第六話 再現不能
できなかった。
「…………」
装置から取り出したサンプルを、俺はしばらく眺めていた。
銀色。
いつもの色だった。
角度を変えてみる。
照明にかざしてみる。
それでも。
金曜日に見た、あの油膜のような虹色はどこにもない。
「違いますね」
隣から声がした。
物性分析班の主任。
月曜の朝から、この人と二人で装置の前に立っている。
時刻は九時を少し過ぎたところ。
約束どおり、俺は朝一で会社に来た。
上司もいた。
主任もいた。
安全管理にも話は通してある。
準備は万全だった。
同じ基板。
同じ材料。
同じロット。
同じ装置。
そして。
成膜時間は、規定の三倍。
金曜日に三回、同じ現象を確認した条件だ。
だから。
失敗するなんて考えてもいなかった。
「測ってみます?」
俺が聞く。
主任はサンプルを見たまま答えた。
「一応」
外観が違う。
その時点で期待はしていなかった。
それでも、決められた容器にサンプルを移す。
初期温度。
二十四・三度。
主任がピペットを持つ。
「十マイクロリットル」
純水を落とす。
俺は温度表示を見る。
二十四・四度。
二十四・五度。
二十四・四度。
「…………」
二十四・三度。
「上がらないですね」
「はい」
「もうちょっと待ちます?」
主任がこちらを見る。
「金曜日は?」
「ほぼすぐです」
「では必要ありません」
即答だった。
主任が測定を終了する。
俺はもう一度サンプルを手に取った。
裏を見る。
表を見る。
もう一度、光にかざす。
「おかしいな」
「何がです?」
「いや……」
何がおかしいも何も。
結果が違う。
それだけだ。
「どっか間違えたかな」
「確認しましょう」
主任がパソコンの前に座る。
装置ログを開く。
俺も隣に立った。
基板。
問題なし。
材料。
同一ロット。
成膜条件。
問題なし。
設定時間。
三倍。
装置番号。
同じ。
途中警報。
なし。
「合ってますよね」
俺が言う。
「ログ上は」
「ですよね」
主任は画面をスクロールする。
俺は金曜日に残したデータを開いた。
並べて見る。
少なくとも、記録されている範囲では大きな違いは見当たらない。
「じゃあ、何で?」
主任は答えなかった。
時計を見る。
まだ午前中だ。
「もう一回やりましょう」
主任がこちらを見る。
「同じ条件で?」
「どっか俺が間違えたのかもしれないし」
「ログ上では一致しています」
「でも、できてないんだから何か違ったんでしょう」
少し間があった。
「分かりました」
二回目の準備を始める。
基板を準備する。
材料を確認する。
装置を確認する。
今度は設定画面も、入力後に二人で確認した。
「時間」
「合ってます」
「温度」
「合っています」
「圧力」
「問題ありません」
「材料」
「確認済みです」
「じゃあ、始めます」
「どうぞ」
スタート。
装置が低い音を立てる。
待つ。
こういう時の待ち時間は長い。
普段なら、その間に別の仕事をする。
メールを返す。
資料を作る。
別の設備を見に行く。
でも今日は主任が横にいる。
なんとなく離れづらい。
五分。
十分。
「…………」
「…………」
気まずい。
何か話した方がいいのか。
「主任」
「何です?」
「昨日、休めました?」
主任の視線がゆっくりこちらへ向いた。
「今、その話必要ですか?」
「……いらないですね」
「はい」
会話終了。
俺は黙って装置を見た。
長い一日になりそうだった。
*
二回目。
銀色。
「…………」
「水、やります?」
「やりましょう」
十マイクロリットル。
二十四・六度。
二十四・七度。
二十四・六度。
変化なし。
「ダメですね」
俺が言った。
「はい」
主任は淡々としている。
「金曜日の写真を見せてください」
「これです」
社内端末に保存していた写真を開く。
一枚目。
虹色。
二枚目。
虹色。
三枚目。
虹色。
どれも今日のものとは明らかに違う。
主任が画面を見る。
「三つとも似ていますね」
「でしょう」
「温度記録は?」
「あります」
金曜日の記録を出す。
純水滴下後。
温度上昇。
