違う
拝殿の奥は、相変わらず薄暗い。
「山伏どもが、また来ておったな」
「お菓子をいただいて。おいしかったです」
「呑気なものじゃ」
くつくつと笑った山の神が、ゆっくりとその声を静めていく。千春をじっと見つめて、口を開いた。
「近ごろ、山に嫌な風が吹くな、チハル」
「……嫌な風……ですか?」
「犬の巣には吹いておらぬか」
「? たまに風強いなってときはありますけど……こっちにも台風とか関係してるんですかね」
山の神は何も答えない。的はずれなことを言ったのかもしれない、と千春は思った。
視線だけが、そのまま千春に留まっている。
「あの……?」
「……いや」
そのゆるい微笑みはいつもと変わらないようにも見えた。
「──さて、チハル。五度目の帰り道を開く」
「はい」
「婚姻の是非、そろそろ腹は決まったか」
言葉が詰まった。山の神はいつもの言葉を続ける。
「残りはあと二度じゃな。来ぬでもよいぞ」
「……また、来ます」
ようやくそれだけを答えると、山の神は目を眇めた。
「ふふ。声が重うなったなぁ、チハル」
楽しげな声に、千春はますます何も言えなかった。
帰り道、枝の上には黒い影があった。一羽ではない。飛び立つでもなく、鳴くでもなく、ただこちらを見下ろしている。
神の目になるカラスたちだ。
千春は顔を上げすぎないようにして、足元へ視線を戻した。少し後ろから、た、たん、と軽い足音が続く。送り犬の、いつもの足音だ。
砂礫地に辿り着き、二本の木杭に綱がかかっているのを見上げると、千春の足は止まった。
向こうへくぐれば、帰れる。
あちらとこちらでは、時間の進みが違う。山で過ごした数日は、あちらではたったの数時間にしかならない。
それでも、山で過ごした時間が軽くなるわけではなかった。その切り替え方もわからないまま、今は帰るしかない。
「どうした」
その声にはっとする。送り犬が足元まで来ていた。金色の瞳がこちらを見上げている。
枝の上には黒い影がまた増えていた。山の神に見られている──そう思うのに、千春はその場にしゃがんだ。
「ミカヅキ」
呼びかけ、そっと手を伸ばす。黒い身体に触れた。少し硬い毛は、指を沈めるとあたたかい。
「私、また来るね」
送り犬の額に、自分の額を寄せる。
「今度までに、もっと調べてくる。だから……また、迎えに来てくれる?」
送り犬は答えず、額を擦り付けるように動かした。短い毛がくすぐったく触れる。
千春は目を閉じた。
しばらく動けなくなった。
「千春」
低い声が名前を呼ぶ。
「うん」
何を言われたわけでもない。
それでも、促されるように立ち上がる。千春は振り返らずに綱をくぐった。
──そう。
このときはもっと、ちゃんと調べてくるつもりだった。山のこと。送り犬のこと。 山の神を介さずに、あちらへ行く方法。図書館にも行って、ネットでも調べて、安河に聞いた言葉も自分で確かめてみようと思っていた。
六度目の来山は、そういうつもりだった。
少なくとも、あんなふうに走ってくるつもりではなかった。あんなふうに山へ逃げ込むなんて、想像もしていなかったのに。
◇
「千春」
大学の飲み会の帰りだった。
店の外へ出たところで、名前を呼ばれた。
振り返るまでにほんの少しだけ間が空いたのは、その声を、知っていたからだ。
見知った男がこちらを見ていた。短い期間付き合った人。別れたあともときどき連絡が来ていたが、今は友達とも、友達だったとも表しがたい人。悪い人ではない、と思う。たぶん、本当に、悪い人ではなかったのに。
「なあ、千春。ちょっと話せへん?」
一歩、近づかれただけで、酒の匂いが鼻につく
「ごめん。今日はもう帰るから無理やわ」
「じゃあ、家まで送ろか。夜道危ないやろ」
笑っているのに、目の奥はよく見えない。
「えー、酔ってる人に送られるの嫌や」
冗談めかしてそう言うと、彼の目が弧を描いた。
その視線がするりと千春の身体のあちこちを滑った気がした。見られた箇所を拭いたくなるような心地になる。
「……ほんまに大丈夫。このあとお母さんに電話する約束してるから、ほなね。バイバイ」
手を振り、すぐ近くのコンビニへ足を向けた。彼から距離を取り、やり過ごすつもりだった。
スマホを取り出し、画面も見ずに耳へ当てる。
「あ、お母さん。うん。今、出たとこやよ」
誰にも繋がっていない電話に早口で話しかける。
自動ドアをくぐり、明るい店内に入った瞬間、ようやく息をついた。何も買わずに出るのも気が引ける。目についたものをかごへ入れていった。会計し、袋を受け取って外へ出る。
そこに、いた。
街灯の下。
彼は、こちらを見ている。
千春はもう一度、ポケットに手をやった。スマホを耳に押し当て、声を出す。
「うん、今から帰る。大丈夫」
目を合わさずに、彼の脇を抜けた。
「もうすぐ家やし、大丈夫やよ」
誰にも届かない声を暗がりに落とす。
背後から足音がついてくるのに気づくまで、そう時間はかからなかった。
千春の足音に重なって、アスファルトを踏む音がする。
少し離れたところで。でも、そのまま離れていくわけでもなく、同じ方向に進んでくる。
靴先をすこし引きずるような、癖のある音だった。
あの軽い足音じゃない。
千春は歩幅を広げた。
背中越しに視線が突き刺さっている気がした。
けれど、振り向く勇気はない。
街灯の光が遮られたとき、足元に濃いシルエットが二つ並んでいるのが見えた。途端に息が浅くなる。
「千春」
背後から名前を呼ばれ、その声が鼓膜に触れた瞬間、全身が総毛立った。
違う。
あの声じゃない。
違う!
気づいたときには、走り出していた。
リュックが背中で跳ね、コンビニ袋が太ももにぶつかる。薄いサンダルが脱げかけて、千春は足の指に力を入れた。
「あないもうす」
息が詰まる。
「あないもうす、あないもうす」
八咫烏からの返事はない。
「千春です!」
問答にはなっていない。
それでも続けた。
「送り犬に、会わせてください」
視界が揺れる。
葉擦れの音が耳に満ちた。
街灯の光が遠ざかり、足元からアスファルトの硬さが消えていく。
湿った土の匂いがした。
山も、夜だった。
しんとしていて、薄暗い。
整いきらない息のまま、千春はようやく後ろを確認した。もう彼の姿はない。
木々の間から、人影がこちらへ歩いてくる。
黒い髪。金色の瞳。
「千春」
その声を聞いた瞬間、千春は走った。
考えるより先に、身体が動いた。袋を提げたまま送り犬の胸へ飛び込む。長い腕が、力強く千春を受け止めた。
そこでようやく、息が震えた。
「ミカヅキ」
名前を呼んだら、涙が出た。




