待っていれば、よしがある
夜が満ち、送り犬は人の姿になった。
目の前に立たれても、千春はもう、息を止めなかった。顔も、姿も、今までで一番、ちゃんと見ることができた。
もう、大丈夫。頭の中でそう繰り返すのに、それでも目の前の男はまだ見慣れない。
けれど、暗がりの中でこちらを見ているその金色の目を、千春はよく知っている。
「千春」
低くて静かなその声も。間を取るようなその呼び方も。
知っている。
黒い髪に、金色の目。
頭の上には獣の耳が立ち、毛並みのよい尾が床の上をゆっくり払っている。
どう見ても、送り犬だ。
でも、知っている送り犬ではない。
その人影が、一歩近づく。
「送り犬……待って」
千春はその場で立ち上がり、反射的にそう言った。
送り犬は、ぴたりと止まる。
「ちょっとだけ、待ってね」
「わかった」
すぐに返事があった。
人影はその場から一歩も動かない。
「これは、“待て”だな」
待て?
「そうじゃないんやけど……ちょっと、心の準備が」
送り犬は金色の目でじっと千春を見据える。
「待っている」
「うん」
「待っていれば、“よし”がある。そうだったな」
「え?」
「千春が、そう言っていた」
あ。
待てと言われたら、動かずに待つ。
よしは、動いてもいいよってこと。
たしかに、そう教えた。
──私が、教えた。
「……それは、そうなんやけど」
「千春。“よし”はまだか」
「……それは、待ててないかも」
送り犬は小さく首を傾げた。不満なのか、ただ言葉を聞いているだけなのか、千春にはわからなかった。
怖いわけではない。
怖いわけでは、ないのだ。
ただ──
「千春」
もう一度名前を呼ばれる。
「……よし」
促されるまま、掠れた声が落ちた。
送り犬が近づく。一歩分の距離を残して向き合った。
人の姿になった送り犬は、千春よりずっと背が高い。こちらを見下ろす金色の瞳は、変わらず綺麗なのに──今はそう思うだけでは済まない気がした。
胸の鼓動が痛いくらい速くなって、千春は自然と視線を逸らした。
「千春」
「うん。なに?」
顔を見ないまま答える。
「“お手”だ」
「なんて?」
驚いて顔を上げる。
送り犬は静かに手を差し出していた。
犬の前脚ではない、人の手だった。
「お手?」
「昼にもやった」
「やったけど……」
千春は差し出された手を見つめた。
それから、送り犬の顔を見上げる。
「千春、お手」
自分が手を乗せる側になるのは、なんだかちょっとおかしかった。軽く笑いながら、千春はそっと手を伸ばす。
「はい、お手」
送り犬の手のひらに、自分の手を乗せる。
触れた肌から体温が移ってきて、すぐに息をのむことになった。
「いい子だな」
耳に触れるようにその言葉が落ちてきた。
──それを、自分に言われる日がくるなんて。
たちまち耳の奥が、じんと熱くなる。
気恥ずかしさから手を引こうとしたときだった。
「千春の手は、小さい」
そう言って、お手の形のまま乗っていた千春の手を、送り犬が自分の手のひらと向かい合わせるように重ねた。
「そう、かな」
送り犬の手は大きかった。犬の前脚とは違う。被毛も肉球もなく、温度が近い。
指も長く、手のひらも厚くて、節々が骨ばっていた。
少し硬い指先が、千春の指の腹をかすめる。
そうして指先から関節のくぼみに触れ、指の側面をなぞるようにゆっくりと滑っていく。
くすぐったい、と思ったときには、指と指の隙間に入り込まれていた。
絡めた指の間を、送り犬の指が確かめるように動く。
ゆるく開いたり閉じたりするたびに、互いの第二関節が触れ、汗ばんだ指の股に熱が馴染んでいく。
小さく跳ねる千春の指を気にも留めず、送り犬は何度も深く手を絡め直した。
金色の目が、ときおり様子をうかがうように千春の手と顔を見比べた。
千春は何も言えなかった。どうしたらいいのかも、わからなかった。
──手って、こんなに感覚があったっけ。
やがて、絡めていた指がゆっくりとほどかれる。千春の肩からようやく力が抜けた。
終わった、と思ったのに──送り犬はそこで手を離さなかった。
今度は千春の右手を両手で包み直し、手のひらを上向きに返す。無骨な親指が、千春の手のひらを辿り、指の付け根を確かめていく。
千春は唇を引き結んだ。
声を出したら、変な音になりそうだった。
昼間、送り犬の前脚を好きなように触ったことを思い出す。肉球を押し、なぞり、柔らかさを確かめた。
あのとき黙って千春に触らせていた送り犬も、こういう気持ちだったのだろうか。
いや、きっと違う。
送り犬は、こんなふうに息の仕方がわからなくなったりはしなかったはずだ。
静かな部屋に、自分の心臓の音が響いてしまうんじゃないかと思った。対して、送り犬は変わらず涼しい顔をしている。その落差に、千春は余計に落ち着かなくなった。
「ま、待って」
送り犬の手がぴたりと止まる。
千春も固まった。
「あ……違う。今のは、待てじゃなくて」
「待てではない」
「うん。えっと……嫌とかでもなくて」
「嫌ではない」
「ただ、くすぐったくて……」
「では、構わないのか」
「え」
言葉に詰まった。
待てと言えば、よしを待たれる。
待てじゃないと言えば、構わないのかと返される。
だめと言えばいいのか。
けれど、だめだとするなら自分のなかに理由ができてしまう。
この触れ合いに、名前をつけることになる気がした。
そのとき、送り犬の親指が千春の手首の内側へするりと滑った。
「っ」
喉の奥で小さく息が引っかかる。うまく吸えないまま、浅い息がかすかに漏れた。
送り犬はただ静かにそれを見ている。
「ミカヅキ……っ」
千春は、やっとのことで言った。
「……今日は、ここまで」
「わかった」
送り犬は頷き、手を離す。
あっけないほど、すぐに。
そのまま両手を身体の脇に下げ、続きを求める気配もない。
千春は息を吐いた。ほっとした。
ほっとしたはずなのに、一瞬撫でられただけの手首の内側から意識が逸れなかった。皮膚の下に、まだ熱が燻っている気がした。
「千春」
呼びかけられて顔を上げる。送り犬は少しだけ身を屈め、静かに頭を下げていた。
「え」
黒い耳がわずかに伏せられ、ようやくその意図を察する。
「あ……撫でてほしいの?」
待て。よし。
ちゃんとできたら、褒めてもらったり、撫でてもらったりする──それもまた、自分が教えたことだった。
千春は、つま先立ちになり、まだ熱っぽい手を黒い髪に伸ばした。
「……いい子だね、ミカヅキ」
名前を呼んで褒めると、千春の手のそばで伏せられていた耳がぴくりと揺れた。
大きくて、見慣れない男の人なのに。
その仕草はやっぱり可愛いかもしれない、と千春は思った。




