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二度目の帰り


「これ、ここに置いていってもいい?」


 千春は、タオルケットを軽く畳みながら訊ねた。


「次に来たとき、また使いたいし」


「次」


 送り犬は、言葉を確かめるように繰り返した。


「そう。また来たいから……困る?」


「困らない」


「そっか。良かった。送り犬も、私がいないときに使ってていいよ」


 言いながら、昨夜の手のことが一瞬だけ頭をよぎった。体温や感触まで思い出しそうになり、千春は誤魔化すように無意味に何度もタオルケットを畳み直した。


 送り犬は何も言わず、千春を見ていた。尻尾だけがゆっくりと揺れている。


「ミカヅキ」


「なんだ」


「また、会いに来るね」


 また。そう言えることの嬉しさが、寂しさを少しだけ覆い隠してくれた。


 古びた室内で、クッションとタオルケットのある一角だけが、千春の好きな明るい色をしていた。

 リュックを背負う。飲みきったペットボトルと、持ってきたお菓子の空き袋が入っているだけで、帰りの荷物は軽かった。

 

「道を開いてもらう前に、神様に会いに行かないといけないんだっけ」


 そう言うと、送り犬は目を伏せて耳を後ろに引いた。


「大丈夫だよ。帰るためだし」


 しゃがんで黒い頭を撫でる。硬い毛並みに顔を寄せると、土と木の匂いがした。

 名残惜しくなりそうだった。

 立ち上がり、「行こう」と声をかける。

 住処の外へ出ると、山の空気は澄んでいた。枝の上にいた八咫烏が黒い羽を畳みながら、千春たちを見下ろしている。


「御山の神が、お待ちにございます」




 送り犬を外で待たせ、千春は拝殿に進んだ。

 山の神は、前と同じようにその奥にいた。


「帰るのか、チハル」


「はい。お邪魔しました」


 千春は、なるべく丁寧に頭を下げた。


「すぐ帰るものかと思うておったが、ふふ。此度も何度かこちらで夜を越したな」


 その目は、人の顔色を読む目に見えた。何を言えば千春の表情が動くのか、探しているような、そんな目。


「人の形は、気に入ったか」


 どきりとした。


「……背が高くて、驚きました」


「それだけか」


「初めて見たので」


「ふ。もっと醜男にでもできれば、未練も断てたか。あるいは、おぬしの好みにでもできれば、婚姻に踏み切れたか──」


 諦めろと言っているのか、婚姻しろと言っているのか。山の神の腹の内は見えない。


「まあ、あれ相手にそこまで自由は利かんからな」


 山の神は、そこで言葉を切り、少しだけ口をつぐんだ。


 ──自由が利かない。

 その言葉を頭の中でそっとなぞる。

 神様なのに、送り犬相手には自由が利かない?


「して、どうであった」


「……どう、というと」


「犬との逢瀬じゃ」


 昨日の夜のことを思い出しかけて、千春はすぐそれに蓋をした。


「外を、歩いたりしました。茱萸の実を食べて、あとは少し遊んで」


「遊ぶ……ああ、おぬしが隠れ、犬がすぐに見つけておったな」


 知っているんだ、と思った。


「そうなんです。送り犬相手に隠れるのって難しいですね」


「あれは耳も鼻も利くからな」


「はい」


「して、他は」


 少し急かすような訊き方だった。

 昨日、何があったか。千春が何を言い、送り犬がどんなふうに触れたのか──知っていて聞いているのか、本当に知らないのか。千春にはわからなかった。


「そう、ですね……夜になると暗いので、今度はライトを持ってこようかなと思っています」


 千春は、そこで少しだけ話をずらした。


「山に──送り犬の住処に、私のものを置いておいたりしても構いませんか」


 山の神の目が、細くなる。怒ったわけではなさそうだった。面白がっている顔だ。


「ほう、あの巣に物を置くのか」


 巣。

 嫌な言い方、と思った。

 でも、顔には出さない。


「はい。何度か通うなら、自分の物を置いておけたほうが便利かなって」


「それはよいな。犬は見るたびにおぬしを思い出そう。次の来山で持ってくるがよい。目につくところにでも置いてやれ」


 千春は、頷きかけた口を止めた。

 住処には、すでにタオルケットとクッションを置いてきている。


 ──山の神は、それを知らないのだろうか。


「……七度までは、来てもいいんですよね」


 千春は、なるべく何でもない顔をして訊いた。


「そうじゃ。此度が二度目の帰り道。残りは五度。まあ、その前におぬしが犬に飽きれば、来ぬでもよいぞ」


「そうですね」


 否定しない。否定したくはなる。でも、しない。

 それでも千春は、少しだけ目を上げた。


「でも、今は。また来たいと思っています」


 言い切りすぎないようにした。

 山の神は、「そうか」と楽しげに笑った。

 そして、袖を揺らしながら言う。


「此度の道を開く。犬に送られて帰るがよい」


 足を動かしかけて、千春は止まった。

 聞いていいのかどうか、迷いはあった。それでも口を開く。


「あの。道は……神様にしか開けないんですか」


 拝殿の外で、羽ばたきの音がひとつ、大きく響いた。


「なぜ、それを聞く」


 先ほどまでの楽しげな響きが、少しだけ遠のく。

 千春は、しまった、と思った。踏み込んだことを聞いたのかもしれない。でも、今さら引っ込めるほうが不自然だった。


「……えっと。帰るたびに、神様にお願いしないといけないんだなと思って」


 千春は少しだけ声を落とす。


「お世話になるなぁ、と」


「世話」


「はい。来るときも、帰るときも、ありがとうございます」


 山の神は、しばらく黙っていた。

 その沈黙が、妙に長く感じた。


 千春はじっと待った。伸ばした背すじに嫌な汗が伝う。


 ややあって、山の神は柔らかく笑った。


「ふふ。人間に感謝されるのは心地がよいの」


 千春は、山の神に気づかれないよう小さく息を吐いた。


 けれど、次に落ちてきたのは、鋭い声だった。


「道を開くのは、神でなければできぬ。ゆえに、チハル──」


「はい」


「帰るときも、来るときも、吾を介さねばならぬ」


 言い含めるような声だった。千春が頷いたのを見ると、山の神は満足げに笑った。


「では、また来よし」


 頭上で、烏の一羽がひと声鳴いた。


 ◇


 八咫烏に案内され、千春は拝殿を後にした。

 送り犬は外で待っていた。千春の姿を見ると、すぐに軽い足音を立てて駆け寄ってくる。


「千春」


 呼ばれただけで、息がしやすくなった。

 山の神と話しているあいだ、よほど緊張していたらしい。今になって、肩に力が入っていたことに気づく。


「何か言われたか」


「ううん。大丈夫。帰り道、開いてくれるって」


 金色の瞳が、じっと千春を見る。


「ミカヅキ、綱のところまで送ってくれる?」


「千春を送る」


 送り犬は千春の少し後ろについた。


 住処へ戻るときは前を歩くこともあるのに、帰る道ではいつもそこにいる。送り犬としての位置だった。


 わからないことはある。


 でも、今は、帰る。

 そして、また来る。送り犬のところに。


お読みいただき、ありがとうございます!二度目の来山が終わりました。残る来山は五度。

      

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