おいで
気まずい沈黙を切るように、安河が咳払いをした。
「今は、送り犬のことについてだったね」
それからしばらく、千春と安河、岳斗は、それぞれに資料を手にとって話し合った。
送り犬は何も話さず、ただ千春の横で座っている。
気づけば、安河と岳斗の議論が盛り上がっていた。千春もはじめこそ質問を挟んでいたが、次第に難しい話になっていき、安河にすすめられるままお菓子を食べることにした。
「あ、おいしい」
一口かじり、思わずそう言う。送り犬がこちらへ顔を向けた。
「これ、流行ってるんだよ。食べてみたかったんだ」
そう言って笑うと、送り犬の目がやわらかく細まった。
「そうか」
「食べる?」
「食わない」
千春は食べながら、どこで売っているらしいとか、行列ができるらしいとか、つい話を広げてしまう。送り犬は遮らず、ときおり短く相槌を打ち、ただそれを聞いてくれていた。
いつしか、住処の中に響いているのは千春の声だけになっていた。
安河と岳斗はいつの間にか黙り、千春と送り犬の様子を見ているらしかった。千春がそれに気がついたころ、二人はおもむろに立ち上がる。
「長居しすぎたね。そろそろ帰るよ」
「あ、はい。お菓子、ありがとうございました」
「うん。ときどき、送り犬のところに様子を見に来るよ。タイミングが合えば、千春さんとも会えるかな。そのときはまた話を聞かせてほしい……千春さんは、残りの回数も来るんでしょう」
「はい」
千春がすぐに頷くと、岳斗が小さく呟いた。
「……そういうところなんだよな」
「え?」
「いや──」
岳斗は送り犬をちらりと見たあと、首を振るだけで何も言わなかった。
親子と一緒に住処の外へ出る。空気が少し冷たかった。
どこかでカラスが一声鳴いたが、枝の上を見てもその姿は見えない。
「あの、途中まで、ついていってもいいですか?」
「ありがとう。でも、道はわかるよ」
「少し歩きたいんです。ずっと中にいると、神様にまた何か言われそうなので」
安河は苦笑しながら答えた。
「では、途中まで」
送り犬が先に歩き出す。安河がそのすぐ後ろにつき、何かを問いかけていた。
千春も後を追う。
「あんたも送り犬も」
隣に並んだ岳斗が硬い声を落とした。
「互いに、業が深いよな」
「え?」
「責めてるわけじゃない」
岳斗は前を歩く送り犬を見ながら言った。
「ただ、そう見えるってだけだけど」
「業が深い……」
「相手を、本来いるべき場所から外れさせてる自覚はあるのかなって」
「……」
千春はすぐには答えられなかった。
「あんたはまた来ると平気で言う。送り犬はそのたびにあんたを迎える。ただ会いたいだけって前に言ってたけど、期限があるのもわかってるはずなのにさ」
岳斗は小さく息を吐いた。
「どっちかだけが悪い話じゃないんだろうけど」
千春は返事をしなかった。
「……」
「……おい」
声をかけられ、ようやくはっとする。眉を下げた岳斗がこちらを見ていた。
「あ……ごめん。考え事してた」
なんでもないような声で応えると、岳斗は意外そうに目を瞬いた。
「怒らないんだな」
「いや、岳くんから見たらそうなんやなと思って……」
千春は前を歩く黒い背中を見た。
送り犬は、千春が来ると言えば拒まなかった。いつも道の口で待ち、帰るときには送ってくれた。
撫でれば尻尾を振り、話しかければやわらかく目を細めてくれる。触れ合いたいのも、どちらか一方のものではないとわかった。今、ここで会えていることは、互いに嬉しいのだと、そう思う。
でも、この関係には期限がある。
残りはあと二回。
七度目を終え、山の神を介した婚姻を選ばなければ、もう二度と送り犬と会うことはできない。
わかっている。
わかっているのに、千春は何度も来た。
「業が深いのは、私かも」
ぽろりと言葉が落ちた。胸が波立つ。
「え?」
「あと二回しか来られないってわかってて、会えなくなったら、寂しくなるのもわかってるのにね」
揺れ始めた波が、ひどく大きくなるのを感じた。会えなくなるのを想像しただけで、のみ込まれそうになるほど、大きく。
「そもそも、道をまた開けられるようになってほしいっていうのも、私が勝手に思ってるだけかもしれないし」
山へ来てほしいと、送り犬のほうから言われたことは一度もない。
送り犬がこの先も会いたいと思っているのかも、はっきりと訊ねたことはなかった。
「……それでも、私──」
なにを話したいのかもわからないまま口を動かしていたが、喉がつんとして、そこで声が上擦った。
隣にいる岳斗が慌てた様子で何か言うより早く、いつもの低い声が耳に届く。
「千春」
顔を上げると、前を歩いていた送り犬が、安河の隣で足を止めて振り返っていた。
「おいで」
誰が、誰に言ったのか、一瞬わからなかった。
それは、寝る前にいつも自分が送り犬を呼ぶための言葉だった。
山へ来てほしいと言われたわけではない。ただ、今この場で、隣へ呼ばれただけ。
それでも、その言葉に一気に頬が熱くなった。
「うん」
返事をする声は頼りなかった。
千春は早足で、送り犬の隣へ並ぶ。
その場所に立った途端、波立っていた胸の奥がすっと落ち着くのがわかった。
それが、ほんの少しだけ後ろめたかった。




