第八話 見えていなかった条件
翌朝。
俺は装置の前に立っていた。
昨日と同じ装置。
昨日と同じ画面。
昨日と同じ、何の変哲もない銀色のチャンバー。
なのに。
今日は見る目が少し違った。
技術顧問の言葉が、頭から離れない。
本当に同じ条件だったのか。
昨日までなら。
温度。
圧力。
成膜時間。
材料。
基板。
そこまで確認して同じなら、同じ条件だと思っていた。
でも。
それでは作れなかった。
なら。
俺たちが条件だと思っていない何かがある。
「おはようございます」
後ろから声がした。
主任だった。
相変わらず表情が薄い。
「おはようございます」
主任は資料を机の上に置いた。
「昨日の続き、やります」
「はい」
「朝から元気ないですね」
「誰のせいですか」
「私ではありません」
「半分くらいは主任のせいです」
「違います」
即答だった。
こういうところだけ返事が早い。
俺は椅子に座った。
「で、何からやります?」
主任が資料を開く。
「まず、金曜日品と月曜日品の比較を整理しました」
一覧表。
主成分。
膜厚。
基板。
表面状態。
分析結果。
金曜日と月曜日。
一つずつ比較されている。
「何か分かりました?」
「決定的なものはありません」
「ですよね」
期待はしていなかった。
「ただ」
主任が一枚めくる。
「もう一度、微量成分まで整理しています」
俺は資料を見る。
Si。
当然だ。
O。
これもおかしくない。
その他。
微量元素がいくつか並んでいる。
その中に。
Ti。
「Ti?」
俺は指を止めた。
「チタンです」
「それくらい分かります」
「なら聞かないでください」
「いや、なんでTiがあるんです?」
主任はこちらを見る。
「最初の分析でも出ています」
「最初から?」
「はい」
「聞いてないですけど」
「報告しています」
「え?」
主任が別の資料を出す。
初日の分析結果。
下の方。
小さく。
確かに書いてある。
Ti。
検出量は微量。
備考。
装置由来コンタミの可能性。
俺はしばらく見た。
「……こんなの覚えてないですよ」
「私も当初は重要だとは考えていませんでした」
「コンタミだから?」
「はい」
「でも」
月曜日品を見る。
「昨日のやつには?」
「検出限界付近です」
「金曜には出てる?」
「全てではありませんが、分析した成功品では確認されています」
「…………」
少し引っかかった。
けれど。
まだ、それだけだ。
製造装置で微量コンタミが出ること自体、珍しい話ではない。
しかも。
新しい物質の熱源としてTiを考えるには、検出量が少なすぎる。
「Tiが反応して熱を出してるとか」
「量が合いません」
即答。
「ですよね」
「反応でTiが消費されているようにも見えません」
「じゃあ関係ない?」
「分かりません」
いつもの答えだった。
俺は資料を閉じた。
「結局、工程から探すしかないか」
「お願いします」
「主任もですよ」
「私は分析をしています」
「俺だけ仕事多くないです?」
「技術顧問の指示です」
便利だな。
全員それを使う。
*
そこから。
ひたすら照合した。
基板。
問題なし。
合成Si。
同じロット。
保管温度。
大きな違いなし。
前処理。
同じ。
作業時間帯。
違う。
ただし、それだけで説明する根拠はない。
湿度。
多少違う。
試す価値はあるかもしれない。
成膜前の待機時間。
違う。
これも候補。
装置の立ち上げ時間。
違う。
材料開封からの経過時間。
違う。
調べれば調べるほど。
違うところはいくらでも出てきた。
「無理じゃないです?」
昼前。
俺は机に突っ伏していた。
主任はモニターを見ながら答える。
「何がです?」
「違うところ、多すぎます」
「当たり前です」
「当たり前?」
「金曜日と月曜日です。全てが完全に同じである方がおかしいでしょう」
正論。
でも聞きたくない。
「じゃあどうやって絞るんです?」
「可能性の高いものから」
「どれが高いんです?」
主任がこちらを見る。
「それを考えるのがあなたの仕事では?」
「…………」
この人。
たまに本当に腹立つな。
「とりあえず」
俺は立ち上がった。
「もう一回装置見てきます」
「何を?」
「分かりません」
「……分かりました」
主任にまで呆れられた気がした。
*
装置の前に立つ。
何度見ても同じだ。
見慣れた設備。