三回とも同じような傾向を示している。
主任はしばらくデータを確認した。
「確かに」
少しだけ安心した。
昨日から何度も確認されているうちに、自分でも本当に再現していたのか不安になり始めていた。
でも。
記録は残っている。
金曜日。
確かに三回できている。
「じゃあ、今日だけ何か違うんですよ」
「そうなりますね」
「材料かな」
「同じロットです」
「基板」
「同じロットです」
「装置」
「同じです」
「レシピ」
「同じです」
「時間」
「同じです」
「…………」
言うことがなくなった。
主任が俺を見る。
「他には?」
「他?」
「金曜日と今日で違うものです」
考える。
「曜日」
主任が無表情になる。
「冗談です」
「今はやめてください」
「すみません」
怒られた。
俺は頭を掻いた。
でも。
本当に思いつかない。
*
昼休み。
上司が様子を見に来た。
「どう?」
俺は机の上のサンプルを指さした。
銀色が二枚。
「ダメです」
「二回とも?」
「二回とも」
上司が主任を見る。
「原因は?」
「まだ分かりません」
「条件は同じなんだよな?」
主任は少し間を置いて答えた。
「記録上は」
上司が俺を見る。
「金曜、本当に三回できたんだよな?」
「またそれですか」
少し強めに返してしまった。
「いや、確認だよ」
「できましたって。データも残ってるでしょう」
上司が両手を軽く上げる。
「悪い悪い。疑ってるわけじゃない」
主任が補足した。
「金曜日の三サンプルについて、外観と発熱現象は記録で確認できています」
「だったら、なんで今日はできないんだ?」
誰も答えなかった。
数秒経ってから。
主任が言った。
「それを調べています」
「……そうだよな」
上司が銀色のサンプルを一枚眺める。
「もう一回やる?」
俺はすぐ答えた。
「やります」
主任も止めなかった。
*
三回目。
今度は、始める前にさらに細かく確認した。
材料。
基板。
装置。
設定。
レシピ。
成膜時間。
二人で一項目ずつ見る。
「問題ありませんね」
主任が言う。
「はい」
開始。
俺はほとんど装置の前から離れなかった。
処理中の表示を見る。
圧力。
温度。
時間。
警報はない。
変な音もしない。
何も起きない。
普通だった。
普通すぎるくらいに。
そして。
終了。
装置を開ける。
サンプルを取り出す。
「…………」
俺は何も言わなかった。
主任も何も言わなかった。
銀色だった。
三回目。
失敗。
「水は?」
俺が聞く。
「確認します」
もう義務みたいになっていた。
十マイクロリットル。
二十四・二度。
二十四・三度。
二十四・三度。
二十四・二度。
終わり。
「……ダメか」
ため息が出た。
主任が記録を保存する。
俺は椅子に座った。
「意味分かんないな」
「ですね」
初めて主任が同意した。
画面には今日の結果。
三回。
すべて失敗。
その隣には金曜日のデータ。
三回。
すべて成功。
同じ材料。
同じ基板。
同じ装置。
同じ成膜時間。
少なくとも。
俺たちが条件だと思っているものは全部同じだった。
それなのに。
結果だけが違う。
「主任」
「はい」
「金曜に作ったやつ、もう一回測ってみません?」
主任がこちらを見る。
「発熱を?」
「はい」
少し考える。
「経時変化の確認もできますね」
「まだ反応するなら」
「やりましょう」
安全管理下に保管されているサンプルのうち、一枚を運んでもらう。
金曜日のサンプル。
虹色はまだ残っていた。
指定された容器から取り出す。
測定位置へ置く。
初期温度。
二十三・九度。
主任がピペットを持つ。
「十マイクロリットル」
一滴。
一秒。
二秒。
表示が動く。
二十五。
二十八。
三十四。
俺は思わず主任を見る。
主任は画面から目を離さない。
四十一。
四十九。
五十五。
「…………」
六十・一度。
そこで上昇が緩やかになった。
生きている。
金曜日に作ったものは。
今でも発熱する。
「測定系の問題ではなさそうですね」
主任が言った。
「ああ……」
少しぞっとした。
今日の三枚は何も起きない。
金曜日のものは今でも反応する。
