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「待て」


 千春がそう言うと、送り犬はぴたりと動きを止めた。

 茱萸の木の下、黒い尾だけが地面すれすれでゆっくり揺れている。


 周囲には、相変わらず季節のばらばらな花が咲いていた。桜の花びらが舞うそばで、赤く色づいた葉が揺れる。


 千春は走って送り犬から離れると、藪の影に隠れるように屈んで進み、木のそばに身を隠した。


「よし」


 言った直後、迷いのない足音が聞こえる。

 た、たん。た、たん。待っていた時間を取り戻すみたいに、見つかるのはあっという間だった。

 はじめから千春がそこにいるとわかっていたように、送り犬は木の幹を覗き込む。


「早いなあ。送り犬には簡単すぎたね」


 笑いながらしゃがみ込み、近付いてくる黒い頭を撫でる。硬い毛並みが、指の下に沈んだ。


 千春の指先には、まだ、昨夜の感触が残っている。

 指の隙間をほどけていく、人の髪。するりとしていて、でも地肌の熱が犬の毛越しよりも近い気がした。


 思い出しただけで、頬に熱が上る。


「……あ〜」


 千春は誤魔化すように声を出した。うめき声みたいな、変な声だと自分で思った。

 勢いで送り犬の耳の後ろをすりすりと撫でる。


「なんだ」


「なんでもないよ」


 そう返すと、送り犬は不思議そうに首を傾げた。

 いつも通りの仕草に、千春は少し息を吐く。


 昼の光の中、犬の姿をした送り犬はやっぱり触れやすかった。近くにいても、胸は変に騒がない。

 昨夜、同じ金色の目を見てあれほど落ち着かなかったのが、嘘みたいに。


「お手は?」


 千春は頬の熱を誤魔化すように片手を差し出した。


「お手、覚えてる?」


 送り犬は千春の手を見た。

 それから片方の前脚を持ち上げる。


 大きな黒い前脚が、千春の手のひらに乗った。

 「いい子だね」と褒めながら、千春はそれを両手で支えた。

 薄く被毛に覆われた足先は、骨の形までわかる気がした。力を抜いて預けられているからか、ずしりと重い。


 下から覗き込むようにして、足の裏に触れる。

 黒い革のようなそこは、少し湿っていて、指先で押すと確かな弾力があった。

 爪の先は鋭い。でも、送り犬は千春の手にそれが当たらないよう、足の角度を変えてくれているらしかった。


「やっぱり、ここ、ぷにぷにしてないね。山道を歩くからかな」


 肉球の縁をなぞると、手の上に載せた足先がわずかに揺れた。


「くすぐったかった?」


 顔を上げると、送り犬はじっとこちらを見ていた。


「千春は、よく触る」


「あ」


 言われて、千春は手を止めた。


 頭を撫でる。背中を撫でる。耳に触れる。前脚を取って、肉球まで触る。

 たしかに、いつも無遠慮に触れている気がする。


「ごめん。可愛くて、つい。嫌?」


「謝るな。嫌ではない」


「そっか」


 ほっとして、千春は笑った。送り犬は前脚を引かなかった。


「でも、嫌なときは言ってね」


「嫌なとき」


「うん。嫌とか、だめとか言ってくれたらやめるから」


「決まりか」


 決まり。千春は少しだけ考えた。


「そう、かな。だめって言われたら、やめる。そういう決まり」


 金色の瞳が、ゆっくり瞬く。


「その決まりは、千春もか」


「うん?」


「千春も、嫌ならそう言うのか」


「そうだね。私も、嫌なときはそう言うと思う」


「わかった」


「うん。じゃあ、お手はおしまい」


 そう言うと、送り犬は足を降ろした。


 最近、つい触りすぎているかもと反省したのもつかの間、千春の手はまた伸びた。送り犬の頭を軽く撫でる。


「ミカヅキも、くっつきたくなったら来ていいよ」


 鼻先を寄せたり、肩に押しつけてきたり。

 あ、そうだ。昨日、膝に頭を乗せてきたのも可愛かった。思い出すだけで、口元が緩む。


 送り犬の低い声が落ちた。


「人の姿でもか」


「えっ」


 千春は固まった。


 胸の奥が、また落ち着かなくなった。


「あ、えっと」


 送り犬は黙っていた。


 そうして待っている。

 答えを急かすでもなく、ただ千春を見て。


 急に近いと、びっくりする。

 でも、怖いわけではない。

 嫌なわけでもない。

 昨日は頭に触れられた。


 それに、「大丈夫になりたい」そう言ったのは、自分だ。


「……ゆっくりなら、たぶん、大丈夫」


「ゆっくりなら」


「うん」


「千春が嫌と言えばやめる」


「うん。嫌なときは、嫌って言うね」


「千春がよしと言うまで待つ」


「うん。……うん? そう、だね」


 その言い方になにか小さく引っかかる気がした。

 でも、間違ってはいないとも思う。


「覚えた」


 千春が考えを巡らしているうちに、送り犬は立ち上がりながら言った。尻尾がゆっくりと土を払う。


 黒い頭をもう一度撫でると、送り犬は目を細めた。

 やっぱり、可愛かった。


 だから千春は、少しだけ油断していた。


 自分の言ったことを、送り犬がどれくらい真面目に覚えるのか。そのことを、名前を教えたころから知っていたはずなのに。


 山の端が暗くなる。

 夜はもうすぐそこだ。


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