何百回と触った画面。
異常表示なし。
警報なし。
圧力正常。
温度正常。
何もない。
「何が違うんだよ……」
一人で呟く。
装置を立ち上げる。
確認用の処理を走らせる。
ポンプが動く。
圧力表示が下がっていく。
いつもの流れ。
俺は表示を眺めていた。
そして。
「…………ん?」
何か。
変だった。
いや。
変ではない。
むしろ逆。
調子がいい。
圧力が落ちるのが早い。
安定も早い。
数値も綺麗。
警報もない。
正常。
何の問題もない。
「……早いな」
声に出た。
金曜日。
どうだった。
思い返す。
装置の前で待った。
妙に安定が遅かった。
設定を間違えたことばかり気にしていたから、大して意識していなかったけれど。
確か。
もう少し時間がかかった。
「主任」
少し大きな声で呼ぶ。
「何です?」
離れた机から返ってくる。
「ちょっと来てください」
「今ですか?」
「今です」
主任が面倒そうに立ち上がる。
装置のところへ来る。
「何でしょう」
「今日、この装置めちゃくちゃ調子いいんですよ」
主任が無表情になる。
「良かったですね」
「いや、そうじゃなくて」
画面を指す。
「圧力の安定、早いでしょう」
「規格内です」
「それは分かってます」
「なら問題ないのでは?」
「問題なさすぎるんですよ」
主任が俺を見る。
「意味が分かりません」
「俺も今、うまく説明できません」
少し考える。
装置の内部を見る。
壁面。
治具。
チャンバー。
妙に綺麗だ。
そこで。
本当に。
何気なく思った。
「……こんな綺麗だったっけ」
「何がです?」
「中」
主任も覗く。
「普通では?」
「いや……」
金曜日。
もっと汚れていた気がする。
別に異常な汚れではない。
成膜装置だ。
使えば少しずつ付着物が増える。
それが普通。
でも今。
妙に綺麗だ。
「主任」
「はい」
「この装置、週末なんかやってません?」
「私に聞かれても知りません」
「ですよね」
設備管理端末を開く。
履歴。
装置番号。
スクロール。
金曜日。
処理。
処理。
処理。
土曜日。
指が止まった。
定期チャンバークリーニング実施。
「…………」
主任が横から覗く。
「クリーニングされていますね」
「土曜」
「はい」
俺は画面を見る。
木曜日。
最初の一枚。
金曜日。
再現三枚。
土曜日。
クリーニング。
月曜日。
三枚失敗。
「主任」
「はい」
「俺たち」
少し考える。
言葉にする。
「ずっと月曜日に何が足りないか考えてましたよね」
「そうですね」
「逆じゃないですか」
主任の眉が少し動いた。
「逆?」
俺は装置を見る。
「月曜が普通なんですよ」
「……」
「クリーニングしたんだから」
もう一度履歴を見る。
「金曜の装置に」
そこまで言ったところで。
朝見た資料が頭に浮かんだ。
Ti。
微量。
装置由来コンタミの可能性。
「余計なものがあったんじゃないですか?」
主任の表情が変わった。
ほんの少し。
だが。
初めて、この人の顔に明確な反応が出た。
「……分析室に戻ります」
「え?」
主任はもう歩き出している。
「ちょ、待って」
俺も後を追った。
*
主任が金曜日品の分析データを開く。
月曜日品。
重ねる。
「Ti」
主任が呟いた。
俺も画面を見る。
「金曜品には出てる」
「はい」
「月曜品には?」
「ほぼ出ていません」
「装置由来って書いてましたよね」
「はい」
「じゃあ」
俺たちは同時に設備履歴を見た。
金曜日以前。
その装置で処理された材料。
一覧。
数日前。
Ti系材料。
俺は指差す。
「これ」
主任も見る。
「Ti系処理ですね」
「チャンバーに残った?」
「可能性はあります」
「それが土曜のクリーニングで落ちた」
「可能性はあります」
「だから月曜はできなくなった」
主任が俺を見る。
「まだ仮説です」
慎重だ。
でも。
否定もしなかった。
「試しましょう」
俺が言う。
「どうやって?」
「合成SiにTi入れて」
主任が少し考える。
「量は?」
「金曜品の検出量に合わせる」
「簡単ではありません」
「でも方向は見えるでしょう」
主任は数秒黙っていた。
「分かりました」
*
午後。
試作品を作った。
合成Si。
微量Ti。
成膜時間。
あの条件。
取り出す。
「…………」
銀色。
俺は思わず天井を見た。
「違うじゃん」
