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確かめる



 夜になり人の姿となるたびに、送り犬は自分の手を見る癖があった。握っては開き、じっと見下ろす。

 今も、千春から少し離れたところでそうしていた。


「ミカヅキ」


 呼ぶと、黒い髪の上で獣の耳が動く。


「その姿、慣れた?」


 送り犬は、自分の手を見下ろしたまま答えた。


「まだ見慣れない」


「そっかぁ」


 送り犬はまた手を開いた。長い指が、薄暗い住処の中で伸びる。低い声が、静かに落ちた。


「手があるのは」


 そこで言葉が止まる。千春は首を傾げて続きを待った。


「……良いな」


「良い?」


「そうだ」


「便利ってこと?」


 送り犬が顔を上げた。まっすぐに、千春を見る。


「千春に触れられる」


 心臓が跳ねた。


「……そういう、良い?」


 送り犬は真面目な顔をして頷く。少しの照れも躊躇もない。


「送り犬は──」


 言ってから、千春は少しだけ言葉を探した。しばらく口をもごもごした後、結局、そのままの言葉しか出てこなかった。


「……私に、触りたいの?」


「触れたい」


 即答なんだ、と思った。


「それは、その。……どうして?」


 送り犬は、こちらを見たまま黙った。金色の瞳がゆっくり瞬く間、千春は早くその答えを知りたいのか、知ってしまうのが怖いのか、矛盾したような心地がした。

 送り犬がようやく口を開く。


「……わからない」


 見つからなかったらしい。


「わからないかぁ」


 言いながら、肩から力が抜けた。困ったのかほっとしたのか、千春は笑ってしまった。


「千春が嫌なら、触れない」


 送り犬が言った。

 本当に、嫌だと言えばそうするんだろうなと想像して、千春は胸の奥を掴まれたようになった。

 触れられないのはちょっと寂しいなと思った。


 千春はそろそろと送り犬の隣に近寄り、座り直した。

 大きな手を、ちらりと見やる。無骨な手の甲から手首にかけて、くっきりとした静脈が浮かんでいる。

 ──自分の手との違いをそうして意識してしまうこと自体に、千春はひそかに戸惑った。


「……嫌なところは言う。だから、それ以外なら、いいよ」


「それ以外なら」


「そう。嫌なら、私ちゃんと言うから」


「……嫌なら、やめる。待てなら、止まる」


「うん。そうしてくれるなら、大丈夫だよ」


 千春は息を吸った。


「じゃあ……手から」


 自分で言って、少し照れる。


「お手か」


「あ、うん。お手、かな」


 千春が右手を出すと、送り犬も応じた。自分の手を、その大きな手のひらに乗せる。


 確認するように、送り犬がこちらを見た。

 頷いて返すと、親指がそっと動く。

 手の甲から指の先を辿り、爪の形を確かめ、裏返して今度は手のひらの窪みを柔く押す。


 くすぐったい。

 でも、嫌ではなかった。


 送り犬の指が、千春の手首へ移る。脈のあたりを擦られたとき、指先がぴくりと跳ねた。

 送り犬が目を上げる。


「ここは嫌か」


 前にここで止めた、と思い出した。


「……嫌、じゃない。ここは、ちょっと、びっくりするだけ」


 送り犬の手が、またゆっくり動き出す。

 手首の内側から、するすると腕の側面へ進む。触れられるたびに身体の輪郭を示されるようで、急に自分の腕が頼りないものみたいに思えた。


 肘の少し上。二の腕の外側。熱のある手のひらが、ゆっくりと上へ這っていく。


 少し硬い指先が、千春の半袖の端に触れた。


 そのまま、袖の内側へ指先が滑り込む。


「あっ」


 送り犬の手が止まる。


「嫌か」


「えっと」


 千春は慌てて自分の袖口を押さえた。


「服の下は、だめ」


 送り犬は千春の服の袖をじっと見る。


「服の下」


「うん。だめ」


「わかった」


 手が、ゆっくり引き戻される。千春は小さく息を吐いた。顔を上げると、金色の瞳と目が合った。


