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人を食う山の怪



「送り犬は、人を食う山の怪だ」


 年上の人の慎重そうな声が、住処の中に落ちた。若いほうの人はその横で、難しい顔をして千春を見ていた。


 千春は、すぐには答えなかった。


 でも、驚いたからではない。


「……そう、ですね」


 千春は言った。


「知ってます」


 二人の目が大きく見開く。


「知っている?」


「はい」


 千春は横に伏せている送り犬を見た。送り犬も、千春を見ていた。


 千春は顔を上げて、四年前のことを話した。

 そのときは、迷い込んで出会ったこと。

 転んではいけない、立ち止まってはいけない、振り返ってはいけない。決まりを守り、歩いたこと。

 ナンジに引かれそうになったところを、送り犬が名前を呼んで引き止めてくれたこと。


 そして──白い砂礫地の上、人の世に繋がる門の目前で、転んでしまったこと。


「──あのとき、私、送り犬に食べられかけたんだと思います」


 年上の人が、息を止めたのがわかった。

 若いほうの人は、言葉を失ったように千春を見る。


「歯が、カチカチ鳴って」


 言いながら、千春は自分の首すじに手を当てた。


「このへんに、口があって」


 送り犬の耳が、わずかに伏せられる。


「でも、食べずにいてくれました」


 千春は、再び送り犬へ視線をやった。


「ね?」


 送り犬はなにも答えなかった。


 住処の中が、しばらく静かになった。山伏の親子は、黙って千春と送り犬を見ていた。

 ややあって、若いほうの人が口を開く。


「……知っていて」


 ようやく出てきた声は、掠れていた。


「知っていて、ここにいるのか」


「はい」

 

「どうして、そんな……」


 そう聞かれて、千春は困って笑った。


「どうして、って言われても……食べなかったから、ですかね」


「まともじゃない」


 若いほうの人が吐き捨てる。


岳斗がくと、言い過ぎだ」


 年上の人が叱るような口調で言った。

 呼ばれた若いほうの人──岳斗は、口を閉じる。納得した顔はしていなかった。


「すまない。名乗るのが遅れたね」


 年上の人は、千春へ向き直った。


「私は安河やすかわという。こちらは息子の岳斗だ」


「安河さんと、岳斗くん……あ、私は、千春です」


「うん。送り犬から聞いていたよ、千春さん」


 安河は少し苦笑した。それから、改めて千春を見据える。


「あなたがここに来たいという意思を、我々が止めることは難しそうだね。ただ、山が危ないことに変わりはない。送り犬があなたを害さないとしてもね。それだけは心に留めておいてもらえるかな」

 

