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追いかけっこ


 二人の足音が遠ざかっていく。

 安河は、また様子を見に来ると言った。岳斗は、最後まで納得のいかない顔をしていた。


「……びっくりしたぁ。人が来ることもあるんやね」


「山伏は、ときどき山へ入る」


「そうなんや」


 千春は送り犬の頭に手を置いた。毛並みを撫でても送り犬は目を細めなかった。


 住処のほうを見る。人を食う山の怪、山にいる危険、神の目になる烏。さっき聞いた言葉が、まだあの中に漂っている気がした。千春は小さく息を吐く。

 なんとなく、住処の中にいたくなかった。


「ミカヅキ。ちょっと歩きたい」


「どこへ」


「うーん。どこでも。散歩しよう」


「散歩?」


「一緒に歩きたいだけ」


 ややあって、送り犬は枝の上へ鼻先を向けた。烏がくりくりした目でこちらを見下ろしている。


「……追い払うか?」


「ううん、いいよ。ちょっと嫌やけど、大丈夫。それに送り犬は気にしてないんでしょ」


「気にしない」


「じゃあ、いいよ。行こ」


 そう言うと、送り犬は歩き出した。黒い尾が目の前でゆったりと揺れる。


 会話はなかった。

 た、たん。た、たん。

  千春は、その軽い足音をただ静かに聞いていた。


 送り犬は危ない。山は危ない。来ないほうがいい。

 住処に置いてきたはずの話が、次第に頭の中を巡り始める。

 

 千春は足元の草を避けながら口を開いた。


「ねえ」


「なんだ」


「追いかけっこしよ」


 言うと、送り犬はこちらを見上げて首を傾げた。

 その金色の瞳が不思議そうに瞬くのを見て、千春は笑った。笑うと、ふっと身体が軽くなる。

 

「ミカヅキ、待て」


 送り犬がぴたりと止まったのを見るなり、千春は走り出した。


 胸の奥で絡まったままのものを、少しでも振り払いたかった。

 自分でも、子どもみたいだと思う。

 山で転んではいけない、そう語り聞かせた祖母の声が頭をよぎる。

 それでも、足が動いた。

 下草を踏み、木の根を避ける。枝がかすかに腕をかすめるのも気に留めず、風が耳元を抜けていくのをただ感じていた。

 空気が肺に突き刺さる。

 ある程度、距離が開いたはずだ。


 一度だけ振り返る。遠く、黒い犬はそこでじっと待っていた。


 「ミカヅキ、よし!」


 叫んで、すぐにまた前を向く。


 背後は静かだった。

 千春はとにかく足を動かす。


 た、たん。

 軽い音がたった一度だけ耳に届いた。


 次の瞬間には、すぐ後ろに気配があった。


「え、速──」


 言い終わる前に、横から黒い影が回り込んだ。

 千春は足を止めようとして、けれど、勢いのままに足が絡まった。身体が傾く。


「わっ」


 尻もちをついた。下草が柔らかく、幸いそれほど痛くはなかった。思いがけず空を見上げることになった千春は、そのまま仰向けに近い姿勢になった。

 

 木々が枠取る、青い空が広がっている。


 その間に、送り犬の顔が入ってきた。

 金色の瞳が、こちらを見下ろす。


 千春は息を弾ませたまま、笑った。


「送り犬は、走るのが速いね」


 送り犬は何も言わなかった。


「本気で来られたら、逃げ切れないよ」


 言ってから、その言葉が胸の深いところへ落ちた。


 下草の上から、送り犬を見上げる。

 犬の姿。黒い毛並み。まっすぐ立った耳。

 静かに開いた口の、その奥に──白い牙が見える。


 送り犬は一歩近づくと、千春の肩の横に前脚を置いた。

 逆光のためか、金色の瞳には光が差していなかった。


「千春」


 顔が近づく。鋭い牙に視線が向いた。

 

「逃げると」


 その口から、低い声が落ちる。


「追いたくなる」


 背中のあたりに、ぞくりとしたものが走った。

 送り犬を見上げたまま、千春の喉がひゅっと短く鳴る。


「怪我はないか」


 送り犬がいつものように首を傾げたのを見て、千春はようやく息が吸えた。


「……私なんて、あっという間に追いつかれちゃうね」


「千春は遅い」


「送り犬と比べたら誰でも遅いよ」


 言いながら笑うと、黒い鼻先が髪のそばに寄った。

 そのすぐ下には口がある──でも、やっぱり怖くはない。


「大丈夫」


 千春は手を伸ばした。送り犬の頬の横の毛に指先で触れる。金色の目がほんの少し細くなった。


「私、大丈夫だよ」


 言いながら、胸の奥がゆるんだ。

 少しして、送り犬は千春のそばから退いた。立ち上がれるだけの隙間ができる。千春は草を払いながら身を起こした。心臓の音はまだ早かった。

 走ったから。転んだから。送り犬に見下ろされたから。きっと、その全部だ。


 山で送り犬に会ったら、転んではいけない。

 振り返ってはいけない。 


 けれど千春はもう、何度も送り犬を振り返り、目の前でこうして転んでもいる。

 それでも送り犬は、千春を食べない。


「戻るか」


「そうだね」


「明日は帰るんだろう」


「うん」


 千春は送り犬に続いて歩き出した。


 下草の上、千春が倒れた跡は、背後でまだ残っていた。


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