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学習の実践



 三度目の山で、千春は三回の夜を越した。


 持ってきた小さなライトは、最初の夜に試したきりだった。電池は残っているはずなのに、すぐ光が弱くなってしまったので、リュックの底へ戻してあった。この山では、こういうものもうまく働かないのかもしれない。


 暗くなれば、送り犬は人の姿になる。最初は目を合わせるだけで緊張したのに、今では、その姿も見慣れてきていた。


「明日の朝、帰るね」


 口に出すと、なんとなく眠るのが惜しくなった。

 千春は壁際に背を預けて座り、タオルケットを膝にかけた。


 山で三日ほど過ごしても、帰れば二時間ほどしか経たない。前に帰ったときは、そうだった。

 それでも、長くいるのは落ち着かない気がした。大学もバイトもあるし、こちらにいる間スマホは繋がらず、あちらの状況がまるでわからない。


 少し離れたところでは、送り犬が座っている。


 犬ではない、人の姿で。

 近づかれると、まだ身体は少し固まる。

 でも、最初に見たときほど、目を逸らさなくても済むようになっていた。

 そうして慣れてきたのに、もう帰らなきゃいけない。千春は小さく息を吐いた。


「千春」


「うん?」


「何か話すか。気が紛れるんだろう」


 話すと落ち着くと言ったことを覚えていてくれて、そう言ってくれたのだとすぐにわかった。


「じゃあ、そうしていい? えっと、なんの話をしようかな……あ、夏休みに、海へ行こうって友達に誘われてるんやけど──」


 千春はちいさく笑って、ぽつりぽつりと思いつくことを話した。送り犬はほとんど返事をしなかった。

 ときおり短く「そうか」と返し、わからない言葉があれば繰り返し、気になることがあるとじっと見つめてくる。


「あとね。この前、駅前のパン屋さんでクロワッサンを買って……あ、クロワッサンって、パンなんやけど」


「ぱん?」


「えぇと、小麦粉はわかる?」


 送り犬は首を傾げた。

 大きな男の人なのに、その仕草は犬のときと変わらない。


「小麦粉は……うーん。そこからかぁ」


 真面目に聞いている顔も、変わらなかった。

 

