信じること
八咫烏との問答は、二度目でもやっぱり少し気恥ずかしかった。
目を開けると、黒い木の麓で送り犬がもう待っていた。黒い尾が地面すれすれに揺れている。
「ミカヅキ、待ってたの?」
「待っていた」
言いながら、送り犬は千春の足元まで来る。千春がしゃがんで首元を撫でると、黒い頭が肩へ寄った。鼻先が肩口から襟元へ、服の上をゆっくり滑る。
「また匂い?」
「生きているか確かめている」
「ちゃんと生きてるよ」
笑いながら、千春は送り犬の頭を撫でた。硬い毛並みが指の下に沈む。耳の後ろに指を入れると、送り犬は少しだけ目を細めた。
カラスの羽音が聞こえ、千春は顔を上げた。鬱蒼とした木々が、送り犬と千春を囲んでいる。
なにかに見下ろされているみたいだった。
山の神は、山で起きたことを知っている。
今も、見られているのだろうか。
千春がしゃがみ込んで送り犬を撫でているところも。
送り犬が、千春の肩に鼻先を寄せているところも。
そう思った途端、首筋のあたりが落ち着かなくなった。
「千春」
送り犬が顔を上げる。
「どうした」
「……なんでもない」
千春は笑って、送り犬の頭をもう一度だけ撫でた。
「行こう」
千春の声に、送り犬が身を翻す。軽く揺れる黒い尾に続いて歩き出した。
この山は、やっぱり不思議だ。
こちらへ足を踏み入れた場所すら、前回と同じなのか、違うのか、はっきりしなかった。似た景色が続くばかりで、歩いている道が同じなのかどうかも、よくわからない。
それでも、目の前には迷いのない足取りの送り犬がいる。なにも不安に思うことはなかった。
◇
住処に入ると、千春が置いていったものが壁際にそのままあった。
淡い色のタオルケットは、前回、自分が畳んだ形のまま。角の向きも、折り目も、なにも変わっていなかった。
「あれ? 使わなかったの?」
訊ねると、送り犬は千春の視線を追ってタオルケットを見た。
「千春のものだ」
「使っていいって言ったのに」
「千春が使う」
「いや、私も使うけど……送り犬も使っていいんだよ」
千春は笑いながら、タオルケットに触れた。
使われていなかったことが、少し寂しいような、でも大事にされているような、変な気持ちだった。
千春はクッションに座り、リュックの中を探りながら、山の神から聞いたことを思い出した。
「あ。ねえ、ミカヅキ」
「なんだ」
「この前、神様が言ってたんだけど」
送り犬の耳が、わずかに動いた。
「道を開くのは、神様じゃないとできないって。来るときも、帰るときも、神様を通さないといけないって。知ってる?」
「神でなければ、道は開けない」
山の神と同じことを、送り犬も言った。
やっぱりそうなのか、と胸が重くなる。
あの神様は底が知れない。
優しい口調ではある。けれど、千春がお願いしてみたところで、条件を変えてくれるようなタイプとは思えない。
「他に、道を開ける人はいないんだね」
「昔は、できた」
「昔は?」
「できた」
「誰が?」
送り犬は黙った。
答えない──そう思ったけれど、少し違う気がした。
答えたくないというより、答え方がわからないように見えた。
いた。ではなく、できた。
「……ひょっとして、送り犬が?」
金色の目が、千春をじっと見る。
「昔は、送り犬が道を開けたの?」
「そうだ」
「今は?」
「今はできない」
送り犬は淡々と言った。
「どうしてできなくなったの?」
「わからない」
「いつから?」
「……わからない」
「神様に、できなくされたとか?」
「それは違う」
昔は、できた。
その言葉が、小さな光のように胸へ落ちてくる。
「送り犬は、またできるようになりたい?」
送り犬は首を傾げた。そうなりたいかどうかも、わからないらしかった。
「そっかぁ……でも、前にできたんなら、またいつかできるようになるかもしれないね。そのときは、私のところにも道を開けてくれたら嬉しいな」
想像してみて、声が弾む。送り犬の耳が、ぴくりと後ろへ引かれた。
「千春は、山に来るべきではない」
「う。それは、そうなんやろうけど……そうなったらいいなと思って。そうしたら、神様のことは気にせず会えるから」
「……」
「あっ。念のため言っておくけど、できなくても、私がっかりしたりしないよ」
先にそう言っておきたかった。
「できるはずなのに、とか、どうしてできないの、とか、そういうふうには思わない」
送り犬は動かず、千春の言葉をただ聞いていた。
「なんか私に、手伝えることとかないんかな」
できなくなった理由もわからないし、またできるようになる根拠もない。
そもそもその仕組みさえ、さっぱり見当もつかない。山の神に聞いたところで、教えてくれるわけでもないだろう。
それでも。千春は、残りの五回をそんなふうに過ごしたいと思った。
「私、送り犬がまた道を開けるようになるのを信じてみたい」
住処の外を、風が通った。板戸がかすかに揺れて音を立てる。
「信じる」
送り犬が低く繰り返した。
「うん」
「それは、何をする」
「うーん。信じること自体は、行動ではないかも」
「では、待つのと似ているのか」
「え? あ、どうだろう……ちょっと違うかな」
「違う」
「待つのは……待っていたら、そのあとになにかあるって思えることでしょ」
「待てには、よしがある」
「そうそう。でも、信じるのは、よしがなくても、そう思っていたいこと……みたいな感じ」
「よし、がなくてもか」
「うん。何か受け取れるからとかじゃなくて、自分がそうしたいから、そう思うこと」
言いながら、千春は首を傾げた。うまく説明できている気がしなかった。
送り犬も理解できないのか、同じ方向に首を傾げる。
互いに斜めになっているのがおかしくて、千春は吹き出して笑ってしまった。
送り犬は、何も言わなかった。ただ、千春が笑うのをじっと見ている。
板戸を揺らしていた風は、弱く、長く、続いていた。




