山伏の親子
足音が二つ──
送り犬は、顔を上げた。
住処の中は、まだ薄暗い。すぐ隣からは規則正しい寝息が聞こえる。
眠っている千春を、しばらく見た。
呼吸に合わせて上下する肩からは、タオルケットがずれ落ちている。送り犬は布の端を咥えると、そっと千春の肩までそれをかけ直した。
千春は起きない。
穏やかな寝息は続く。
それを確かめてから、送り犬は立ち上がった。
音を立てずに住処を出る。
木々の間を薄い朝日が満たしていた。踏んだ下草にはまだ、夜の湿り気が残っている。
足音は近づく。
──人間の男が二人。
ときおり山に入る、山伏の親子だった。
年上の男と、その後ろを歩く若い男。普段はこの道まで上がってくることはない。
送り犬は、二人の前に立った。
「なんの用だ」
低く言う。
「こちらへ寄るな」
年上の男は足を止めた。若い男もそれに続く。
「相変わらずつれないな、送り犬」
年上の男は、苦笑いを浮かべた。
その隣で、若い男が硬い声で言う。
「送り犬、山から人間の気配がする。何か知らないか? 生きているなら放ってはおけない」
送り犬は答えなかった。
年上の男が送り犬の背後へ視線をやる。
「……そこにいるな」
若い男が目を見開く。
「えっ」
「送り犬の住処にいる。そうだな?」
年上の男は軽さを消した声で問うた。
送り犬は言った。
「千春は生きている。問題はない。早く立ち去れ」
「ちはる……?」
若い男が、その名前を不思議そうに繰り返す。
年上の男が訊ねた。
「その──ちはるという人を、どうして山に留める。迷った人間を、なぜ送り届けない?」
知らず、尾がわずかに揺れた。
それは喜びだけではなかった。
「千春は、望んで山に来ている。山の神が、その望みを聞き入れた」
「山の神が?」
年上の男の声が低くなる。
若い男が顔をしかめた。
「それで、なぜ送り犬のところにいる。山の神が招いたのならば、山の神のものではないのか」
送り犬は少しだけ言葉を探した。
「千春は」
声が、少し遅れる。
「俺のところへ来ている」
年上の男が、瞬いた。
「俺?」
送り犬はそれ以上答えなかった。
「それは……ますます放っておくわけにはいかない」
若い男が慌てたように言った。
「その人間に直接確認したい。自分の意思だなんて信じられない」
「千春は今、眠っている。構うな」
「なら、起こしてでも確認する」
「必要ない」
「人間を帰すのが、送り犬の役目じゃないのか」
若い男の言葉に、送り犬は黙った。
ふと、耳が動く。
住処の中で、布の擦れるかすかな音がした。
送り犬は振り返った。
──千春が起きる。
「ミカヅキ……?」
離れた住処の中で落ちた小さな声を、確かに耳が拾い上げた。
身体が先に動く。
送り犬は二人を置いて、住処のほうへ駆けていた。
◇
目が覚めると、送り犬がいなかった。
「ミカヅキ……?」
呼んでも、返事はない。
千春はゆっくり身を起こす。
肩にはタオルケットがかかっていた。寝ていたわりにはきっちりと掛けられている気がして、少しだけ首を傾げる。送り犬が直してくれたのだろうか。
「ミカヅキ、どこ?」
もう一度呼んで、千春は立ち上がる。入口のほうへ向かい、扉を開いた。
たちまち、外から朝の光が溢れるように差し込んだ。目映いその向こうから、黒い大きな犬が駆けてくる。四本の脚が力強く地を蹴っていた。
「千春」
低い声で名前を呼びながら、送り犬がすぐに足元まで来る。
「大丈夫? どこか行ってた?」
「大丈夫だ。中に戻れ」
「え?」
千春が戸惑っていると、ぱきっと木の根を踏む音が響いた。送り犬の駆けてきたほうから、人影が二つ現れる。
「ん? ……人?」
千春は目を凝らしながら呟いた。この山で、自分以外の人間を見るとは思っていなかった。
近づいてきたのは、どちらも男の人だった。
四十代くらいの大人と、もう一人は千春と同い年くらいに見えた。顔立ちが似ていたので、ぱっと見て親子かなと思った。
走ってきたのか、年上の人は杖を両手でつき、その場にへたり込まんばかりに肩で息をしていた。若いほうの人も息は上がっていたが、目だけは鋭く千春を見据えていた。
年上の人が息を整えながら、千春に向かって軽く頭を下げる。
「こんにちは。お嬢さん」
「あ、こんにちは」
千春も頭を下げた。送り犬が、千春の脇に体を寄せる。白い装束の二人の姿を見たままじっとしていた。
千春は屈み、送り犬の首のあたりに手を置く。
「ミカヅキ、どうしたの」
撫でながらも、千春には自分でも状況がよくわからなかった。
