住処の中は
「今回も、お世話になりました」
千春がそう言うと、山の神は愉快そうに目を細めた。
薄暗い拝殿の奥には、発光しているみたいに白い人影があった。長い髪。白い衣。人に似た形をしているのに、人ではない。
山の神と向き合ったとき、肌がぴりぴりするような感じがした。こういうものを、人は畏れと言うのかもしれないと思った。
「ようお参りやったな、チハル。此度で三度目の来山。また、“楽しく”過ごしたか」
「はい、おかげさまで」
「犬もよう待っておった。道を開いた途端に走り、おぬしがくれば尾を振って。よほど会いたかったのじゃろう」
「私も会いたかったです」思わずそう言いかけて、唇を閉じる。
山の神の前で、あまり正直に言いすぎるのはよくない気がした。
「朝になれば、水を飲みに行っておったな」
「はい」
「そして赤い実を食べ、花の咲くところへ。飽きもせず、よう歩く」
「山は、綺麗なので」
山の神の視線が、千春の顔に留まる。
「ふふ。人の娘は、口が回る」
笑っている。でも、その楽しげな声の下にあるものを測ることはできそうもない。
「して、チハル。犬の巣では、よう休めたか」
聞かれるかもしれないとわかっていたのに、それでも呼吸がひとつぶん遅れた。肩甲骨のあたりが、思い出したように熱を持つ。
「はい。寝てばかりいました」
「それだけか」
「たくさん歩くと、疲れちゃうので」
「人の身体は難儀よな」
「そうなんです」
「夜も、ただ休んでおったのか」
「夜は、暗いですから」
「暗ければなにもせんのか」
山の神は面白がるような声で、そこから何度も住処でのことを訊ねた。
送り犬はどうしていたか。人の姿は千春の目に馴染んだか。
──もし、山の神が住処のなかまで見えているのなら、そんなふうには聞く必要のないことばかりだ。
千春は、息を整えた。
「そういえば」
「なんじゃ」
「ライトを持ってきてたんですけど、すぐバッテリーが切れちゃって」
心臓が嫌な跳ね方をし始める。千春は後ろで手を組み、言葉を続けた。
「こちらではあまり使えなさそうなので、やっぱり持って帰ることにしました」
「そうか」
山の神は、少しだけ残念そうに言った。
「人の物が残れば、犬はそれを見るたび、おぬしを恋しがったろうに」
千春は硬い唾を飲み込んだ。
住処に、千春のものはもうすでに置いてあった。タオルケットも、クッションも。前回来たときに千春が持ってきて、そのまま。
山の神はそれには触れない。
何をしていたか、と聞き、物が残れば、とも言った。
どちらも見えているのなら、聞かなくとも答えがあることを。
千春はその気付きを顔に出さないようにして、口を開いた。
「……送り犬の住処は、居心地が良いですね」
山の神は、すぐには答えなかった。
ほんのわずかな沈黙。それだけで、千春の背中に冷たいものが走った。
「そうか、それは良かったな」
「はい。不思議と、落ち着くというか──」
口元を緩めてみせる。
「カラスさんたちにも、ああいう住処があるんですか」
山の神はすぐには答えなかった。
拝殿の外で、カラスの鳴き声がした気がした。けれどすぐに静かになった。本当に鳴いたのか、千春の耳が勝手にそう拾ったのかはわからない。
「烏は枝に眠る」
「そうなんですね」
──じゃあ、送り犬の住処って、なんなんですか。
言いかけて、千春は言葉を飲み込んだ。露骨に聞いて怒らせるのは怖い。それでも、知りたい気持ちは喉の奥に残っていた。
「不思議な建物ですよね」
少し遠く聞こえる、自分の声。
「外は苔むしてるのに、中は埃ひとつ落ちてなくて」
やめておくべきか、迷いながら続ける。
「他にもあるんですか?」
「なにがじゃ」
「送り犬の住処みたいな建物は」
山の神の目が、じっと千春を見た。
拝殿の中の空気が重くなる。
「それとも、住処があるのは、送り犬だけなんですか」
「──何を確かめておる、チハル」
胸が冷えた。
声は荒くなかった。表情も変わっていないように見える。それでも、場の温度だけが、すっと消えたのがわかった。
「……聞いちゃいけなかったですか」
「おぬし、それも。吾を試しておるな」
「いえ、そんな」
失敗した、とわかった。嫌な汗がじわりと出る。
「申し訳ありません」
千春は頭を下げた。
「謝るか」
「不躾になんでも聞いてしまって。神様なら、なんでもご存知かなと思ったので……」
山の神はしばらく黙っていた。
ややあって、柔らかい声が落ちる。
「ふふ。おぬしは存外、よう目を凝らす。顔を上げよ、チハル」
恐る恐る視線を戻すと、山の神はゆるく微笑んでいた。
「三度目の帰り道を開く。残りは四度」
千春は小さく頷いた。
「来ぬでもよいぞ」
「また来ます」
「犬が健気に待つからか」
「……私が、来たいからです」
拝殿の中が、静かになった。
山の神は千春を見ている。
千春も、目を逸らさなかった。
「では、帰るがよい」
千春はもう一度、頭を下げた。
踵を返そうとしたとき、背中に声がかかった。
「──チハル。見えずとも、山は吾のものじゃ」
千春は動きを止めた。
「犬の巣の中であっても、山におる限り吾の腹のうちよ。外と行き来させてやれるのは誰であるのか──」
ゆっくりと、山の神の声が落ちる。
「それを、ゆめゆめ忘れるな」
千春は振り返らなかった。両手でリュックの肩紐を強く掴む。
「はい」
そう答えるのが、精いっぱいだった。
拝殿を出ると、送り犬が待っていた。千春を見つけると、駆け寄ってくる。
山の神の言葉を思い出して、千春は目を伏せた。
山に来られるのも、あと四度。




