同じこと
五度目に山へ来たとき、千春は今まででいちばん重いリュックを背負っていた。
資料のコピーや、祖母から聞いていた話を書き留めたメモ。住処に着いてすぐ、千春はリュックからそれらを取り出した。
「ミカヅキ、見て」
昼の明るい光が差す床板に、千春は紙を広げる。送り犬はそばに座り、静かにそれを覗き込んだ。
「あ……字、読めたよね?」
「少しだけ読める」
「そっかぁ、良かった」
千春は笑い、紙に視線を落とした。
漢字の多い文章。知らない土地の名前。古い言い回し。似たような伝承──読めば読むほど、わかったような気になるのに、どれも目の前にいる送り犬とどう関係するのかはわからない。
「何もせずに来るのも嫌やったから、あっちにいるときに調べるだけ調べて、いろいろ持ってきてみたんやけど……」
送り犬は黙ったまま、紙の上を目で辿る。
「なんか思い出すこととか、あったりする……?」
しばらくして、送り犬が顔を上げた。
「……わからない」
「そっかぁ……」
千春は小さく息をついた。
「うーん。どうしたらいいんやろう、神様は教えてくれないよね……いけずやし」
「いけず」
「ああ、えっと……意地悪は、わかる? 神様の、あの感じ」
送り犬は首を傾げた。
「わかんないか。送り犬は、神様になに言われてもあんまり気にしてないんやもんね」
「一度も気にしたことがない」
きっぱりとそう言い切られ、思わず苦笑してしまった。
「──でも、それでいいのかも」
千春は送り犬の頭へ手を伸ばす。少し硬い毛並みに指を沈める。
「送り犬は、そのままで。神様になんか言われても、無視してていいよ。たぶん、それが一番、神様にはむかつくと思うし」
「むかつく」
「うん。そう。それが一番、神様には効く気がするから」
言いながら、耳の付け根のあたりを親指で揉みほぐす。
送り犬はくすぐったそうに瞼をぴくりと揺らした。
「耳、触られるの嫌じゃない?」
「……嫌ではない」
「じゃあ、もうちょっと」
耳の先に指を滑らせる。送り犬は逃げようとはせず、おとなしく身を任せてくれていた。
薄い耳の縁を親指と人差し指で挟むと、しなやかな軟骨が柔く弾力を返してくる。
送り犬は、ゆっくり瞬きをしたあと、やがて目を伏せた。穏やかそうな呼吸を続けている。
次は背中を撫でようかな、と千春が手を浮かせかけたときだった。送り犬が顔を上に向ける。手のひらにぐり、と黒い鼻を押しつけてきた。
「なに?」
撫でるのをやめると思って、催促しているのかなと思った。
「まだ触ってていいの?」
答えはなかった。送り犬は千春の手のひらに鼻先を押しつけたまま、じっとしている。
可愛い──
千春は、両手で送り犬の顔を包んだ。
「……あれ、ほっぺ硬いね」
昔、祖母の家で飼っていた犬の頬は、皮がもちもちと伸びて柔らかかった。
でも、送り犬の頬は、違った。
見た目はふっくらして見えたのに、触れると骨格ががっしりしていて、それに密着するような皮膚は硬く引き締まっているらしかった。
普通の犬ではないんだな、と改めて思う。
頬を撫でていると、白い牙がちらりと見えた。
「あ。口の中、見てもいい?」
「なぜ」
「牙、見たいなって」
「危ない」
「見るだけやから」
顎の下に手を添えて頼むと、送り犬はしばらく千春を見ていた。 ややあって、その大きな口を開ける。
目の前に現れたのは、ずらりと並ぶ牙だった。鋭い切っ先が白く光っている。
「わぁ。すごいね」
ナイフみたいで、ちょっとでも触ったら指先が切れそうだと思った。
けれどこの牙は、どれだけ近づいても千春を傷つけることはない。四年前も、今も。
「おっきい口……」
顎を支えたまま覗き込む。喉の奥は真っ暗だった。 見ていると吸い込まれそうな暗さだと思ったところで、送り犬が口を閉じる。
「……確かめ終わったか」
「ん?」
「触るのは、確かめるためだと千春が言った」
たしかに、そういう理屈だったことを思い出す。
今、目の前にいることを確かめたくて、触れたくなるのかもね──、前回来たときにそう話していた。
千春は、途端にバツが悪くなった。
今は、ただ本当に、興味本位で触っていただけだった。誤魔化すように、小さく頷く。
低い声が落ちる。
「では」
「うん?」
「夜に、同じことをしても構わないんだな」
「え?」
え? え!?
「夜に?」
「そうだ」
「同じことって?」
「同じことだ」
「な、なんで」
「確かめるためだろう」
千春は固まった。
夜は、送り犬が人の姿になる。
あの大きな手で自分の耳に触れられることを想像した。そして顎を持たれ、口を開けろと言われる自分も想像してしまう。
頭の中が一瞬でいっぱいいっぱいになった。
千春は、慌てて送り犬から手を離した。
「それは、ちょっと……困るかも。ひょっとして、さっきの嫌だったの?」
「嫌ではないと言った」
仕返しとか、そういう意味ではないらしい。
ただ単に確かめたいだけ。
同じことを。
千春は落ち着かない心臓を服の上から押さえながら、言葉を探した。
この、ひどく律儀な相手を納得させるために、どう言えばいいのか。必死に思考を巡らせる。
でも、会うと確かめたくなる、と教えたのは自分で、そもそも耳や口元を思うがまま触ったのも自分だった。
「千春」
「あ、はい」
「俺は」
金色の瞳が千春を見据える。
「嫌とは言わなかったな」
「うん、そうだね──」
「俺は、嫌とは、言わなかった」
「なんで今、念押ししたの……」
強調するように繰り返され、思わずつぶやく。
送り犬は答えず、尾をゆっくりと床板の上で揺らすだけだった。
その日の夜、千春は昼の自分の迂闊さを悔やむことになった。
送り犬はただ同じことをしただけだった。観察するように、確かめるように、昼間の千春がしたことをなぞっただけ。
それでも、される側になると話はまったく違った。
自業自得だとわかっていても、眠りにつくまでにかなりの時間がかかった。
朝起きて、犬の姿の送り犬を見ても、心臓はまだ変なふうに跳ね回っていた。