若いほうの人が、信じられないものを見るような顔をした。年上の人も驚いたように目を見開いたあと、頬を掻きながら言った。
「ミカヅキ……というのは? うーん……お嬢さん、少し話を聞いてもいいかな」
「話、ですか」
「あなたが、どうしてここにいるのか」
答えようとして開いた口を、千春は閉じた。
周囲を見回す。木々の枝が朝の光を受けて揺れていた。
今も、見られているかもしれない。千春の肩に、少しだけ力が入る。
「あの」
千春は二人へ視線を戻す。
「立ち話もなんですから、中に入りませんか」
若いほうの人が眉を寄せた。
「中?」
「はい。えっと、送り犬の住処ですけど」
言ってから、千春は送り犬を見る。
「入ってもらってもいい?」
「……千春がそうしたいなら、そうしろ」
送り犬はそう答えると、先に扉の中へと入っていく。
年上の人は送り犬の背中をじっと見つめながら、そのあとに続いた。
若いほうの人は躊躇しているらしかった。千春がどうぞ、と手で促して、ようやく住処へと足を踏み入れた。
住処の中に、自分以外の人間が二人いるのは、なんだか不思議な感じがした。
年上の人は入り口に近いところへ腰を下ろし、若いほうの人はそのそばに立ったままだった。
送り犬は千春のすぐ横に伏せ、じっと動かない。けれど、耳は二人の声を追い、金色の目だけは一度もそちらを離さなかった。
「まず、確認させてほしい」
年上の人が言った。
「あなたは、自分の意思でここへ来た。さきほど送り犬からそう聞いたんだが、本当かな」
「本当です」
「それは、どうやって」
「山の神様に、お願いして来ています」
「山の神に」
「はい。えっと……毎回、山の神様が道を開いてくださることになっていて。七回までなら自由に行き来していい、って言われています。それで──今が四回目、です」
二人は言葉を失ったように口を開けて固まっていた。
千春は、自分がどれほど奇妙なことを言っているのか、遅れて自覚した。
こうして言葉にすると、たしかに普通ではない。
若いほうの人が絞り出すような声で言った。
「……あんた、山が怖くないのか」
「ナンジは怖いですけど……送り犬が一緒にいてくれるので、大丈夫です。不思議なところだな、とは思いますけど」
「不思議って……。そもそもなぜ望んでここに来る」
千春は一瞬答えに詰まり、送り犬を見た。
理由はひとつしかない。
「送り犬に会いたいので、来ています」
「送り犬に?」
千春が頷くと、若いほうの人が訝しむような顔で続けた。
「それだけで、山へ? ……なにか人の世が嫌になることでもあったのかもしれないけど、今すぐ考え直したほうがいい。早まるようなことは──」
「えっ! 違います。別に、なんか嫌なことがあったからこっちに来てるわけじゃないですよ」
「だったら、余計にわからない。なんの理由があって山へ来る。送り犬に会いたいって──それは、ただ非日常に浮かれてるだけじゃないのか」
「うーん……」
千春は首を捻りながら、送り犬の頭にそっと手を置いた。送り犬は何も言わないまま、目だけをこちらへ向ける。
「……本当に、私。ただ会いたいだけで」
そう言って毛並みを撫でると、送り犬の尾が一度だけ揺れた。
「お嬢さん」
年上の人の声が響き、視線を戻す。
「ひとまず、忠告だけはさせてほしい。気に入られるにしろ、不興を買うにしろ──神と目が合ってしまっている、ということは恐ろしいことだよ。どう転んでも、我々人間には太刀打ちのしようがないからね」
千春は、送り犬の毛並みから手を離し、膝の上で指をきゅっと握った。
もっともだと思った。
山の神は、恐ろしい。
「それから──」
言いかけて、年上の人はそこで口をつぐんだ。そのまま、送り犬のことをじっと見て黙る。
「──危ないのは、山の神だけじゃない」
かわりに口を開いたのは、若いほうの人だった。
「見たところ、あんたはなにも知らずに接しているみたいだけど。送り犬だって、山の怪だ。普通の犬じゃない」
千春は少しだけ眉を下げた。
「普通の犬じゃないのは、わかってますけど」
「わかっていない!」
若いほうの人が即座に言った。
年上の人が「こら」と嗜めるが、彼は構わず言葉を続ける。
「わかっていたら、そんな近くにいられるはずがない!」
住処の中が、しんと静かになった。
送り犬は何も言わない。伏せたまま、ただ二人へ目を向けていた。
続けようとする若いほうの人を、年上の人が軽く片手を上げて制止する。
「私が話すよ。……お嬢さん。ショックを受けるかもしれないが──」
年上の人は、苦々しい顔で言葉を続けた。
「送り犬は、人を食う山の怪だ」