主任は冷静だった。
「仮説が間違っていた可能性があります」
「でもTiは絶対怪しいでしょ」
「怪しいことと、原因であることは別です」
「分かってますけど」
純水。
変化なし。
24℃台。
動かない。
俺は腕を組んだ。
「なんでだ」
金曜日にはTiがあった。
月曜日にはない。
Tiを入れた。
でもできない。
「量?」
「可能性はあります」
「もっと減らす?」
「それも候補です」
でも。
何か。
引っかかる。
俺は設備履歴を見る。
金曜日。
合成SiにTiを混ぜていたわけではない。
Ti系材料を処理した。
その後。
別の処理。
さらに。
俺たちの合成Si。
つまり。
「主任」
「何です?」
「金曜って、Tiを材料に入れてないですよね」
「はい」
「装置に残ってたんですよね」
「推測ですが」
「じゃあ」
言葉にしながら、自分でも考える。
「混ぜるのが違うんじゃないですか」
主任が俺を見る。
「どういう意味です?」
「金曜は」
装置を指す。
「合成Siの中にTiを入れたんじゃない」
「……」
「Tiが残っている場所に、合成Siを入れたんですよ」
少し沈黙。
主任も装置を見る。
「存在状態が違う」
「そう」
「なら」
主任が考える。
「チャンバー内に意図的にTiを残した状態を再現する?」
「それ」
言ってから。
少し笑ってしまった。
「要するに、わざと装置汚すってことですけど」
主任は笑わない。
「安全確認が必要です」
「ですよね」
「設備担当にも話を通します」
「怒られそうだな……」
「技術顧問指示と言えばいいのでは?」
俺は主任を見る。
「そういう使い方していいんですか」
「知りません」
この人。
案外悪いな。
*
準備には少し時間がかかった。
Ti系材料。
極薄の処理。
金曜日以前の履歴を参考にする。
完全な再現ではない。
あくまで仮説。
チャンバー壁面へ、ごく微量のTi由来成分を残す。
その状態で。
合成Si。
成膜時間三倍。
開始。
装置の前。
俺と主任。
二人とも黙っていた。
圧力。
温度。
時間。
進んでいく。
終了。
扉を開ける。
サンプルを取り出す。
一瞬。
言葉が出なかった。
油膜のような。
青。
紫。
見る角度で色を変える。
あの色。
「…………」
主任がサンプルを見る。
俺も見る。
「出た」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
測定場所へ運ぶ。
初期温度。
24.1℃。
主任がピペットを持つ。
「10 μL」
純水を落とす。
1秒。
2秒。
数字が動く。
26℃。
31℃。
39℃。
久しぶりに見る上がり方。
47℃。
55℃。
「…………」
61.3℃。
俺は画面を見た。
主任も。
誰も喋らない。
やがて。
「主任」
俺が言った。
「はい」
「これですよね」
主任はサンプルを見たまま答えた。
「一回です」
「…………」
やっぱりな。
「ですよね」
「一回しか出ていません」
「分かってます」
「再現とは言えません」
「分かってますって」
主任がこちらを見る。
「なら」
俺は次の基板を取った。
「もう一回やりましょう」
「同じ条件で?」
俺は少し考えた。
「いや」
Tiの量。
成膜条件。
金曜日の設備履歴。
まだ分からないことはいくらでもある。
一度できただけ。
偶然。
そう言われたら。
何も言い返せない。
俺は虹色のサンプルを見る。
最初の一枚は。
偶然だった。
二枚目から四枚目も。
今思えば。
条件を理解せず、その偶然をなぞっていただけだったのかもしれない。
でも。
今回は違う。
俺たちは。
仮説を立てて。
条件を作って。
そして。
狙って一枚作った。
だからこそ。
ここから先が必要だ。
「次は」
俺は主任を見る。
「どこまでズレても作れるか、見ません?」
主任の表情が少し変わった。
「Ti量?」
「それと成膜時間」
「因子を二つ同時に動かすと切り分けにくくなります」
「じゃあ、まずTiから」
「そうしましょう」
俺は次の条件を入力する。
さっきまで。
俺たちは、
なぜ金曜日にできたのか
を探していた。
でも。
もう違う。
これから調べるのは。
どうすれば、もう一度作れるのか。
そして。
偶然できたものを。
狙って作れるものに変える。
それが。
俺の仕事だった。
第8話 終