つまり。
水の問題でもない。
温度計の問題でもない。
少なくとも。
サンプルそのものに何か違いがある。
「今日のやつも分析お願いします」
「そのつもりです」
「金曜のものと比較で」
「はい」
「何か分かりますかね」
主任は少しだけ間を置いた。
「分かりません」
即答だった。
でも。
その答えが、午前中より重く聞こえた。
*
夕方。
分析結果が出た。
俺は主任の横からモニターを見る。
「どうです?」
「違います」
「え?」
主任が二つのスペクトルを重ねる。
一つは金曜日。
一つは今日。
「あ……」
俺にも分かった。
例のピーク。
金曜日のサンプルに出ていた、データベースに一致しないピーク。
今日作ったサンプルには。
ない。
「やっぱり……」
自然と声が出た。
「今日のやつには、できてない」
「少なくとも、金曜日に確認された特徴は出ていません」
「じゃあ作り方が違う?」
「結果としては、何かが違います」
「でも条件は同じですよ」
主任がこちらを見る。
「本当に?」
「……え?」
「私たちが今日合わせた条件は、何です?」
質問の意味が分からなかった。
「材料と、基板と、装置と……」
「成膜条件」
「はい」
「それで全てでしょうか」
「…………」
答えられなかった。
主任は金曜日と今日のデータを並べる。
「最初の一枚は、途中で条件間違いに気づいた」
「はい」
「翌朝の三枚は、最初から長時間条件で作った」
「そうです」
「それでも四枚には同じような現象が出た」
「はい」
「そして今日、同じように三枚作った」
「出なかった」
「はい」
主任がモニターを見る。
「なら」
指先で金曜日のデータを軽く叩く。
「成膜時間だけが条件ではありません」
「…………」
それは。
なんとなく分かっていた。
認めたくなかっただけかもしれない。
三倍にした。
変なものができた。
だから。
原因は三倍。
そう考えた方が簡単だった。
でも。
今日。
三回やって。
三回ともできなかった。
主任が時計を見る。
十九時を回っている。
「今日はここまでにしましょう」
「もう一回くらい」
「同じ条件で?」
「……」
「三回やりました」
「はい」
「同じ条件でもう一度実施して、違う結果になる根拠はありますか?」
何も言えない。
「ないです」
「なら、今必要なのは回数ではありません」
主任が今日の結果をまとめ始める。
「条件そのものを見直す必要があります」
「でも……」
思わず言った。
「金曜日には三回できてるんですよ」
「分かっています」
「最初の一枚まで入れれば四枚です」
「はい」
「偶然ってことですか?」
主任は首を振った。
「逆です」
「逆?」
「一回だけなら、偶然で片づけることもできます」
主任が金曜日のデータを見る。
「でも、あなたは翌朝にも三回確認している」
「はい」
「なら、少なくとも金曜日には何かしら成立する条件があったと考えた方が自然です」
「…………」
「問題は」
主任が今日の銀色のサンプルを見る。
「私たちが、その条件をまだ条件として認識できていないことです」
言葉が出なかった。
金曜日と月曜日。
何が違う。
材料?
同じ。
基板?
同じ。
装置?
同じ。
成膜時間?
同じ。
じゃあ。
何だ。
ふと、装置を見る。
いつも使っている設備。
何百回と触ってきた。
見慣れた画面。
見慣れたチャンバー。
見慣れた音。
何も変わっていないように見える。
でも。
何かが違う。
主任が資料の最後に文字を入力する。
俺は横からその画面を見た。
再現性、確認できず。
たった一行。
それが。
今日一日のどのデータよりも重く見えた。
金曜日には四枚できた。
一枚なら。
偶然と言えたかもしれない。
でも。
四枚だ。
だから今日も作れる。
そう思っていた。
結果は。
三回やって。
三回とも失敗。
俺は机の上に並んだ銀色のサンプルを見る。
その隣のモニターには。
金曜日の虹色のサンプルが映っている。
同じ装置。
同じ材料。
同じ基板。
同じ成膜時間。
なのに。
今日。
俺たちは。
一枚も作れなかった。
第6話 終