「服の上は」


「……服の上なら、もう少しいいよ」


 送り犬の手が、服越しに腕の形を辿っていく。直接肌に触れているわけではないのに、皮膚の下に意識がむいてしまう。


 大きな手のひらが、肩のほうへ滑った。

 力を入れれば掴めるのに、送り犬は肩を掴んだりはしなかった。ただ、骨の形を覚えるように触れていく。


 千春は送り犬を見た。

 まつ毛で伏せられた金色の目が、慎重そうに手元を見ている。昼間に見下ろされたとき、昏く見えたあの目とは結びつかない。でも、同じ送り犬なのだと思った。


 千春は、自分でもほとんど考えないまま口を開いていた。


「ミカヅキ」


「なんだ」


「私のこと、まだ食べたいと思う?」


 鎖骨のあたりで、送り犬の手が止まった。


 外から聞こえてくる虫の音が、しんと静かな住処に響く。言ってから、千春は少し後悔した。どういう答えがほしかったのか、自分でもよくわからなかった。


「食わない」


「うん?」


「食わない」


 送り犬は、同じ声でもう一度言った。切実そうでも、誤魔化すようでもなく、事実を言うみたいに落ち着いた言い方だった。


「……食べたいかどうかを、聞いたんやけど」


 沈黙が落ちる。送り犬はじっとしていた。その視線の先にあるものが、送り犬自身の手元なのか、それとも千春の喉なのかはわからない。

 でも、やっぱり。怖くはない。


「そっかぁ……」


 千春がそうこぼすと、送り犬の耳が小さく震えた。


「……うん。わかってたのに、聞いちゃったかも」


 耳を澄ませるみたいに、立った獣の耳の根元にぐっと力が入っている。


「信じてるって言ったほうが、正しいかもやけど」


「信じている」


 送り犬はようやく顔を上げ、その言葉をなぞった。


「うん。送り犬は私のことを食べないし、嫌がることをしないでしょ。私、ちゃんとわかってるし──送り犬のこと、信じてるよ」


 風が吹き抜けたのか、板戸が小さく音を立てた。その音が少しだけ長く続く。千春は高窓を見上げ、外の木々がざわめいているのを一瞥してから言った。


「──でも、それでも、確かめたくなっちゃった」


「確かめる」


「そう。わかってるのに、知りたいの」


 送り犬は黙っていた。続きを促すような視線だけを寄越す。

 襟元の近くで止まったままの手が、あたたかい。互いの体温が溶けて交わるようだと思った。


「確かめる、は……なんて言えばいいんだろう。あ、触りたくなるのと似てるかもね。触ると、ここにいるなってわかるでしょ」


「……千春は、ここにいる」


 言いながら、送り犬の親指が千春の鎖骨をゆっくりなぞる。


「っ……」


 わずかに息がつっかえた。

 頭の芯まで届くこの痺れも含めて、この触れ合いをただ確かめる行為だと済ませていいのかはわからない。


 でも、触れたいというのは、一方のものではない。


「送り犬も、ここにいるね」


 腰を浮かして、黒い髪に手を伸ばす。犬の耳の間を優しく撫でた。


「また会えたな、今一緒にいるなって実感できるから、触りたくなるのかも」


 離れていた四年間は、ずっとなにかが足りない気がしていた。

 今は違う。

 目の前に金色の瞳がある。低い声が自分の名前を呼ぶ。そのひとつひとつが、胸の鼓動を確かにするような気さえした。


「私は、毛並みの触り心地が良かったり、可愛いなって思うから手が伸びちゃうこともあるけどね」


 そうつけ足し、笑う。送り犬はなにも言わない。ただ、少しだけ目を細めていた。


「じゃあ……今日はここまでね」


「わかった」


 送り犬はすぐに手を離す。


「今日はもう寝よう。おいで、ミカヅキ」


 並んで横になる。

 タオルケットを分け合ってかけた。


 すぐ傍にある呼吸が安心する。

 意識が溶けて眠りにつくまで、それほど時間はかからなかった。


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