「……はい」


 千春は頷き、改めて二人を見た。白い装束に身を包み、杖を携えている──こういう格好の人を、祖母の家のあたりで何度か見たことがある。行者さん、だっけ。


「……あの、お二人は、どうやってこちらに来てるんですか」


「私たちは山伏の修行でね。山駆けといって、山の中を巡るんだ」


「山駆け……」


「その最中で、こちらへ渡ってくることがある。山の奥は、こちらとあちらの境が曖昧だからね」


 千春は思わず身を乗り出した。


「あの! その修行をしたら、私も自分でここに来られますか」


「千春さんが?」


 安河が聞き返す横で、岳斗が顔をしかめて言った。


「今の話を聞いて、やろうと思うのはおかしいだろ」


「でも、神様にお願いしなくても来られる方法があるなら、知りたいなって」


「いや、だから、こっちに来ることがまず危ないんだけど……やっぱりわかってないなあんた」


「無理ですか?」


「それは……難しい、だろうね。何年もかけて身体で道を覚えるものだし、なにより女人禁制の行場もあるから。山の神が開く道の代替案には、ならないと思うな」


「そっかぁ……そうなんですね……」


 千春は肩を落とした。

 でも、安河にすぐに向き直る。


「あ、安河さん。送り犬のことで、なにか知っていることはありませんか」


「送り犬のことで?」


「はい。送り犬、昔は自分で道を開けたみたいなんです。でも今はできないって……それがいつからかもわからないみたいなんですけど。なにか、知りませんか?」


「道を開けた、というのは興味深いが……あいにく初耳だね」


「そうですか……送り犬って、なんなんでしょう……」


「うーん、そうだね。送り犬という伝承自体は、全国的にあるみたいだよ。土地によって少しずつ形は違うようだけれどね」


 岳斗が硬い声で付け足す。


「犬ではなく、送り狼、と呼ぶところもある。どちらにしても、山の怪だ。人を食う、山の怪」


「岳斗」


「事実だろ」


 安河は息子を一瞥してから、千春へ視線を戻す。


「送り犬に限らず、犬が人を導く話は古くからある。神話にもあるし、高僧が山中で犬に案内されたという伝承も残っているよ」


 千春は小さく頷いた。


「それから──犬や狼は、境を守り、家を守り、家畜を守ることから、魔除けのような力を持つものとして祀られることもある」


 千春は横の送り犬をちらりと見た。


「祀られる……って、神様みたいにってことですか」


「狼信仰とか、大口真神……千春さん、そういったものを聞いたことは?」


「……ないです」


 千春は首を振った。 


「まあ、私も……目の前の送り犬が何なのかを言い当てられるわけではないんだけれどね」


 安河はそう言って笑い、送り犬を見た。


「──ただ、山伏の間でも。迷い込んだ先で犬に助けてもらったという話はいくつも伝わっている。山の神の御使いかと言う人もいるが、どうなんだろうね」


 山の神の御使い。


「……それは、ちょっと違うかも」


 思わず呟いてしまった。

 安河と岳斗がじっとこちらを見る。


「あ……えっと。山の神様は、送り犬のことを気にしているみたいなんですけど」


「ああ、千春さんは山の神と会っているんだったね」


「はい」


「……それも十分おかしいんだけどな」


 岳斗が小さく言った。

 千春は聞こえなかったふりをした。


「でも、送り犬は山の神様のものって感じじゃなくて。うまく言えないんですけど、神様も、そういう扱いはしてないっていうか」


 安河が首をひねる。


「神様は、山で起こることを何でも知っているらしいんですが、この建物の中でのことだけは見えていないみたいなんです」


「知っているって……どうやって?」


 岳斗がすぐに尋ねた。

 千春が答えるより早く、送り犬が口を開く。


「烏が見ている」


 住処の中の視線が、送り犬に集まる。


「あれは、山の神の目になる」


 千春は、瞬きをした。


「え」


 送り犬を見る。


「そうなの?」


「そうだ」


「えっ、えー! なんで今まで言わなかったの」


「烏は見ているだけだ」


 送り犬は当たり前のように続けた。


「何もしてこない」


「いやいやいや、見てるだけでもさぁ……」


 千春は言いかけて、言葉に詰まった。

 見ているだけ。送り犬にとっては、たぶん本当にそれだけなのだ。


「……神様にからかわれるし、私は恥ずかしいけどなぁ」


「千春が嫌なら、追い払う」


「でも、それで神様を怒らせたくないし……」


 千春は息を吐く。


「送り犬は、恥ずかしくなかったの? 神様に嫌な言い方されてたでしょう」


 送り犬は首を傾げると、何の迷いもなく言った。


「山の神の言葉を気にしたことがない」


 千春は、あ、と思った。

 これまで、山の神と送り犬は仲が悪いのだと思っていた。でも、違うのかもしれない。


 山の神は送り犬を見ている。気にして、からかって、千春にいろいろ聞いて、知りたがっている。

 でも、送り犬は山の神を見ていない。


 仲が悪いというより、向いている方向が違う気がした。


 安河が小さく咳払いする。


「さて、そろそろ私たちはお暇するよ。建物の中は見えていないと言っても、山の神に目をつけられては怖いからね」


「あっ、見送ります」


 送り犬も、何も言わずに千春の横へ並ぶ。


 ──人を食う山の怪。

 知っていたはずのことが、他人の声で聞くと、少しだけ違う形をして胸に残った。

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