外から見れば
何度も見た資料を、また床板の上に広げる。
難しげな文字がこんなに並んでいるのに、その実、手がかりになりそうなことはなにも教えてくれはしなかった。
滞在中、気詰まりを感じれば外に出た。送り犬と話しながら、目的もなくただ歩く。住処に戻ると、また資料と睨めっこをする。夜は人の姿になった送り犬の隣で眠る。
焦る気持ちとは別に、山にいるのは楽しかった。何が、かはわからない。送り犬がいるから、としか言えなかった。
毛並みの触り心地も、人の姿になったときの手の大きさも、体温も、知ることは増えていく。なのに、知らなきゃいけないことは、なにも掴めないままだった。
一緒にいる時間ばかりが増えて、そのぶん、残りの時間があっという間に減っていく。
あと二回。
あと二回しかない。
その数は、何をしていても胸の奥から消えてくれなかった。
「来た」
資料を手にしたまま考え込んでいた千春に、送り犬がそう言った。
「うん? 誰が?」
「山伏の親子だ」
送り犬は四本の脚で軽やかに立ち上がると、戸口へと向かった。千春も板戸の隙間から外を見る。ほどなくして、木々のあいだから白い装束の二人が現れた。
「こんにちは。邪魔をしてもいいかな」
にこやかに笑っている安河の少し後ろで、岳斗は相変わらず難しい顔をしていた。
「こんにちは、安河さん。岳くんも」
「岳くんって……まあなんでもいいけど」
岳斗がどこか不服そうに呟く。安河は気にした様子もなく、手にしていた小さな紙袋を差し出した。
「これ、千春さんに」
「え」
「山で何か食べても平気かどうかは、あなたのほうが詳しいと思うんだけど、よかったらどうぞ」
受け取って中を覗く。
華やかなパッケージの菓子が入っていた。
「わ、バターサンドだ」
「また来ているかなと思ってね、買っておいたんだ。お口に合えば」
「ありがとうございます。あ、中に入りますか?」
「そうさせてもらって構わないかな。少し、また話を聞かせてほしい」
中に入ってもらってすぐ、安河が床板の上に広がっている紙に目を止めた。
「調べもの?」
「あ、はい。この前、教えてもらったことが気になったので、いろんな地域の送り犬の話を調べてみたんですけど……結局、よくわからなくて」
「そうだろうね。東北から九州まで、広く伝わっている民話だから……これ、見ても?」
「はい。送り犬は、妖怪だとか、山犬だとか、ニホンオオカミだって書いてあったりもして……。転んだらいけない、のルールはどこも似ているみたいなんですけど……」
安河は資料に目を落としたまま答える。
「そうだね。同じ名で呼ばれていても、土地によって姿が変わったりするのは珍しいことじゃない。人が語り継ぐうちに、怖いものにも、ありがたいものにもなったりしてね」
千春はちらりと送り犬を見た。
「じゃあ、やっぱり……」
「この送り犬がなんなのか、は──簡単には、わからないだろうね」
千春は小さく息をつく。
安河は送り犬へ視線を向けた。
「送り犬自身にも、わからないんだったな」
「わからない」
「そうか」
安河は顎に手を当て、考え込むように黙った。
そのすぐ隣にいた岳斗が、部屋の隅のタオルケットとクッションに視線を向けて言った。
「あれは? あんたの荷物?」
「うん。泊まるときに使うから」
「泊まる?」
岳斗が眉を寄せる。
「日帰りじゃないのか」
「うん。いつも三日くらいいるよ」
「……呆れた。山で夜を越すなんて、命知らずすぎる。あんな荷物まで持ち込んで……」
「え、あかんのかな。送り犬も神様も、荷物持ってきてることは別にだめって言わなかったけど」
「そっちサイドを味方にして言い返すのがもうおかしいんだけどな……」
岳斗は頭が痛そうに額を押さえた。
安河が苦笑いする。
「送り犬が守っているのだろうが……千春さんは本当に山が怖くないんだね」
「はい。一緒なら、大丈夫かなって思います」
千春は、言いながら送り犬の背に手を伸ばす。
「昼にあちこち歩くのも楽しいですし。夜になると送り犬が人になるんですけど、それにも最近やっと慣れてきて──」
「え?」
「は?」
二人のその声と目を剥いた表情に、千春は言葉を止めた。住処の中が、しんとする。
一拍置いて、安河が言った。
「千春さん……人になるっていうのは」
「あ……なんか山の神様にそういうふうにされたみたいなんですけど……」
安河は黙った。
岳斗はより一層、顔をしかめていた。
「いや、慣れるなよ。怖がるところだろ、犬になったり人になったりするなんて……」
「怖くは、ないんやけど……うーん」
なんとなく頬が熱くなり、千春は俯いた。
「……千春さん。確認なんだけど、送り犬は……その、男の姿なのかな」
「え、あっ、はい」
安河は口を開けたまま、千春を見た。それから、送り犬を見る。そのままタオルケットのほうへ視線を向けかけて──おもむろに顔をそらした。
「おっと……。いや、これは息子の前で踏み込む話ではないな」
安河はそこで咳払いをしながら言った。
「……なるほどね」
「父さん、なに」
「いや、うん……送り犬が、千春さんに危害を加えないのは、本当なんだろうなと思ってね。泊まりがけでいて、さんざん隙があるところも見ているわけだろうし。あとは……まあ……野暮なことは聞くまい」
安河はそれ以上、この話を続けなかった。
千春は、安河が何かを誤解しているのだと気付いた。焦って否定しかけたが、言葉が出てこず、ますます顔が上げられなくなった。
こちらに来るたび、夜ごと隣で眠っているのは本当のことだ。送り犬と。男の姿の。
気まずさから、ちら、と送り犬のほうを見る。
送り犬はやっぱり何も言わず、いつも通りの顔で千春の隣に座っているだけだった。