 話している内容は千春にとって普通のことなのに、送り犬はどれも不思議そうに聞いていた。それがあどけないような、おかしいような気持ちがした。

 千春は話しながら、つい何度も送り犬の顔を見てしまう。


「とにかく、そこのパンがバターたっぷりで美味しくて。あぁっ、バターもわからんかな。形はひし形? でもちょっと曲がってるから三日月みたいな感じで──」


 そう言ったとき、黒い髪から覗く獣の耳がぴくりと立った。思わず、笑ってしまいそうだった。


「ふっ、違う、違う。送り犬のことじゃなくて、月のほうの、三日月」


 訂正すると、送り犬の耳からゆっくりと力が抜けていく。それを見て、千春はとうとう肩を震わせた。


「あはは」


「なぜ笑う」


 送り犬は不服そうな様子もなくじっと千春を見ていた。


「ごめんごめん、耳が」


「謝るな」


「あぁ、はいはい、そうだった。あのね、送り犬の耳が動くのが好きで」


「動く?」


 自覚がないのかと思うと、いっそう胸の真ん中がくすぐったかった。口元を緩めたまま、千春は少しだけ身を乗り出す。


「ミカヅキ」


 呼ぶ。

 すると、やっぱり送り犬の耳がぴくりと動く。


 また、ふふ、と笑ってしまう。


「それが、可愛い」


 千春がそう口にした瞬間、金色の目が瞬いた。


 送り犬はゆっくり立ち上がる。


 千春は小さく息をのんだ。近づいてきた送り犬は、千春の隣に膝をつき、目線を合わせるように上体を少し屈めた。


「ミカヅキ?」


 千春がそう呼び終える前に、送り犬の手が伸びてくる。肩の後ろに触れたかと思うと、次の瞬間には引き寄せられ、胸元に抱き込まれていた。


 送り犬の指先が、千春の肩甲骨の内側を探るように触れる。


「……千春は、肩が薄いな」


 低い声が、耳朶に触れる。

 言葉の意味が頭に届くより先に、千春の身体は跳ねた。ぎこちない腕の中に収まったまま、叫ぶ。


「わっ、わーーー!!」


 情けない響きの、それでいて大きな声だった。驚いたのか、送り犬の肩も小さく揺れる。


「千春?」


「な、なんで……」


 千春は半分固まったまま、どうにか声を出した。


「なんで、急にハグ……」


 頭上で、送り犬が首を傾げる気配がした。


「あ。ハグ、わかんないか。えっと、なんで急に……その。くっついたの……?」


「かわいいと言うのは、抱きしめたくなることだと千春が言っていた」


「あぁぁ……」


 千春は声にならない声を漏らした。


 言った。言った気がする。


 可愛いとは何かと聞かれて、好きだなと思うことだとか、心があたたかくなることだとか、抱きしめたくなることだとか。

 あのときは、犬の姿の送り犬に向かって言った。

 それがまさか、人の姿でそのまま返ってくるなんて、思ってもいなかった。


「つまり、私が可愛いって言ったから……抱きしめるものだと思ったの?」


「取り違えたか」


 落ち着いた、いつもの声だった。

 千春は送り犬の腕のなかで、熱くなる自分の顔を両手で覆った。


「私の説明が雑やから、いつもこうなるんかな……」


 送り犬は、千春の言葉を覚えた──きっと本当にただ、それだけなんだろうと思う。

 ──ただ、この距離は、私が冷静でいられない。


「嫌なら、離れる」


 千春の動揺を察したのか、送り犬は寄せていた身体を少し離した。そのまま、千春の背に触れていた手も浮かせる。

 千春は、はっとして声を出した。


「あ、待って」


 送り犬はぴたりと止まった。


 言ってから気づく。

 また「待て」に認識されたかもしれない。


 千春は慌てて言葉を探した。けれど思考があちこちへ逸れてしかたがなかった。


 これは、近い。 

 息遣いがわかるような距離だった。自分の心臓の音まで伝わってしまうかもしれないと思うと、千春は呼吸の仕方がわからなくなった。


 目の前には黒い衣が見えるだけ。送り犬の身体は大きくて、長い腕が千春の身体を簡単に囲ってしまう。逃げ場がないような、守られているような、どちらともつかない感覚がした。


 怖くはない。


 嫌でもない。


 恥ずかしい。


 どうしていいかわからない。


「千春」


 名前を呼ばれて、千春は「えっと」と声を漏らした。


 ──あ。

 土と、木の匂いがする、と思った。犬の姿のときにも知っている匂いだ。落ち着く、好きな匂い。

 でも、人の姿からこの匂いを感じ取ると、胸の奥が変なふうに跳ねまわった。


 それなのに、「離れよう」という言葉は、喉の奥で絡まって出てこなかった。


「……もうちょっと、こうしてて」


 小さな声で言い、千春は送り犬の衣の端を指先で少しだけ摘んだ。


 送り犬が、離した手を千春の背中に戻す。


 しばらく、どちらも黙ったままそうしていた。


 静まりそうにない自分の心臓の音をいくつもいくつも聞いたあと、千春はようやく黒い衣から指を離す。


「……ミカヅキ。もう、大丈夫」


 送り犬から返事はない。

 顔を上げるとじっとこちらを見下ろす金色がすぐそこにあった。

 ひょっとしたら、「待て」だと思ってるのかもしれない。


「あ……よし、です」


 離していいよ、の意味で言った。

 でもそれは、送り犬にとって、動いていいという合図だったことに遅れて気付く。


 背に回された手に、ぐっと力がこもる。

 反応する間もなく、身体がさらに密着した。


「千春は、かわいい」


 低い声が、頭頂部のあたりから落ちる。


 そのあと、離れてからも、髪に触れた息の感覚がいつまでも残っていた。


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