一人称の練習
「ミカヅキ。お菓子、食べる?」
リュックから取り出したグミの袋を揺らすと、送り犬は耳をぴくりと動かした。じっと袋を見ている。
「……食わない」
「そっかぁ」と返しながら、千春は袋を開けた。甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。
聞いてはみたけれど、そもそも送り犬がこういうものを食べていいのかはわからない。
千春は砂糖のまぶされたグミをひとつ摘み、口に入れた。甘い。
「あ、そうだ。あのね、前から思ってたんだけど……」
千春は袋のジッパーを閉じながら続ける。
「送り犬って、自分のことを話すの、ちょっと苦手?」
「自分」
「うん。自分。えっと……私だったら、自分のことを“私”って言うでしょ」
「千春」
「千春は、名前。でも、自分のことを話すときは“私”って言う」
送り犬は、黙って聞いていた。
さっき、道を開けたことを話したとき、送り犬は「自分が、できた」とは言わなかった。
思い返せば、最初に住処へ案内されたときもそうだった。「住処へ行くぞ」と言われ、「誰の?」と問うたとき、送り犬は返事をしなかった。
ものごとの説明はできるのに、自分に関することを話すとき、送り犬はいつも少しだけ間が空いた。
それが、なんとなく、気になった。
千春は自分の胸元に手を当てる。
「私は、千春です。私は、お菓子を食べます。私は、山に来ています。みたいに」
「わたし」
送り犬は、低い声で繰り返した。
千春は送り犬の黒い頭に手を伸ばす。
「そうだよ。上手だね」
耳の間の毛並みを撫でると、金色の目が柔らかく細まった。千春は手を滑らせ、指の腹で骨に沿うように目元のまわりを優しくなぞった。犬のしなやかな瞼が閉じられ、ふさふさとしたまつ毛がくすぐったそうに小さく震えていた。
「誰かと話すときに便利だよ。自分のこととか、自分が思ったこととか、自分のしたいことを言えるから」
「自分のこと」
「うん。“私”だけじゃなくて、俺、僕、ウチ、人によって使う言葉は違うけどね」
「前に送った男は、“おれ”と言っていた」
「あ、そうなんだ」
「俺は帰れるのか、と訊いた」
千春は、少しだけ胸が冷えるのを感じた。
送り犬がこれまで送ってきた人たち。千春の前にも、きっと何人もいた。
その人たちは、帰れたのか。それとも──
考えかけて、やめた。今はその話ではない。
「じゃあ、知ってる言葉だったんだね」
「知っている。使わなかった」
「どうして?」
「必要がない」
送り犬は、当たり前のように言った。
自分を示す言葉。
自分が何をしたか、何を思ったかを話す言葉。
それが、送り犬には必要なかった。
「……そうなんだ。でも、私は使ってほしいな」
「なぜ」
「送り犬のことを、知りたいから」
送り犬はしばらく黙っていた。ややあって、言葉が落ちる。
「おれ、は……」
言いながら、送り犬は確かめるように小さく首を傾げた。
「うん、いいね。そっちのほうが声に合うかも」
千春は指を折りながら、ゆっくり言った。
「俺が、送る。俺は、食わない。俺の、住処。みたいに使うんだよ」
送り犬は、千春の言葉を聞いていた。
それから、低く繰り返す。
「俺が、送る」
「うん」
「俺は、食わない」
「うん」
「俺の、住処」
「そうそう」
千春は何度も頷いた。送り犬が自分のことを話しているみたいで、たったそれだけのことが、妙に嬉しく感じられた。
送り犬はなにかを考えるようにしばらく視線を落としていた。ふいに、鼻先を千春へ向ける。
「俺の」
「うん」
「千春」
千春は、返事をしそこねた。しどろもどろな声だけが喉を通る。
「……あ、それ、は」
「違うのか」
送り犬は、いつもと変わらない顔でこちらを見ていた。からかっているのでも、意味ありげに言ったのでもなさそうだった。
ただ、言葉の使い方が合っているかを確かめている──たぶん、それだけ。
俺の住処、と同じ並びで言っただけだ。たまたま思いついた名詞が、自分の名前だっただけ。
きっと、そう。頭ではわかる。わかるのに、心臓が一拍遅れて跳ね上がった。
「えっと」
千春は、お尻の下に敷いていたクッションを膝の上へ移動させた。落ち着かない心臓を隠すように、それをぎゅっと抱えてみる。
「……文法は、合ってるよ」
「合っている」
「うん。合ってる。けど……」
「どうした」
「ちょっと、びっくりしちゃって」
「また身体がびっくりしたのか」
「今回は、身体……じゃないかも」
送り犬は首を傾げる。
「人間の言葉は難しい」
「うん。本当に、難しいね……」
言いながら、頬が熱くなる。さっきの声を、頭の中で反芻してしまう自分がいた。
──私は、誰のものでもない、と思う。
こうしてここに来ているのだって、自分の意志だ。
けれどその理由は、送り犬に会いたいからで、山の神に言われたからでも、ただ山に来たいからでもなかった。
千春は、クッションに顔を埋める。
「……違わない、ような気もしてきてしまうから、困る」
──少なくとも、この住処のなかでは。
小さくこぼしたつもりだったのに、すぐに送り犬が「違わないのか」とそれを拾って問うてきた。
千春はクッションから目だけを持ち上げて答える。
「使い方はね、違わないよ」
「なら、合っているんだな」
「うん。あ、文法ね……文法の話だから」
「覚えた」
そう言われて、どう覚えたのか、とますます困った。
なにかから逃げるように、千春はもう一度クッションに顔を押し当てた。
さっき食べたグミの甘さが、口の中にまだ残っていた。




