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業が深い



 業が深い。

 夜になってからも、千春はその言葉を考えていた。


 住処の中は静かだった。夜の暗さが、戸の隙間からじわりと染み込んでくる。千春は、人の姿となった送り犬と並んで壁際に座り、資料を手に取って眺めていた。

 けれど、字面はなかなか頭に入ってこない。


 ──あと二回しか、来られない。


 道のことも、送り犬のことも、何もわからないまま。残された猶予だけが減っている。


 それなのに、前より送り犬から離れがたくなっていた。四年前、送り帰してもらったときよりも。畑跡で、もう一度会いたいと願ったときよりも。再会したばかりのときよりも。

 今のほうが、ずっと。


 千春は唇を噛んだ。

 そうしたのは、誰だろう。

 はじめは、山の神が気まぐれに道を開いた。

 でも、それから先、何度も来ると決め、会いに来ているのは紛れもなく自分だった。


 業が深いのは、私だ。

 食べないでいてくれることに、甘えて。

 その次は、迎えに来てくれることに甘えた。


「千春」


 送り犬が、こちらを見て言った。


「どうした」


 千春は何か言おうとして、うまく息ができずに一拍黙った。胸の奥がずしりと重い。


「……ミカヅキ」


「なんだ」


「ごめんね」


 ようやくそれだけを言った。千春は小さく息をついてから続ける。


「何度も来て……会いたいって思って」


 言ってしまうと、それはもう取り消せないもののように思えた。千春は膝の上のタオルケットを握りしめる。


 来れば、送り犬が迎えてくれるのをわかっていた。

 それが嬉しくて。また来るね、って言いたくなって。

 ずっとそうしていられるわけじゃないと、わかっていたのに。


「でも、それでも。私、もう来ないっていうのだけは……どうしても言えない。残りの二回も、来たいって思っちゃう」


 それだけじゃない。


「この先も……もし会えるなら、何度だって送り犬に会いたいとも思う。だから……ごめんね」


 送り犬はしばらく黙っていた。住処の中に、夜の静けさだけが満ちていく。

 

