表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/30

待っていれば、よしがある

 

 夜が満ち、送り犬は人の姿になった。

 目の前に立たれても、千春はもう、息を止めなかった。顔も、姿も、今までで一番、ちゃんと見ることができた。


 もう、大丈夫。頭の中でそう繰り返すのに、それでも目の前の男はまだ見慣れない。


 けれど、暗がりの中でこちらを見ているその金色の目を、千春はよく知っている。


「千春」


 低くて静かなその声も。間を取るようなその呼び方も。

 知っている。

 黒い髪に、金色の目。

 頭の上には獣の耳が立ち、毛並みのよい尾が床の上をゆっくり払っている。


 どう見ても、送り犬だ。

 でも、知っている送り犬ではない。


 その人影が、一歩近づく。


「送り犬……待って」


 千春はその場で立ち上がり、反射的にそう言った。

 送り犬は、ぴたりと止まる。


「ちょっとだけ、待ってね」


「わかった」


 すぐに返事があった。

 人影はその場から一歩も動かない。

 

「これは、“待て”だな」


 待て?


「そうじゃないんやけど……ちょっと、心の準備が」


 送り犬は金色の目でじっと千春を見据える。


「待っている」


「うん」


「待っていれば、“よし”がある。そうだったな」


「え?」


「千春が、そう言っていた」


 あ。

 待てと言われたら、動かずに待つ。

 よしは、動いてもいいよってこと。

 

 たしかに、そう教えた。

 ──私が、教えた。


「……それは、そうなんやけど」


「千春。“よし”はまだか」


「……それは、待ててないかも」


 送り犬は小さく首を傾げた。不満なのか、ただ言葉を聞いているだけなのか、千春にはわからなかった。


 怖いわけではない。

 怖いわけでは、ないのだ。


 ただ──


「千春」


 もう一度名前を呼ばれる。


「……よし」


 促されるまま、掠れた声が落ちた。


 送り犬が近づく。一歩分の距離を残して向き合った。

 人の姿になった送り犬は、千春よりずっと背が高い。こちらを見下ろす金色の瞳は、変わらず綺麗なのに──今はそう思うだけでは済まない気がした。

 胸の鼓動が痛いくらい速くなって、千春は自然と視線を逸らした。


「千春」


「うん。なに?」


 顔を見ないまま答える。


「“お手”だ」


「なんて?」


 驚いて顔を上げる。

 送り犬は静かに手を差し出していた。

 犬の前脚ではない、人の手だった。


「お手?」


「昼にもやった」


「やったけど……」


 千春は差し出された手を見つめた。

 それから、送り犬の顔を見上げる。


「千春、お手」


 自分が手を乗せる側になるのは、なんだかちょっとおかしかった。軽く笑いながら、千春はそっと手を伸ばす。


「はい、お手」


 送り犬の手のひらに、自分の手を乗せる。

 触れた肌から体温が移ってきて、すぐに息をのむことになった。


「いい子だな」


 耳に触れるようにその言葉が落ちてきた。

 ──それを、自分に言われる日がくるなんて。

 たちまち耳の奥が、じんと熱くなる。


 気恥ずかしさから手を引こうとしたときだった。


「千春の手は、小さい」


 そう言って、お手の形のまま乗っていた千春の手を、送り犬が自分の手のひらと向かい合わせるように重ねた。


「そう、かな」


 送り犬の手は大きかった。犬の前脚とは違う。被毛も肉球もなく、温度が近い。

 指も長く、手のひらも厚くて、節々が骨ばっていた。


 少し硬い指先が、千春の指の腹をかすめる。

 そうして指先から関節のくぼみに触れ、指の側面をなぞるようにゆっくりと滑っていく。

 くすぐったい、と思ったときには、指と指の隙間に入り込まれていた。


 絡めた指の間を、送り犬の指が確かめるように動く。

 ゆるく開いたり閉じたりするたびに、互いの第二関節が触れ、汗ばんだ指の股に熱が馴染んでいく。


 小さく跳ねる千春の指を気にも留めず、送り犬は何度も深く手を絡め直した。


 金色の目が、ときおり様子をうかがうように千春の手と顔を見比べた。

 千春は何も言えなかった。どうしたらいいのかも、わからなかった。

 ──手って、こんなに感覚があったっけ。


 やがて、絡めていた指がゆっくりとほどかれる。千春の肩からようやく力が抜けた。


 終わった、と思ったのに──送り犬はそこで手を離さなかった。


 今度は千春の右手を両手で包み直し、手のひらを上向きに返す。無骨な親指が、千春の手のひらを辿り、指の付け根を確かめていく。


 千春は唇を引き結んだ。

 声を出したら、変な音になりそうだった。 


 昼間、送り犬の前脚を好きなように触ったことを思い出す。肉球を押し、なぞり、柔らかさを確かめた。

 あのとき黙って千春に触らせていた送り犬も、こういう気持ちだったのだろうか。

 いや、きっと違う。

 送り犬は、こんなふうに息の仕方がわからなくなったりはしなかったはずだ。


 静かな部屋に、自分の心臓の音が響いてしまうんじゃないかと思った。対して、送り犬は変わらず涼しい顔をしている。その落差に、千春は余計に落ち着かなくなった。

 

「ま、待って」


 送り犬の手がぴたりと止まる。

 千春も固まった。


「あ……違う。今のは、待てじゃなくて」


「待てではない」


「うん。えっと……嫌とかでもなくて」


「嫌ではない」


「ただ、くすぐったくて……」


「では、構わないのか」


「え」


 言葉に詰まった。


 待てと言えば、よしを待たれる。

 待てじゃないと言えば、構わないのかと返される。


 だめと言えばいいのか。

 けれど、だめだとするなら自分のなかに理由ができてしまう。

 この触れ合いに、名前をつけることになる気がした。


 そのとき、送り犬の親指が千春の手首の内側へするりと滑った。


「っ」


 喉の奥で小さく息が引っかかる。うまく吸えないまま、浅い息がかすかに漏れた。

 送り犬はただ静かにそれを見ている。


「ミカヅキ……っ」


 千春は、やっとのことで言った。


「……今日は、ここまで」


「わかった」


 送り犬は頷き、手を離す。

 あっけないほど、すぐに。


 そのまま両手を身体の脇に下げ、続きを求める気配もない。


 千春は息を吐いた。ほっとした。

 ほっとしたはずなのに、一瞬撫でられただけの手首の内側から意識が逸れなかった。皮膚の下に、まだ熱が燻っている気がした。


「千春」


 呼びかけられて顔を上げる。送り犬は少しだけ身を屈め、静かに頭を下げていた。


「え」


 黒い耳がわずかに伏せられ、ようやくその意図を察する。


「あ……撫でてほしいの?」


 待て。よし。

 ちゃんとできたら、褒めてもらったり、撫でてもらったりする──それもまた、自分が教えたことだった。


 千春は、つま先立ちになり、まだ熱っぽい手を黒い髪に伸ばした。


「……いい子だね、ミカヅキ」


 名前を呼んで褒めると、千春の手のそばで伏せられていた耳がぴくりと揺れた。


 大きくて、見慣れない男の人なのに。


 その仕草はやっぱり可愛いかもしれない、と千春は思った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