二度目の帰り
「これ、ここに置いていってもいい?」
千春は、タオルケットを軽く畳みながら訊ねた。
「次に来たとき、また使いたいし」
「次」
送り犬は、言葉を確かめるように繰り返した。
「そう。また来たいから……困る?」
「困らない」
「そっか。良かった。送り犬も、私がいないときに使ってていいよ」
言いながら、昨夜の手のことが一瞬だけ頭をよぎった。体温や感触まで思い出しそうになり、千春は誤魔化すように無意味に何度もタオルケットを畳み直した。
送り犬は何も言わず、千春を見ていた。尻尾だけがゆっくりと揺れている。
「ミカヅキ」
「なんだ」
「また、会いに来るね」
また。そう言えることの嬉しさが、寂しさを少しだけ覆い隠してくれた。
古びた室内で、クッションとタオルケットのある一角だけが、千春の好きな明るい色をしていた。
リュックを背負う。飲みきったペットボトルと、持ってきたお菓子の空き袋が入っているだけで、帰りの荷物は軽かった。
「道を開いてもらう前に、神様に会いに行かないといけないんだっけ」
そう言うと、送り犬は目を伏せて耳を後ろに引いた。
「大丈夫だよ。帰るためだし」
しゃがんで黒い頭を撫でる。硬い毛並みに顔を寄せると、土と木の匂いがした。
名残惜しくなりそうだった。
立ち上がり、「行こう」と声をかける。
住処の外へ出ると、山の空気は澄んでいた。枝の上にいた八咫烏が黒い羽を畳みながら、千春たちを見下ろしている。
「御山の神が、お待ちにございます」
◇
送り犬を外で待たせ、千春は拝殿に進んだ。
山の神は、前と同じようにその奥にいた。
「帰るのか、チハル」
「はい。お邪魔しました」
千春は、なるべく丁寧に頭を下げた。
「すぐ帰るものかと思うておったが、ふふ。此度も何度かこちらで夜を越したな」
その目は、人の顔色を読む目に見えた。何を言えば千春の表情が動くのか、探しているような、そんな目。
「人の形は、気に入ったか」
どきりとした。
「……背が高くて、驚きました」
「それだけか」
「初めて見たので」
「ふ。もっと醜男にでもできれば、未練も断てたか。あるいは、おぬしの好みにでもできれば、婚姻に踏み切れたか──」
諦めろと言っているのか、婚姻しろと言っているのか。山の神の腹の内は見えない。
「まあ、あれ相手にそこまで自由は利かんからな」
山の神は、そこで言葉を切り、少しだけ口をつぐんだ。
──自由が利かない。
その言葉を頭の中でそっとなぞる。
神様なのに、送り犬相手には自由が利かない?
「して、どうであった」
「……どう、というと」
「犬との逢瀬じゃ」
昨日の夜のことを思い出しかけて、千春はすぐそれに蓋をした。
「外を、歩いたりしました。茱萸の実を食べて、あとは少し遊んで」
「遊ぶ……ああ、おぬしが隠れ、犬がすぐに見つけておったな」
知っているんだ、と思った。
「そうなんです。送り犬相手に隠れるのって難しいですね」
「あれは耳も鼻も利くからな」
「はい」
「して、他は」
少し急かすような訊き方だった。
昨日、何があったか。千春が何を言い、送り犬がどんなふうに触れたのか──知っていて聞いているのか、本当に知らないのか。千春にはわからなかった。
「そう、ですね……夜になると暗いので、今度はライトを持ってこようかなと思っています」
千春は、そこで少しだけ話をずらした。
「山に──送り犬の住処に、私のものを置いておいたりしても構いませんか」
山の神の目が、細くなる。怒ったわけではなさそうだった。面白がっている顔だ。
「ほう、あの巣に物を置くのか」
巣。
嫌な言い方、と思った。
でも、顔には出さない。
「はい。何度か通うなら、自分の物を置いておけたほうが便利かなって」
「それはよいな。犬は見るたびにおぬしを思い出そう。次の来山で持ってくるがよい。目につくところにでも置いてやれ」
千春は、頷きかけた口を止めた。
住処には、すでにタオルケットとクッションを置いてきている。
──山の神は、それを知らないのだろうか。
「……七度までは、来てもいいんですよね」
千春は、なるべく何でもない顔をして訊いた。
「そうじゃ。此度が二度目の帰り道。残りは五度。まあ、その前におぬしが犬に飽きれば、来ぬでもよいぞ」
「そうですね」
否定しない。否定したくはなる。でも、しない。
それでも千春は、少しだけ目を上げた。
「でも、今は。また来たいと思っています」
言い切りすぎないようにした。
山の神は、「そうか」と楽しげに笑った。
そして、袖を揺らしながら言う。
「此度の道を開く。犬に送られて帰るがよい」
足を動かしかけて、千春は止まった。
聞いていいのかどうか、迷いはあった。それでも口を開く。
「あの。道は……神様にしか開けないんですか」
拝殿の外で、羽ばたきの音がひとつ、大きく響いた。
「なぜ、それを聞く」
先ほどまでの楽しげな響きが、少しだけ遠のく。
千春は、しまった、と思った。踏み込んだことを聞いたのかもしれない。でも、今さら引っ込めるほうが不自然だった。
「……えっと。帰るたびに、神様にお願いしないといけないんだなと思って」
千春は少しだけ声を落とす。
「お世話になるなぁ、と」
「世話」
「はい。来るときも、帰るときも、ありがとうございます」
山の神は、しばらく黙っていた。
その沈黙が、妙に長く感じた。
千春はじっと待った。伸ばした背すじに嫌な汗が伝う。
ややあって、山の神は柔らかく笑った。
「ふふ。人間に感謝されるのは心地がよいの」
千春は、山の神に気づかれないよう小さく息を吐いた。
けれど、次に落ちてきたのは、鋭い声だった。
「道を開くのは、神でなければできぬ。ゆえに、チハル──」
「はい」
「帰るときも、来るときも、吾を介さねばならぬ」
言い含めるような声だった。千春が頷いたのを見ると、山の神は満足げに笑った。
「では、また来よし」
頭上で、烏の一羽がひと声鳴いた。
◇
八咫烏に案内され、千春は拝殿を後にした。
送り犬は外で待っていた。千春の姿を見ると、すぐに軽い足音を立てて駆け寄ってくる。
「千春」
呼ばれただけで、息がしやすくなった。
山の神と話しているあいだ、よほど緊張していたらしい。今になって、肩に力が入っていたことに気づく。
「何か言われたか」
「ううん。大丈夫。帰り道、開いてくれるって」
金色の瞳が、じっと千春を見る。
「ミカヅキ、綱のところまで送ってくれる?」
「千春を送る」
送り犬は千春の少し後ろについた。
住処へ戻るときは前を歩くこともあるのに、帰る道ではいつもそこにいる。送り犬としての位置だった。
わからないことはある。
でも、今は、帰る。
そして、また来る。送り犬のところに。
お読みいただき、ありがとうございます!二度目の来山が終わりました。残る来山は五度。
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