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千春がよしというまで




 夕方になり、住処へ戻ると、自然と口数が減った。

 送り犬は入口の近くに伏せている。


 高窓を見上げると、空の色が薄暗くなっているのがわかった。


 千春は持ってきたクッションに腰を下ろし、タオルケットを膝にかけて黙っていた。

 もうすぐだ、と思った。夜になれば、送り犬は人の姿になる。昨日のように。


 自分の手を見下ろす。

 昼間は撫でられた。犬の姿なら触れられる。


 でも人の姿になると、きっとまた身体が固まってしまう。怖いわけでも嫌なわけでもないのに。


 大丈夫になりたい。

 その気持ちは嘘じゃない。


 やがて、送り犬の黒い毛並みが淡く光り始めた。

 千春は息を止める。


 身体の輪郭が光に包みこまれ、耳と尾を残し、姿が変わっていく。


 光が収まったとき、そこには黒い髪の男がいた。


 瞼が上がる。金色の目が、千春を見た。


「千春」


 低い声。

 同じ声。


 それなのに千春の胸が、どくんと鳴った。


「うん」


 千春はタオルケットを握りしめる。膝の上で布がくしゃりと擦れた。

 大丈夫、大丈夫。あれは送り犬。

 そう言い聞かせるのに、身体はすでに強張っていた。


 送り犬は立ち上がり、室内の一段高くなった床に腰掛けた。


「近づかない」


 送り犬の低い声が落ちた。


「え?」


「千春が、よしと言うまで待つ」


 私が、ゆっくりなら、と言ったから。

 

 千春はひとりでに頷いた。

 まず、顔を見ることに慣れよう──そう思って持ち上げた視線は、たちまち泳いだ。

 顔立ちを見るとどうにも落ち着かなかった。かといって肩のあたりへ視線を逃がしても、黒い衣の下に人の身体があるのだと思ってしまって、やっぱり落ち着かない。

 そうしているうちにふと目が合って、胸が跳ねた勢いのまま、ぱっと目を逸らしてしまった。


「……ごめん」


「謝るな。見たくなければ、見なくていい」


「いや、どちらかと言うと、見たいんやけど……見ると、その……落ち着かない」


「“恥ずかしい”か」


「そう、たぶん」


 教えたばかりの言葉を使われて、張っていた息がほんの少しゆるんだ。


 千春はもう一度、顔を上げた。

 今度は、少しだけ長く見ていられた。


 見慣れない男の人。

 でも、金色の瞳は同じ。変わらず、綺麗だと思う。


 怖くない。


 千春は、ゆっくり息を吐いた。


「ミカヅキ」


「なんだ」


「もう少し、こっちに座って」


 千春は古い床板を、ぽんぽんと軽く叩いた。送り犬は言われた通りに近付き、向かい合うように座る。


 千春は深呼吸をした。でも、肺に空気が入る心地はしなかった。早鐘を打つ心臓のほうが、ずっと主張が強かったからかもしれない。


「千春」


「あ、はい!」


 呼ばれ、なぜか咄嗟に背すじを伸ばす。同時に、送り犬が頭を下げた。黒い耳も、わずかに伏せられる。


 あ──、これ。

 昼間、膝に黒い頭を乗せてきたときと同じだ。


 そう思ったときには、千春はもう手を伸ばしていた。


 黒い髪に触れる。


 さらり、とした感触があった。

 毛並みとは違う柔らかさ。


 指を入れると、細い髪がするすると分かれる。


 送り犬はそのまま動かない。

 ただ、千春の手を受け入れて、頭を下げたままで黙っていた。


 しばらくそうして梳くように撫でていると、伏せられていた送り犬のまつ毛が、ふいに持ち上がった。


 途端に千春の手つきはぎこちなくなった。


 頭を撫でている。男の人の頭を。


 でも、この人は送り犬だ。

 

「ミカヅキ」


 呼ぶと、手の直ぐ側で立った耳がぴくりと反応した。


 ──やっぱり、送り犬だ。


 千春は膝立ちになった。

 髪を撫でていた手を滑らせて、犬の耳の付け根のあたりに触れる。男の肩がわずかに揺れた。


「あ、嫌だった?」


「嫌ではない」


「びっくりした?」


「……嫌ではない」


 嫌ではないのなら、と千春はそのまま触らせてもらうことにした。

 細かい毛が覆った耳の先が、触れるたびに小さく震えるのがわかる。力を入れすぎないように、千春は指の腹でゆっくりと耳の付け根を撫でた。


 送り犬の顔をちらりと見る。

 金色の目は半分ほど伏せられていた。気持ちよさそう、と思ってから、千春はまた少し恥ずかしくなった。


 手を引こうとしたとき、男の身体がわずかに身じろいだ。


「どうしたの?」


 返事もしないまま、送り犬は追うように頭を上げて千春の手に押し当てた。そのまま指の隙間に耳の付け根が収まるよう、器用に位置を調節する。


「千春の手は、あたたかい」

 

 落ちた声は、いつもより柔らかく聞こえた。

 指先にまで熱が集まる。


「そう、かな」


「そうだ」


 目を上げ、まっすぐそう言われて、返す言葉に困った。心臓の打ち方が、ほんのすこし変わった気がした。


 そのまま会話が途切れても、千春はしばらく送り犬の頭に触れていた。


 外は、いつの間にか夜が深くなっていた。カラスの羽音がときおり聞こえる。


「そろそろ、寝ようか」


 そう言って、千春はそっと手を引いた。送り犬も、今度は追ってこなかった。


 触れない距離で横になる。


 少し悩んでから、千春はタオルケットを横に広げた。端だけが送り犬の身体にかかる。布に収まりきらない手足の先まで熱が留まっているようで、寒さはちっとも感じなかった。


「おやすみ、ミカヅキ」


 そう言うと、送り犬は金色の目を細めた。


 それが、犬の姿のときと同じだったから。

 千春はその夜、眠るまで目を逸らさなかった。



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