「千春」


「……謝るなって言う?」


「言わない」


 思わず瞬きをした。

 送り犬はいつもみたいに、謝るなとは言わなかった。


「千春のそれを受け取る」


 送り犬がそう言ったとき、ちょうど風が吹いたらしかった。住処の壁が小さくかたかたと音を立てる。

 それでも、千春の目は送り犬から動かなかった。いつもの金色のなかに、深い色がひとすじ混ざったように見えたからだ。


「だが、その必要はない」


 風の音を気にする素振りも見せず、送り犬は言葉を続けた。


「これでよかった」


「……よかったの?」


 送り犬が頷く。


「食べなかったことも?」


「そうだ」


「会いたいって願ったことも?」


「そうだ」


「……私、離れるのが辛くなっちゃったのに?」


 送り犬は少し黙った。その目が、ほんのわずかに伏せられる。けれどすぐに、まっすぐこちらへ視線を戻した。


「これでよかった」


「……っ」


 重かった胸の奥から熱いものが迫り上がる。

 たまらなくなって、千春は慌てて顎を引いた。


「千春」


 その声は、いつも通りだった。静かで、低くて。

 少し間を取るような、その名前の呼び方も。


「千は、たくさん。春は、春だな」


 その言葉を続けられ、涙がとうとう一つこぼれた。


「千春を知る前に、戻りたいとは思わない」


 同じだ、と思った。そう思うと、どんどん涙が溢れてきた。千春も、送り犬を知る前に戻りたいと思ったことはない。

 頬を伝う大粒の雫は、もう止めようがなかった。


「千春は、帰るべきだ」


 胸がひゅっと冷えた。

 わかっている。

 それでも、送り犬の口から言われると、どうしようもなく痛かった。


「……うん」


「人の世で暮らすべきだ」


「うん」


「山にいるべきではない」


「……うん」


 頷くたびに喉の奥が窄まって、声にならない嗚咽が漏れた。


「千春は、何度も来た」


 送り犬が向き合うように座り直す。

 俯いた千春の顔を下から覗き込んだ。


「俺は、もう来るなとは言えなかった」


 そのまま、わずかな沈黙が落ちる。

 千春が濡れた目だけを持ち上げると、すぐに送り犬と目が合った。途端に、金色の瞳が柔らかく細まる。


「──今も、言えそうにない」


 困ったみたいな諦めたみたいな、でもちょっとだけ。ほんのすこしだけ、笑ったようにも見える表情で送り犬がそう言った。

 そんな顔を、するのだと思った。


 送り犬の手が千春の頬をなぞる。指の腹で涙を拭ってくれているのだと気付くと、その手つきにまた視界が滲んだ。


「私のこと、覚えててくれて嬉しかった」


 声が上擦り、肩が震えた。

 

「いつも、迎えてくれて、送ってくれて嬉しかった」


 何度も唾を飲み込みながら、続ける。


「ミカヅキ、ありがとう」


 送り犬は、今度もそれを遮らなかった。


「ごめんね」


 それも、遮らなかった。


 よほど強い風が吹いたのか、板戸ががたん、と大きく鳴った。


「私……離れたくない」


 また目が熱くなる。


「どうしたらいいんだろう。神様を介さずに、会えたらいいのに」


 ぽつり、ぽつりと言葉がこぼれる。


「七回までとか、あと二回とかじゃなくて。会いたいときに、会いに来られたら」


 言ってしまってから、また同じことを勝手に願っていると思った。謝ったばかりなのに。

 でも、この願いだけは、どうやっても手放すことはできそうにない。

 千春は自分でごしごしと目元を擦った。


「──私、やっぱり諦めたくない」


 送り犬の衣の裾をちょっとだけ掴んで言った。


「なんとかなるって、信じたい」


 外の風は続いているらしく、また板戸が音を立てて揺れた。さっきよりも、少し長く。


「だから……また会いに来るね」


 そこまで言うと、涙は止まった。送り犬は何も言わず、ただ、黒い衣を掴む千春の指先を見ていた。


 頬に添えた手を離す気配がないままに、もう片方の大きな手がゆっくりと背に回される。

 嫌がっていないかを確かめるように、送り犬は千春の様子を見ていた。千春は止めることも、頷くこともできなかった。泣いたあとの身体は、自分のものではないみたいに重い。それでも千春は、衣の裾を掴んだ指だけは離さなかった。


