表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/30

住処の中は


「今回も、お世話になりました」


 千春がそう言うと、山の神は愉快そうに目を細めた。


 薄暗い拝殿の奥には、発光しているみたいに白い人影があった。長い髪。白い衣。人に似た形をしているのに、人ではない。


 山の神と向き合ったとき、肌がぴりぴりするような感じがした。こういうものを、人は畏れと言うのかもしれないと思った。


「ようお参りやったな、チハル。此度で三度目の来山。また、“楽しく”過ごしたか」


「はい、おかげさまで」


「犬もよう待っておった。道を開いた途端に走り、おぬしがくれば尾を振って。よほど会いたかったのじゃろう」


 「私も会いたかったです」思わずそう言いかけて、唇を閉じる。

 山の神の前で、あまり正直に言いすぎるのはよくない気がした。


「朝になれば、水を飲みに行っておったな」


「はい」


「そして赤い実を食べ、花の咲くところへ。飽きもせず、よう歩く」


「山は、綺麗なので」


 山の神の視線が、千春の顔に留まる。


「ふふ。人の娘は、口が回る」


 笑っている。でも、その楽しげな声の下にあるものを測ることはできそうもない。 


「して、チハル。犬の巣では、よう休めたか」


 聞かれるかもしれないとわかっていたのに、それでも呼吸がひとつぶん遅れた。肩甲骨のあたりが、思い出したように熱を持つ。


「はい。寝てばかりいました」


「それだけか」


「たくさん歩くと、疲れちゃうので」


「人の身体は難儀よな」


「そうなんです」


「夜も、ただ休んでおったのか」


「夜は、暗いですから」


「暗ければなにもせんのか」


 山の神は面白がるような声で、そこから何度も住処でのことを訊ねた。

 送り犬はどうしていたか。人の姿は千春の目に馴染んだか。


 ──もし、山の神が住処のなかまで見えているのなら、そんなふうには聞く必要のないことばかりだ。


 千春は、息を整えた。


「そういえば」


「なんじゃ」


「ライトを持ってきてたんですけど、すぐバッテリーが切れちゃって」


 心臓が嫌な跳ね方をし始める。千春は後ろで手を組み、言葉を続けた。


「こちらではあまり使えなさそうなので、やっぱり持って帰ることにしました」


「そうか」


 山の神は、少しだけ残念そうに言った。


「人の物が残れば、犬はそれを見るたび、おぬしを恋しがったろうに」


 千春は硬い唾を飲み込んだ。

 住処に、千春のものはもうすでに置いてあった。タオルケットも、クッションも。前回来たときに千春が持ってきて、そのまま。


 山の神はそれには触れない。


 何をしていたか、と聞き、物が残れば、とも言った。

 どちらも見えているのなら、聞かなくとも答えがあることを。


 千春はその気付きを顔に出さないようにして、口を開いた。


「……送り犬の住処は、居心地が良いですね」


 山の神は、すぐには答えなかった。

 ほんのわずかな沈黙。それだけで、千春の背中に冷たいものが走った。


「そうか、それは良かったな」


「はい。不思議と、落ち着くというか──」


 口元を緩めてみせる。


「カラスさんたちにも、ああいう住処があるんですか」


 山の神はすぐには答えなかった。

 拝殿の外で、カラスの鳴き声がした気がした。けれどすぐに静かになった。本当に鳴いたのか、千春の耳が勝手にそう拾ったのかはわからない。


「烏は枝に眠る」


「そうなんですね」


 ──じゃあ、送り犬の住処って、なんなんですか。


 言いかけて、千春は言葉を飲み込んだ。露骨に聞いて怒らせるのは怖い。それでも、知りたい気持ちは喉の奥に残っていた。


「不思議な建物ですよね」


 少し遠く聞こえる、自分の声。


「外は苔むしてるのに、中は埃ひとつ落ちてなくて」


 やめておくべきか、迷いながら続ける。


「他にもあるんですか?」


「なにがじゃ」


「送り犬の住処みたいな建物は」


 山の神の目が、じっと千春を見た。

 拝殿の中の空気が重くなる。


「それとも、住処があるのは、送り犬だけなんですか」

 

「──何を確かめておる、チハル」


 胸が冷えた。

 声は荒くなかった。表情も変わっていないように見える。それでも、場の温度だけが、すっと消えたのがわかった。 


「……聞いちゃいけなかったですか」


「おぬし、それも。吾を試しておるな」


「いえ、そんな」


 失敗した、とわかった。嫌な汗がじわりと出る。


「申し訳ありません」


 千春は頭を下げた。


「謝るか」


「不躾になんでも聞いてしまって。神様なら、なんでもご存知かなと思ったので……」


 山の神はしばらく黙っていた。

 ややあって、柔らかい声が落ちる。


「ふふ。おぬしは存外、よう目を凝らす。顔を上げよ、チハル」


 恐る恐る視線を戻すと、山の神はゆるく微笑んでいた。


「三度目の帰り道を開く。残りは四度」


 千春は小さく頷いた。


「来ぬでもよいぞ」


「また来ます」


「犬が健気に待つからか」


「……私が、来たいからです」


 拝殿の中が、静かになった。


 山の神は千春を見ている。

 千春も、目を逸らさなかった。


「では、帰るがよい」


 千春はもう一度、頭を下げた。

 踵を返そうとしたとき、背中に声がかかった。


「──チハル。見えずとも、山は吾のものじゃ」


 千春は動きを止めた。


「犬の巣の中であっても、山におる限り吾の腹のうちよ。外と行き来させてやれるのは誰であるのか──」


 ゆっくりと、山の神の声が落ちる。


「それを、ゆめゆめ忘れるな」


 千春は振り返らなかった。両手でリュックの肩紐を強く掴む。


「はい」


 そう答えるのが、精いっぱいだった。



 拝殿を出ると、送り犬が待っていた。千春を見つけると、駆け寄ってくる。

 山の神の言葉を思い出して、千春は目を伏せた。


 山に来られるのも、あと四度。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