表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/30

一人称の練習



「ミカヅキ。お菓子、食べる?」


 リュックから取り出したグミの袋を揺らすと、送り犬は耳をぴくりと動かした。じっと袋を見ている。


「……食わない」


 「そっかぁ」と返しながら、千春は袋を開けた。甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。


 聞いてはみたけれど、そもそも送り犬がこういうものを食べていいのかはわからない。

 千春は砂糖のまぶされたグミをひとつ摘み、口に入れた。甘い。


「あ、そうだ。あのね、前から思ってたんだけど……」


 千春は袋のジッパーを閉じながら続ける。


「送り犬って、自分のことを話すの、ちょっと苦手?」


「自分」


「うん。自分。えっと……私だったら、自分のことを“私”って言うでしょ」


「千春」


「千春は、名前。でも、自分のことを話すときは“私”って言う」


 送り犬は、黙って聞いていた。


 さっき、道を開けたことを話したとき、送り犬は「自分が、できた」とは言わなかった。

 思い返せば、最初に住処へ案内されたときもそうだった。「住処へ行くぞ」と言われ、「誰の?」と問うたとき、送り犬は返事をしなかった。

 ものごとの説明はできるのに、自分に関することを話すとき、送り犬はいつも少しだけ間が空いた。


 それが、なんとなく、気になった。


 千春は自分の胸元に手を当てる。


「私は、千春です。私は、お菓子を食べます。私は、山に来ています。みたいに」


「わたし」


 送り犬は、低い声で繰り返した。

 千春は送り犬の黒い頭に手を伸ばす。


「そうだよ。上手だね」


 耳の間の毛並みを撫でると、金色の目が柔らかく細まった。千春は手を滑らせ、指の腹で骨に沿うように目元のまわりを優しくなぞった。犬のしなやかな瞼が閉じられ、ふさふさとしたまつ毛がくすぐったそうに小さく震えていた。


「誰かと話すときに便利だよ。自分のこととか、自分が思ったこととか、自分のしたいことを言えるから」


「自分のこと」


「うん。“私”だけじゃなくて、俺、僕、ウチ、人によって使う言葉は違うけどね」


「前に送った男は、“おれ”と言っていた」


「あ、そうなんだ」


「俺は帰れるのか、と訊いた」


 千春は、少しだけ胸が冷えるのを感じた。

 送り犬がこれまで送ってきた人たち。千春の前にも、きっと何人もいた。

 その人たちは、帰れたのか。それとも──

 考えかけて、やめた。今はその話ではない。


「じゃあ、知ってる言葉だったんだね」


「知っている。使わなかった」


「どうして?」


「必要がない」


 送り犬は、当たり前のように言った。


 自分を示す言葉。

 自分が何をしたか、何を思ったかを話す言葉。

 それが、送り犬には必要なかった。


「……そうなんだ。でも、私は使ってほしいな」


「なぜ」


「送り犬のことを、知りたいから」


 送り犬はしばらく黙っていた。ややあって、言葉が落ちる。


「おれ、は……」


 言いながら、送り犬は確かめるように小さく首を傾げた。


「うん、いいね。そっちのほうが声に合うかも」


 千春は指を折りながら、ゆっくり言った。


「俺が、送る。俺は、食わない。俺の、住処。みたいに使うんだよ」


 送り犬は、千春の言葉を聞いていた。

 それから、低く繰り返す。


「俺が、送る」


「うん」


「俺は、食わない」


「うん」


「俺の、住処」


「そうそう」


 千春は何度も頷いた。送り犬が自分のことを話しているみたいで、たったそれだけのことが、妙に嬉しく感じられた。


 送り犬はなにかを考えるようにしばらく視線を落としていた。ふいに、鼻先を千春へ向ける。


「俺の」


「うん」


「千春」


 千春は、返事をしそこねた。しどろもどろな声だけが喉を通る。


「……あ、それ、は」


「違うのか」


 送り犬は、いつもと変わらない顔でこちらを見ていた。からかっているのでも、意味ありげに言ったのでもなさそうだった。


 ただ、言葉の使い方が合っているかを確かめている──たぶん、それだけ。

 俺の住処、と同じ並びで言っただけだ。たまたま思いついた名詞が、自分の名前だっただけ。

 きっと、そう。頭ではわかる。わかるのに、心臓が一拍遅れて跳ね上がった。


「えっと」


 千春は、お尻の下に敷いていたクッションを膝の上へ移動させた。落ち着かない心臓を隠すように、それをぎゅっと抱えてみる。


「……文法は、合ってるよ」


「合っている」


「うん。合ってる。けど……」


「どうした」


「ちょっと、びっくりしちゃって」


「また身体がびっくりしたのか」


「今回は、身体……じゃないかも」


 送り犬は首を傾げる。


「人間の言葉は難しい」


「うん。本当に、難しいね……」


 言いながら、頬が熱くなる。さっきの声を、頭の中で反芻してしまう自分がいた。

 

 ──私は、誰のものでもない、と思う。

 こうしてここに来ているのだって、自分の意志だ。


 けれどその理由は、送り犬に会いたいからで、山の神に言われたからでも、ただ山に来たいからでもなかった。

 千春は、クッションに顔を埋める。


「……違わない、ような気もしてきてしまうから、困る」


 ──少なくとも、この住処のなかでは。


 小さくこぼしたつもりだったのに、すぐに送り犬が「違わないのか」とそれを拾って問うてきた。

 千春はクッションから目だけを持ち上げて答える。


「使い方はね、違わないよ」


「なら、合っているんだな」


「うん。あ、文法ね……文法の話だから」


「覚えた」


 そう言われて、どう覚えたのか、とますます困った。


 なにかから逃げるように、千春はもう一度クッションに顔を押し当てた。


 さっき食べたグミの甘さが、口の中にまだ残っていた。


 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