 身体を引き寄せられ、容易く距離は縮まる。


 頭の芯がぼんやりしたまま、千春はただ送り犬を見返していた。見つめ合っていても、不思議と戸惑いや照れはなかった。

 胸の奥はまだ疼くのに、近くにある体温や、呼吸の気配のほうが先に届いていた。


 高窓から差す月明かりの下で、まつげの一本一本まで見える距離だった。その奥にある瞳が、こちらを見ている。


「ミカヅキ」


 なんとなく、その名前を口にした。

 送り犬の耳が動く。


 千春は金色の瞳から目が離せなかった。


 綺麗だと思う。

 暗がりに浮かぶ月みたいで。

 虹彩が幾筋もきらきらとしていて。


 それが、ゆっくり近づく。


 近づいている。

 そう気づいたときには、さらに引き寄せられていた。


 その瞳が伏せられる。


 送り犬の顔が、わずかに傾いた。


 頬の手が、千春の顔を上向ける。


 鼻先が触れかけて──そこでようやく千春は声を上げた。


「わっ」


 声が裏返る。


「待って、待って」


 送り犬はぴたりと止まった。

 近づいた姿勢のまま、少しも動かない。

 千春は自分で言った「待って」の効き方に、また別の意味で慌てた。


「えっと、違う、待っては待ってなんやけど、そうじゃなくて」


 その距離のまま首を傾げられる。黒い髪が自分の前髪の上をさらりと滑った。その感触に、一瞬、言葉が飛ぶ。


「あっ……」


「なんだ」


「ええと、あの、一回離れて」


 そう言うと、背と頬に手は添えたまま、送り犬は少しだけ身を引いた。


「わ、私、それ教えてないよね」


「それ?」


「え……? 今、何しようとしたの」


「鼻を寄せた」


「鼻? 口じゃなくて?」


「口?」


 送り犬は不思議そうに繰り返す。


「……いや。でも、鼻だとしても、私それ教えてないよ」


「俺が」


「?」


「したいだけだ」


 吐くべき息が遅れた。

 教えていない──送り犬が、自分でしたいと思ったこと。そのことが、さっき近づいたことよりもずっと、千春を落ち着かなくさせた。


「千春が嫌ならしない」


 どうしよう。


「だめと言われたらやめる」


 わかってる。でも。


「千春」


「……一瞬。……一瞬だけね」


「わかった」


 千春はぎゅっと目を閉じた。唇も引き結ぶ。

 身を固くしたまま、近づく気配だけを感じ取った。


 前髪が揺れて、そして。


 鼻先が触れたのは、ほんの一瞬だった。


 送り犬はすぐに顔を離す。


 自分でも知らないうちに千春は息を止めていたらしい。

 ゆっくり目を開けながら、「は」と浅い息が漏れた。


 なんでもないような顔をして、送り犬はこちらを見ていた。千春の心臓は、痛いくらいに胸の内側を叩いているのに。


「……これは、犬の挨拶とか、そういうやつ?」


「わからない」


「……………………そっか。そっかぁ……」


 落ち着こうとしてもうまくいかない千春のことを、送り犬はまだじっと見続けている。


「千春は、口を寄せると思ったのか」


 言われて、身体が跳ねた。気まずさから目を逸らす。


「なぜ」


「なぜって……それは……」


 ──キスされると思った、なんて。

 言えるはずがない。あまりにも恥ずかしかった。

 でも、答えないでいても、送り犬の「なぜ」はきっと終わらない。


「……人は、その……口と口を近づけることがあるから」


「なぜ」


「なぜ……!? なぜ……」


 泣いたあととは別の理由で顔が熱くなった。


「意味が、あるんだよ」


「意味」


「……好き、とか。そういう」


 送り犬の耳が動く。

 

「口と口なら、意味があるのか」


「意味は、あるけど」


 千春は両手で顔を覆った。


「それは、まだ早いかも」


 そう続けた自分の言葉に、自分自身で固まった。

 まだ。

 まだ、とは。


「まだ」


 低い声が繰り返す。

 しまった、と思った。


「あ、ちがう。今のは拾わなくていい。覚えなくていいから!」


「覚えた」


「あぁ〜っ……覚えちゃった!」


 千春はうなだれた。送り犬は、千春の言葉をしっかりしまい込んだ顔をして、尾をゆっくりと一度だけ揺らす。


 困る。とても困る。

 

 でも。


 ふ、と息が漏れた。ふふっ、とそのまま自分の声が続く。泣いたあとで頬が引きつるのも気にせず、千春は笑ってしまった。


 それを見て、送り犬の目が柔らかく細まる。


 この表情が、好きだと思った。


 少し迷ってから、千春は送り犬のほうへ身を寄せた。肩に額を預ける。人の姿の肩は広くて、犬の姿のときとは違う。でも、どちらも送り犬だ。


「……私、重くない?」


「千春は軽い」


 送り犬はなんでもなさそうにそう言った。聞きたかった答えかはわからないが、千春の口元は緩む。

 小さなやりとりをいくつか交わしたあと、ふたりとも黙った。肩に額を預けたまま、千春は目を閉じる。


 あと二回。

 その数は消えない。山の神の条件も変わらない。帰らなければならないことも、わかっている。

 それでもこうしている間だけは、なにも考えたくなかった。送り犬もなにも言わない。


 その沈黙が、今はやさしかった。

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