈夫だと思う」
「ゆっくりなら」
送り犬が繰り返した。
千春は小さく頷く。
「たぶん。ううん、大丈夫になりたい」
口にしてから、自分で少し気になった。
大丈夫になりたい。
それは──?
でも、まだうまく言葉にはならない。
ただ、怖くないのは本当だった。見た目が変わっても、送り犬は送り犬のままだ。
この目も、低い声も、何も変わらない。
ただ、見慣れていないだけ。きっと、そう。
「だから、昨日のこと、嫌だったとは思わないで」
千春は目を合わせたまま続ける。
「時間、かかるかもしれないけど。私、ちゃんと慣れるから」
送り犬はしばらく千春を見ていた。
それから、低く言う。
「覚えた」
千春はほっと息を吐いて、笑った。
「うん。それは、しっかり覚えて」
黒い頭を撫でると、送り犬は目を細めた。
◇
茱萸の木のある場所まで歩くことにした。
昨日の夜のことを話したあと、住処の中にいるのが少しだけ気まずくなったからだ。
外へ出ると、山は明るかった。
青みがかった空の下、木々の緑は濃く、視界いっぱいに季節のばらばらな花が咲いていた。
千春は茱萸の実をひとつ摘んだ。
赤くて、小さくて、つやつやしたそれを口に入れる。
「やっぱり酸っぱいね」
笑ってそう言うと、送り犬はまた千春の顔をじっと見ていた。
「なに?」
「食べているのを見ている」
「またそれ。見てて楽しい?」
「わからない」
「そっか」
送り犬の尾が少しだけ揺れる。
昨夜のことが遠くなった気がした。
千春はしゃがみ込み、送り犬の首元を撫でた。
「ミカヅキ」
呼びかけながら、千春の視線は送り犬の耳へ向いた。
そしてやっぱり、と確かめる。
名前を呼ぶと、送り犬の耳がいつもぴくりと動く。
その反応が可愛くて好きだった。
「なんだ」
「呼んだだけ」
自然と口元が緩む。
そうして硬い毛並みの上に、何度か手を滑らせたときだった。
「千春は、“かわいい”な」
千春は撫でる手を止めた。
「えっ……私?」
「違うのか」
「違うっていうか……送り犬から見たら、私が可愛いの?」
「そう言った」
千春は頬が熱くなっていくのを感じた。
どうしていいかわからなくなって、落ち着かない手が毛並みの上を往復する。これでは撫でているのか、ぐしゃぐしゃにしているのかよくわからない。
「そうかな……そう? なんか、照れるね」
「照れる」
「あ、えっと……恥ずかしいに似てるんだけど、もっと嬉しい気持ちかな。送り犬にそんなふうに言ってもらえるなんて、思ってなかったから」
説明するうちに、もっと頬が熱くなった。
千春は送り犬の身体から手を引き、その手でぱたぱたと火照った顔を扇ぐ。
金色の瞳が、まっすぐに千春を見てもう一度言った。
「千春はかわいい」
言い終わると、送り犬はそっと身体を寄せてきた。
黒い頭をしゃがんだ千春の膝に乗せ、立っていた耳をほんの少し伏せる。
え、これは。
ひょっとして──
「……撫でてほしいの?」
送り犬は答えない。
ただ、一度だけ、ちらりと千春を見上げてから目を伏せた。
これは──
これは、ちょっと可愛すぎる……。
千春は黒い頭を抱き込むように身を屈めた。
顎下に犬の額の短い毛が触れる。
それがくすぐったかったからか、胸の内がくすぐったかったからか、わからないまま千春は息を吐いた。
送り犬は可愛い。
そう思ったのと同時に、送り犬が言った「千春は“かわいい”」という声を思い出す。
好きだなと思うこと。
心があたたかくなること。
こうして抱きしめたくなること。
そういうことを可愛いというのだと、以前、千春は送り犬に教えた。
送り犬も、そんな意味で千春に可愛いと言ったのか。
そう考えると、落ち着かない気持ちになった。
しばらくその姿勢のまま、顔を上げることができなかった。




