異物
玉砂利を踏む。葉擦れの音が、ここだけ聞こえない。
薄暗い拝殿の奥に、白い人影があった。
「此度は、ずいぶんと犬の巣に籠もっておったな」
いつもより少しだけ早い口調で山の神が言った。千春は丁寧に頭を下げる。
「今回も、お世話になりました」
「誰にじゃ?」
山の神は笑った。
「吾か。犬か。それとも、犬の巣へ招き入れた人の子らか」
やっぱり、それは知られている。千春は一瞬、答えに詰まった。
「……山で、人に会うと思っていなかったので。話してみたくなって……」
「犬では足りぬか」
千春は喉の奥が少し乾くのを感じた。
「そういう意味じゃないんですけど……」
「ほう」
山の神は目を細める。
「して、何を話した」
ここは、正直に話したほうがいい。
「……山に来る方法を聞いてみました」
「ふん、それで」
「私には難しいと、そう言われました」
「そうか」
千春は目を持ち上げる。
「神様のおかげで、私は送り犬に会えているんだなと、改めて思いました」
言いながら、千春は自分の声が少し白々しくないか気になった。
けれど、まったくの嘘でもない。山の神が道を開かなければ、千春は送り犬に会えない。帰ることもできない。
山の神は、しばらく千春を見ていた。
それから、喉を慣らしてくつくつと笑った。
「口がよう回る娘じゃな」
「……恐れ入ります」
「褒めてはおらん。されど、気分は悪うない」
そう言って、山の神はじっと千春を見た。
「山伏どもは、ほかに何を言うた」
「山は危ないから、と心配してくれました」
「人は、人を気に掛けるものよな。犬はどうしていた。何か言うたか」
「送り犬は、いつも通りでした」
「いつも通り……つまらぬ返しじゃ」
山の神が爪を見ながらため息交じりに言った。
「神様は──送り犬のことを気に掛けておられるんですね」
山の神の視線が、ゆっくりと千春へ移る。肌が粟立った。薄暗い拝殿全体が、千春の方を向いたような感じがした。
「……気に掛けて?」
山の神は、時間をかけてその言葉を繰り返した。
「言葉を選べ、チハル」
千春は黙っていた。硬い唾を飲み込む。
「吾はあれを気に掛けてなどおらぬ。あれは、吾の腹の内にある異物じゃ」
「……異物」
「そうじゃ」
そう言ってからの山の神の声は、ひどく穏やかになった。
「山は吾のもの。木も、土も、水も、獣も、草の根も、みな吾の腹の内じゃ。されど、あれは馴染まぬ。あれは山におっても、吾のものにはならぬ」
「送り犬は、山のものじゃないんですか」
「……さあな、知らん」
投げるような言い方だった。
「あれは、あるとき山におった。それだけじゃ」
千春は黙って続きを待った。
「吾の許しもなく山に入り込んだものが、今も山におる。気にならぬほうがおかしかろう」
自分のものにならないものが、自分の内側にある。
それが気に食わない。
それが気になる。
「吾の使いが烏となったのは、あの犬が山に来てからじゃ」
山の神は、拝殿を囲む木々の枝をゆるりと見上げた。葉の陰に紛れるように、羽を畳んだカラスが何羽も止まっている。
カラスが山の神の目になるのだと、送り犬は言っていた。
山の中は、神の目に映る。けれど、カラスの入り込めない送り犬の住処だけは、その目の外にある。
山の神は淡々と続ける。
「地を歩くものは、犬を恐れる。兎も、狐も、猪も、貂も。山のものはみな、あれの気配を怖がった。あれが通れば避け、あれが近づけば身を隠した」
千春は、一言一句、聞き逃すことのないように山の神の言葉を頭でなぞった。
知りたいことはたくさんある。
送り犬は、なんなのか。
どうすれば、また道を開けるようになるのか。
けれど、ここで踏み込みすぎれば、またあの冷たい声が落ちる。言葉は選ばねばならない、さっきそう言われたばかりだ。でも、何が許されてどこからが怒らせるのかなんてわからない。
千春は、自分の手をそっと握り、恐る恐る聞いた。
「神様は、送り犬を……追い出したいんですか」
山の神は、しばらく黙ってから答えた。
「追い出せるものなら、そうしておる」
どこか愉快そうな声に聞こえた。
「あれは、腹から出せぬから異物なのじゃ」
「そうですか……」
山の神はそこで、じっと千春に視線を留めた。
「しかし──まこと、奇妙じゃ。ここまで何をしても響かなかったあの犬が、おぬしのことでは取り乱す。ようやく吾のほうを見て唸る」
千春は何も言わなかった。
「ふふ、楽しいて仕方がない」
山の神は満足そうに笑った。
「チハル。此度が四度目の帰り道じゃ」
千春の指先が、わずかに強張る。
「残りは、三度」
「はい」
「ああ、来ぬでもよいぞ」
「……また来ます」
「ふふ。そう言うと思うた」
「じゃあ、聞かなくても……」
「聞きたいのじゃ。人の娘が、何度同じ答えを出すのか。見てみたいであろう」
「……」
嫌なことを言う。
千春はひそめた眉を隠すように頭を下げた。
「また……よろしくお願いします」
「構わん。吾が道を開かねば、おぬしは犬に会えぬからな」
そうだ。そこは、否定のしようがない。
千春はもう一度頭を下げ、拝殿を出た。




