いつものこと
「あないもうす、あないもうす」
「いずこの御方にて候や」
このやり取りにも、ほんの少し慣れてきた。
名を名乗り、いつも最後はこう答える。
「送り犬に、会わせてください」
ふっと足元の感覚が抜ける。まぶたの裏が白くなり、耳の奥に葉擦れの音が満ちる。
次に瞬きをしたとき、千春は山の道に立っていた。
ただ、いつもと少し違った。
「……あれ?」
夜だった。
頭上には黒い枝が重なり、木々のあいだは暗くて何も見えない。
「千春」
低い声が届いた。一気に怖さがほどける。
目を向けた先、送り犬は人の姿をしていた。黒い髪のあいだから獣の耳が立ち、夜に溶けるような衣をまとっている。
「あ……ミカヅキ。迎えに来てくれてありがとう」
「礼を言うな」
「はいはい」
送り犬を見上げながら、いつものやりとりをする。そうしながらも、暗い木立の奥へと目を走らせた。
「今、こっちは夜なんだね。あっちはまだ昼だったから、びっくりしちゃった」
「……」
「住処に行ってもいい? 夜はやっぱりちょっと怖いな」
「……」
「ミカヅキ?」
呼ぶと、少し伏せられていた耳がぴくりと動いた。
「……行くか」
送り犬はそれ以上なにも言わず、千春の前を歩き出す。
しばらく進んだときだった。木々の奥で、ぼう、と白いものが続けて光った。
ナンジだ。千春は息をのんだ。
けれど光は、こちらへ近づいてはこなかった。
千春の前に、送り犬の背中があるからだと思った。犬の姿のときよりもずっと高い背中が。
「ナンジ、こっちに来ないね」
送り犬は、やっぱり黙っていた。
千春はリュックの紐を握り直し、黒い背中にぴたりとくっついて歩いた。
住処のそばの大きな杉の木が見えてくるころには、白い光は一つも浮かんでいなかった。
◇
「お邪魔します」
そう言って中へ入ると、置いていったタオルケットとクッションが、前と同じように壁際にあった。
自分の一角のようになっているその場所へリュックを下ろし、床板に座って一息つく。
「千春」
「うん?」
「もう寝るのか」
立ったままの送り犬が訊ねる。
まだ眠くはなかった。でも、高窓から覗く空が真っ暗で、寝たほうがいいんじゃないかとも思えてくる。
「うーん……じゃあ、夜やし、そうしよっか」
そう答えると、送り犬の目が伏せられた。
それが、ほんの少し。本当に少しだけ。しょんぼりとしているように見えた。
「……やっぱり、もうちょっとだけ起きていようかな」
そう言ってみると、送り犬の耳が少しだけ動く。それが答えのようで、口元がゆるむ。
「何か話す? 送り犬も座ろう。こっち、おいで」
呼んでから、男の人に「おいで」と言ったことがちょっと恥ずかしくなった。
送り犬は傍に来て座ると、しばらく千春をじっと見ていた。
やがて、少しだけ頭を下げる。その耳が伏せられて──。
そこでようやく、あ、と気付いた。
迎えに来てくれたとき、いつもならまず頭を撫でていた。今日は、まだだ。ひょっとして、それを待っていたのかもしれない。
千春は送り犬の頭に手を伸ばした。
「迎えに来てくれたんだもんね」
撫でながら、「いい子だね」と付け足す。指と指の間を、するすると黒い髪がすり抜けて通った。
しばらくじっとしていた送り犬が、ふいに身を乗り出し、千春のすぐそばの床板に片手をついた。長く骨張った指が、木目の上に広がる。
千春の手は、まだ送り犬の頭の上にあった。送り犬はそれをどかそうともせず、そのまま身を寄せてくる。
撫でていたはずの頭が、千春の手ごとゆっくりと肩口へ近づいてきた。
「わ……どうしたの」
顔が、肩に触れるか触れないかのところまで寄った。布越しに人の体温を感じる。
近い。
犬の姿のときなら、ただ可愛いと思うだけで済むことなのに。千春の肩が、わずかに強ばる。
──でも、これも。いつも迎えに来てくれた時にしていたやつだ。
きっと、犬の習性とか、そういうものなんだと思う。今、目の前にいるのは犬ではなく男の人なのだけれど。
「また、生きてる匂い、する?」
心臓がばくばくとうるさくなりはじめたのを自分で落ち着けたくて、冗談めかして言った。
送り犬は、肩口に顔を寄せたまま答えた。
「千春の匂いがする」
襟の裾、首の横から低い声が響き、吐息が肌に染み込んだ。
いつもの返事だったのに。
そのとき、そこに唇があることを──歯があることを意識してしまった。肌の下を駆ける感覚は、いつものくすぐったさだけではなかった。
千春は息を止めた。
襟口。
鎖骨の少し上。
匂いを辿っているのか、なにかを確かめているのか、肌のすぐそば、触れない位置を口元が滑った。
首すじに、鼻先が触れる。
思わず肩が跳ねてしまった。この近さでは隠しようなんてないのに、その反応を気付かれるのが、妙に恥ずかしくてたまらなかった。心臓が、やかましいくらいに暴れる。
「……っ」
何か言おうとして開いた口からは、言葉ではなく浅い息がこぼれるだけだった。
「千春」
首元で声がする。あの低い声が。
「嫌と言われたらやめる」
喋るたびに、吐息が布の端に触れる。
「待てなら止まる」
千春は感覚を逃がすようにゆっくりと天井を見上げた。晒してしまった首すじに、冷たい夜気が触れる。それがかえって送り犬の気配を際立たせた。
「……えっと。そこで、喋られると──」
言いかけて、千春はその先を飲み込んだ。
送り犬は、千春の言葉をちゃんと聞く。
嫌と言えばやめる。
待てと言えば止まる。
それはわかっている。
わかっているのに、千春はどちらも言えなかった。
──もし、なぜと聞かれたら。
なんと答えればいいのかわからない。
きっと、送り犬にとってこの距離に深い意味はないのだろうと思う。生きていることを、ただ匂いで確かめているだけ。
そこに人間同士としての意味を教えることが、千春にはすこし怖かった。
送り犬は、教えれば覚える。
そして覚えたものは、千春自身に返ってくる。
それを嫌だと思わない自分のことを、千春はまだ持て余していた。
ややあって送り犬が顔を離してからも、肌には湿ったような熱が、皮膚の下には甘い痺れが残った。
千春は首元に手を添え、目を閉じた。
四年前のことを思い出す。似たようなことがあった。
首元にあった口。それから──あのときは、小さく歯の音が鳴っていた。
怖かったことを、忘れたわけではなかった。息の仕方がわからなくなったのは同じなのに、今の自分の動揺は、怖さとはまったく違う理由だった。




